第44話 少年Sと空飛ぶクジラ③



「邦夫よ、疑ってすまんかった。いたな、鯨。」



 父は申し訳なさそうに邦夫の頭を撫でた。

 その日の漁は中止となり、全員港へ帰った。その後は漁港の組合所で喧喧囂囂、あぁでもない、こうでもないと大騒ぎだった。





「あれは一体何だったのか?」





 鯨の取りすぎだと神様が姿を変えて忠告しに来たのだと主張する者もいれば、吉兆の証だと言う者もいた。中には、鯨の新種だという頓珍漢な意見まであった。しかし、全て憶測にすぎなかった。あれが何であれ、危害を加えてきた事実は変わらない。



「邦義さん、明日からの漁はどうするんです?」



 しんと静まりかえり、皆が邦義の顔を見る。組合長である邦義に全てが掛かっていた。


 

「漁を止めるわけにゃあいかねえ。子供らがひもじい思いするのだけはあっちゃならん。今まで通りだ。」


 

 鯨漁はこの村の一大産業だ。採れた鯨の一部は村で加工され村内で消費される他、都会に商品として出荷される。村の大事な収入源を絶つ事は邦義にはできなかった。そのようなわけで、翌日からもいつも通りの漁をすることになったのである。


 それから3か月ほど経ったある日、漁から帰ってくると村が何やら騒がしい。何事かと思い、顔見知りに訪ねると「軍人さんがお越しになったんだよ」と言った。浮足立った連中が、軍人というものを一目見ようと広場へ集まっていた。人ごみの間から顔を覗かせると、緑色の軍服に身を包んだ男が3人見えた。話を聞くに、空飛ぶクジラの事を聞きつけてやってきたらしい。

 軍服の胸に飾られたバッチが陽光に煌めいて、邦夫には美しい宝石のように見えた。何の勲章かはさっぱり分からないが、彼らの位が高い事は窺い知れた。その中でも立派な髭を蓄えた初老の男は威厳と共に品性を感じさせる佇まいだった。


 普段軍人なぞ見ることの無い田舎のことである。皆物珍しそうに彼らの様子を見ていた。しかし、話がしたいと言われてもどこに案内すればいいのか分からない。とりあえず村で一番立派な建物である公民館に通すことになった。



「詳しく聞かせてくれないか。第一発見者は誰だ。」


「へぇ、空飛ぶ鯨の事は倅が良く知っております。さ、邦夫、ここに来い。」



 公民館の外に集まった見物人たちの中から引っ張り出された邦夫は、怯えつつも軍人たちの前に腰かけた。人払いをされ、ぽつんと一人。邦夫は心臓が跳ねるほど緊張していた。



「坊ちゃん、名前は?」



 この世の厳しいこと全てを味わってきたようなその顔からは想像できない優しい声色で話掛けられ、体のこわばりが少しほぐれる。邦夫は小さな声で名乗った。



「そうか、渋谷少年。私は東と言う者だ。……君が初めてそれを見た時の事を教えてくれないだろうか。」


「……はい。わたくしがそれを初めて見たのは去年の冬で……。」



 邦夫は事細かにその時の詳細を話した。突然雲の間に現れたこと、船を襲われたこと、鳴き声が歌の様であったこと……。書記係の男が素早く書き記す中、邦夫は思い出せる限りの事を話し続けた。



「君はとてもよく観察しているな」


「そうでございますか」



 少しの間男は何か考え込んだ後、傍に控える軍人に耳打ちをした。彼は頷くと部屋を出て行った。そして、邦夫に向かい直る。



「君にお願いがあるのだ」


「何でしょう」



 邦夫は身構えた。軍人になれだとか戦えだとか、そんな事をお願いされたらどうしよう。軍人への反抗は国家反逆罪として罰せられることもあると聞いた。断わって愛国心が無いと言われて罰を受ける事にでもなったら、母はきっと泣くだろう。


 しかし、お願いというのは予想だにしないものだった。


 

「次、そいつが現れたらここに電報を打ってくれないか。」



 そう言うと東は邦夫に1枚の紙を渡した。そこには数字が掛かれており、すぐに電報の番号だと分かった。



「私がですか?」


「君が良いのだ。君がこの村にいる限り、ずっとだ。引き受けてくれるのならば毎月給金を与えよう。」


「お金をもらうなんてできません。」


「良い。君は君にかできない事を成し遂げるのだ。これは君にしか頼めない仕事なんだ。頼まれてくれないか。」



 邦夫は頭の中が真っ白になっていた。仕事。僕にしかできない仕事。軍人さんから賜った仕事。最早、何のために電報を打たねばならないのかという疑問さえ湧いてこない程、胸が震えている。



「承知しました。」



 邦夫が返事をすると、満足げに男は笑い、思い出したかのようにこう付け足した。



「そうだ。君に約束してほしい。鯨は見なかった。そういう事にしておいてくれ。鯨が見えるのは君だけ。いいね、口外しないでおくれ……」


 





 そのあと、何故か村の皆が空飛ぶ鯨の事をごっそり忘れてしまっていた。皆が目撃したあれは、わが国の新型偵察機だったというのだ。来る大戦に備えて飛行訓練の為に周辺の海を飛んでいたところである。国家機密だから秘密にしていてくれと東が通達すると、皆その秘密を大事そうに抱えて満足していた。村の衆だけが知っている我が国の秘密。皆の結束は固かった。


 邦夫が仕事を与えられて以降、彼は毎日空いた時間に空を見続けた。やがて国が岬に立派な灯台を建てた。ホーロー鍋のように滑らかな白い外壁が、青い空と海に映える美しい灯台だ。皆、鯨漁を盛況させるために国が贈ってくれたのだと言っていたが、邦夫は自分の為に建てられたのだと分かっていた。


 


 時が経ち、邦夫が23歳の時ついに太平洋戦争が始まる。






後書き

この作品はクリエイティブ・コモンズ 表示-継承3.0ライセンスに基づき作成されています。

Author: C-Dives

Title: SCP-1608 -禺彊-

Source:http://scp-jp.wikidot.com/scp-1608

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