第56話 あなたの声で⑨

 私は隅田と共に急いで待機所まで元来た道を戻ってきた。その報告を阿比留さんにしようと運転席を覗いたが、姿が見えない。



「あれ?助手席に阿比留さんが居ない。治療室にいるのかな?」



 車輛の後部は、ストレッチャーガード等を運搬できる広い間口を確保するために通常の救急車と同じように両開きのドアになっている。秘匿義務やプライバシーの観点から、通常の財団車輛と同様に窓は黒塗りになっており、外から窓を通して車内を覗いても何も見えないが、車の内側からならば鮮明に光景が見えるようになっている。従って、一見すると車両後部にいるのかが分からない。コンコン、と後部のドアをノックして呼びかける。



「阿比留さん?私です。」


「あぁ、君か。おいで」



 阿比留さんの声がして胸を撫で下ろした。きっと患者が来ると連絡があって、その準備をしていたに違いない。機動部隊員たちの戦闘も落ち着いたころだろう。――私はドアを開けた。



「おいで」



 目の前に真っ赤な何かが広がった。視界の端に映った何かが何か理解するには多少の時間を要した。水晶体から網膜のスクリーンを透過し脳にその資格の電気信号が到着するまでのほんの一瞬、私はフリーズした。それくらいショックだった。血を流して床に倒れ伏しているのは紛れもなく阿比留さんだったのだから。辺りには医療器具が散乱して、割れた薬品のエタノールが臭い。

 上を見上げると、大きな口に鋭い牙。そいつはまんまと罠にかかった私を見て、しゃぁぁあっと唾液と血の混じった液体を飛ばしながら私に向かって吼えた。びりびりと空気の振動を感じると共に、生臭い吐息が鼻につく。



「あッ……?え……?」



 私を呼び入れたのはScipだったのだ。その事実に気付いた時には、頭が真っ白になって体が硬直してしまっていた。



「井上さん!阿比留さんのバイタルが……。」



 隅田が遠くで私を呼ぶ声がする。



「あ、あ……!」



 足がすくんで動けない。私が我儘を言って隅田と待機支持のあったこの場を離れたから阿比留さんは襲われた?阿比留さんが隅田と行動を共にして私が車に残っていれば、阿比留さんは襲われなかった?――いろんなことが頭の中に渦巻いて、思考がぐちゃぐちゃだ。いまするべき行動を考えることすらもできない。



「下がって、井上さ……うわッ!?」



 驚いて隅田の方を見ると、傷を負ったアノマリーが彼に飛び掛かるのが見えた。恐らく吉野氏を襲ったものと同じ個体だろう。隅田が応戦し発砲している。……彼に助けを求める事は出来ない。

 私の前に立ちはだかるアノマリーがゆらりと動いたかと思うと、私に向かって鋭い爪を振り翳した。咄嗟に腕で顔を覆うが、身に着けていた衣類ごと腕を引き裂かれ鋭い痛みが走る。痛みに叫ぶ私の顔を見てそいつは嬉しそうにケタケタと笑いながら、阿比留さんの声で喋り続ける。



「おいで!さぁ!さぁ!!ひゃぁぁあ!ヒャーーッ!」



 そいつの後ろで横たわる阿比留さんが此方に顔をゆっくり向けた。良かった、まだ生きていたと安心するのも束の間、彼の顔は血でべっとりと汚れており痛々しい傷痕から血が滲んでいた。彼は懸命に何かを伝えようと口を動かしている。



「井上クン……逃げるんだ……」



 聞き取るのもやっとの小さな声だった。私は恐怖のあまり思わず後ずさる。そんな私を逃がすまいと、アノマリーが私の腕を掴む。握られた箇所がミシミシと軋み、血が止まっていく感覚がした。



「い、痛い!離して……離せってば!!!」



 あぁ、もう駄目かも知れない。私、ここで死ぬんだ――。そう思うと今までの色んな事が頭をめぐる。これが走馬灯というやつなのだろう。

 冴えない学生時代、勉強漬けの毎日。皆が放課後に街中に遊びに行くのに対し、私は塾か図書館ばかり。華々しい人生を歩んでみたいものだった。おしゃれをしてうんと垢抜けて、それで彼氏なんか作っちゃったりして……。その絵を思い浮かべようとするが、どうもうまくイメージでいない。私らしくないからだろうか。私に付き合っていけるのはこの冴えない私自身だけなのだから。――吹っ切れると逆に頭が冴えてきた。

 そして私は握っていた銃の事を思い出したのである。持ちうる限りの力を振り絞り、銃口をアノマリーへ突きつけ引き金を目いっぱい引いた。

 「ギャァァァアッッ!!」アノマリーが悲鳴を上げた。――有効だ。私は何発も何発も奴の身体に撃ち込んだ。激しい発砲音とそいつの叫び声で耳がおかしくなりそうだ。発砲の反動で銃がアノマリーから離れそうになるのを必死で押し付けながら一心不乱で銃を撃ちまくった。0距離で撃たれては急所が無いそいつも堪らなかったようで、握っていた私の腕を解放した。そのおかげでアノマリーと距離が生まれ、今度はそいつの頭部目掛けて引き金を引いた。



「アギャァアッ!イタイ!ヤメテ、ヤメ……!」


「死ね、死ね!死ねぇッ!!阿比留さんの声で喋るなぁぁあッッ!!!」



 カチ、カチと音がして銃から弾が出なくなる頃にはそいつは倒れて動かなくなっていた。隅田の方も片付いたのか、私が最後まで弾を打ち切る様子を黙って見ていた。




「阿比留さん!阿比留さん……ッ!!」




 銃を捨てて彼のもとに駆け寄る。うつ伏せになっていた彼の身体を仰向けにして、上体を腿の上にのせて軌道を確保する。まだなんとか息はあるが、呼吸するたびにむせて時折血を吐いた。胸に耳を当てると、ごぼごぼと濁った音がする。



「ごめんなさい、ごめんなさい阿比留さん……!こんなことになるなんて……!!」



 謝る私に、彼は微笑んで見せた。いつもと変わらない、爽やかでおおらかな微笑み。その表情は、血で汚れている今でも眩しく見える。ぜぇぜぇと苦しそうにしながらも彼は私に指示をした。



「……もうすぐ、機動部隊の患者がいっぱい来る。君がその手当をするんだ……。僕は、ちょっと休むよ……。」


「先に、阿比留さんの治療を……」


「……いや、いい。このまま寝かせてくれ。……あぁ、叶うならば……」



 阿比留さんの望み。何としても聞き入れなくてはと私は彼の口元に耳を寄せた。



「……叶うならば……。君の家族にも……会ってみたかった……」


「それって……どういう……」




 ――それが彼と交わした最後の会話となった。









後書き

この作品はクリエイティブ・コモンズ 表示-継承3.0ライセンスに基づき作成されています。


Author: sinema

Title: SCP-939 -数多の声で-

Source:http://scp-jp.wikidot.com/scp-939

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