第5話 作戦決行!
「ん?後輩君が絵を描くの?」
「はい、俺が描きます」
2人しかいない美術室の空間に、少しの静寂が流れる。
「まぁ、体験…ってことなら歓迎だけど…絵描いたことないって言ってなかったっけ?」
「はい、授業外で描いたことはないに等しいです」
「え、じゃあ…なんで?」
莉佳は困惑したような笑みを含んで聞いた。それに俺は胸を張って答えた。
「先輩に、俺がいかに絵が描けないか見てもらうためです!」
「うん?あっ、そう…なんだ。いや、いいと思うよ、あの、描いてくれればちゃんと見るから」
「ありがとうございます!あっ、鉛筆はあるんですけど、紙がなくて…あとなんて言うんですかね、あの三脚みたいなやつ、貸してもらってもいいですか?」
「イーゼルね、好きなの取っていいよ~。紙は…はい、これ使って」
「あ、ありがとうございます」
びりびりとスケッチブックから1枚紙を切り離し、俺に手渡してくれた。
窓際に5つくらい並んだイーゼルを取ってきて、適当にセッティングする。
「じゃあ、描きますね。テーマとかって先輩が指定しますか?」
「うーんそうだなぁ、自分の手、描いてみてよ」
「俺の手…ですか…?」
「うんそう、君自身の手。まぁ簡単に言えばスケッチだね」
「わかりました、やってみます」
そうは言ったものの、毎日見ている自分の手なのにうまく描ける自信がない。
どの角度から描けばいいのかわからないし、どこから描き始めていいのかもわからない。
俺が自らの左手をじぃっと見つめて、手首をくるくるさせているのを見た莉佳は、愉快に笑った。
「顔怖いよ~、楽しく描こ?」
「は、はい…」
(楽しくって言ったってな…)
とりあえず筆を動かさないことには始まらないと思い、俺は小指から描き始めた。
左手と紙を交互に見やりながら、なるべく
それまで無音と化していた室内に、俺が鉛筆を断続的に走らせる音が響くようになる。
中指まで描き終えたところで、俺は一度手を止め、経過を確認する。
多少のバランスの悪さはあるものの、まったくの初心者にしては悪くないのではないだろうか。自分でも思っていたより少しだけマシに感じた。
俺が人差し指を描き始めたとき、俺と莉佳だけの空間に、また一つ音が加わった。
パシャッ
スマホのカメラの音だ。
それまで集中していた俺の意識は削がれ、辺りを見回してしまう。
目に入る範囲には莉佳しかおらず、彼女はスマホを片手に携えていた。
「え、先輩…撮りましたか…?」
「い、いやぁ、へへへ…」
少しだけほおを紅潮させ、ばつが悪いように頭を掻くそぶりを見れば、彼女がやったことは確定するようなものだ。
「なんで撮ったんですか」
俺はあくまでびっくりしただけで怒ってはいなかったので、苦笑を含みながら尋ねた。
「えっと、そうだなぁ…真剣に絵と向き合っている君を見てたら、自然と形に残したくなっちゃって。ほら、虹を見たら写真撮りたくなるでしょ?あれと同じ…かも」
「そうですか…」
「あぁでも嫌だったよね、ごめんね。すぐ消すから!」
「いや、いいですよ、消さなくても。別に怒ってはないので…」
「そ、そう?」
「はい、ちょっとびっくりしたっていうだけですから。絵に戻りますね」
「う、うん…」
そううなずいた彼女は、少しの間スマホの画面に目をやり、再び俺の方へ視線を戻した。
「できました…」
「お、見せて見せて~!」
やっとの思いで完成した俺が美術の授業外で描いた初めての作品は、よくできているとはとても言えないレベルだった。
小指から中指にかけてはかろうじて及第点のように思えるが、人差し指から親指にかけては、指の太さや線の濃淡がばらついてしまった。
なので、全体としてはバランスの悪いスケッチだった。
「ふむふむ…」
「どうですか?下手、ですよね」
「上手いか下手かで言えばそうなっちゃうけど、私はこれでも立派な作品だし、高校生の男の子って感じのなんていうのかな、パワーというか、ごつさって言うのかな?そういうものは感じるね。だから、すごく力がある作品だと思う」
「そう、ですか…」
”力がある作品”
彼女はそういう言葉を使った。
彼女の言う力とは、上手さでも、スケッチがどれだけ本物に似ているかでもなく、明確な基準では測れないもの、それを指しているのだ。
「前にも言ったけど、上手いか下手かなんて誰かが主観的に下す判断だしさ、あんまりあてにならないところもあるんじゃないかな。だから評価なんか気にせず、描きたいように描けばそれで正解。君は100点の絵を描いてくれたんだよ」
「っ…」
こんな風に真っ向から褒められるのは照れくさい。
だが照れくさいのと同時に、初めての作品をそう評価してもらえて、俺は嬉しい気持ちでいっぱいになった。
やはり彼女は、絵の上手い下手で判断する人ではないのだ。
「あ、ありがとうございます。入部についてはとりあえず、家に帰って検討します」
と言い残してそそくさと片づけをしようとしたその時、莉佳が声をかけてきた。
「あーちょっと待って。そういや私は後輩君の名前を聞いてなかったよ…申し訳ないけど、教えてもらってもいいかな?」
「うわ、ほんとですね。僕も自己紹介してませんでした。改めまして、1年C組の
「山本君だね。いや~すっきりしたよ、昨日君が帰ってから名前聞きそびれたこと後悔してさ~。まぁそれもあるんだけどさ、君に名前を聞いたのにはもう一つ理由があるんだ」
「なんでしょう?」
「スケッチの裏の隅にさ、自分の名前、書きなよ」
「え?」
莉佳の提案は俺にとっては想定外のものだった。
絵をよく描く人からすれば、自分の作品に自分の名を残すというのは普通のことなのかもしれない。
だが、俺にとっては新鮮で。
「は、はい、わかりました…」
「やっぱり自分の作品に名前書くとさ、愛着湧いてくるもんだよ。それにちょっと出来栄えよくなったように感じるし」
ニシシといたずらに笑った彼女は、悪だくみをする小学生のようにも見えた。
「今日はありがとうございました。先輩はまだ残りますか?」
「うん、自分の作品も進めたいし」
「そっか、そうですよね。ごめんなさい、今日は時間を奪ってしまって…」
「いいのいいの、気にしないで。またいつでも待ってるからね、山本少年!」
「あっはい。それでは」
「ばいばーい」
美術室の戸口で手を振ってくる莉佳に小さく手を振り返しつつ、俺は昇降口に向かう。
カバンの中で眠る自分の作品の存在を確かに感じながら。
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