第43話 少年Sと空飛ぶクジラ②

 1928年(昭和4年)東京




 ニューヨーク株式市場が大暴落し、所謂世界恐慌という暗黒の時代が、大きな黒い雲の如く世界を今にも覆わんとしている。間もなく鬱蒼とした時代がやってくる。第一次世界大戦の戦争特需はどこへ行ったかすっかり息をひそめ、冷たい風が吹き込める隙間を探している。失業者が市役所を占拠する事件が起き、労働者と国の戦いが勃発し市民が選挙権を求めて活発に活動を行った激動の時代である。

 東京の景色が近代化へと目まぐるしく変貌していく一方、田舎の漁村や農村は未だに伝統的な技法を用いての産業を生業としていた。時代の最先端におらずとも、彼らは決して不幸ではなかった。人々は泥臭くも生き生きと生活していたのだから。




 少年:渋谷邦夫には、やれ戦争やら人権運動やら、都会の難しい事は分からない。そんなことより1匹でも多くの鯨を捕り、家族がお腹いっぱいご飯を食べられる事こそが邦夫にとって最も重要な事であった。


 邦夫の家は代々漁師の家系だ。父も祖父も鯨漁師である。邦夫自身も、大人になったら鯨漁師になると信じて疑いもしなかった。彼らが捕った鯨は築地市場に卸され、様々なものに加工された。肉は栄養豊富な食材として庶民の胃袋を満たし、鯨油は農業や工業など幅広い用途で需要が高く、骨や髭は工芸品に利用することが出来る。余すことなく利用できる鯨は大変人気のある水産資源であった。渋谷家はそんな鯨の恩恵に与って生計を立てていた。


 


 


 捕鯨船の朝は早い。早朝に支度をし、数隻の船を携えて沖へ出港する。先頭を走る邦夫達の船は先祖代々受け継いだものを、少しずつ改良していった船である。10歳の邦夫には過酷な仕事だった。男衆に交じり、鯨が掛かるとせっせと網を引いた。網にかかった鯨は船を寄せて銛で仕留めるのだ。

 早朝の曇った空は雨をもたらし太陽光を遮っていつまでも空気を冷たく抱きかかえたままだ。潮風が刺すように吹きすさび、剥き出しの手に出来た赤切れと潰れたまめに染みて酷く痛んだ。

 顔に降りかかる雨だか海水だかを除ける為にうつむいて必死に網を引いていると、急に視界がぱぁっと明るくなる。雨もぽそぽそと弱まり、あっという間に止んでしまった。


 邦夫が空を見上げると厚い雲の隙間からお日様が顔を覗かせて、地上には陽光が柱のように降り注いでいた。海に注がれた光は水面を照り付け、照らされた水面をきらきらと反射させた。

 邦夫はこの過酷な仕事を好きではなかったが、この美しい海は大好きだった。多くの恵みをもたらし、時にこうして荘厳な光景を人間の前に披露してくれる。


 空をうっとりと眺めていたその時、ふと雲の隙間を黒い何かが横切った。逆光でよく見えないが、鳥の類ではないだろう。鳥など比較にならない程圧倒的に大きい。




 グヲォォォーーーン……天上から腹に響き渡るような鯨の鳴き声が響いたかと思えば、それは再び姿を現した。



「あっ!」



 驚くべき事に、雲の海を巨大な黒々とした鯨が悠々と泳いでいるではないか。呆気にとられぽかんと口を開けていると、父の邦義からげんこつが飛んできた。



「これ!何をサボっとるか」


「父さん、鯨が空を飛んでいるよ。」


 

 邦義はいつの間にか操舵室から甲板に出てきて手伝っていたようだ。呆けたところを見られたせいでもう1回ぶたれるのではないかと思って弁明する。


 

「馬鹿を言うんじゃない。どれ、何処にいるってんだ?」



 空をもう一度見ると、そこに鯨は居なかった。



「雲にさっさと潜っちまったんです。本当なんです。歌ってもいました。嘘じゃありません。」


「馬鹿息子!つまらん事言ってないで手を動かさんか!」




 2度目のゲンコツを喰らい、滲む涙を隠すようにうつむいて再び手を動かした。


 この日は不漁だった。鯨を追い込んだのは良いものの、うまく仕留める事ができずに想定していた量の鯨が取れなかったのである。そのせいで父の機嫌がずっと悪かった。港に着くと、邦夫は逃げるように家に帰った。そして飯を作っている母の元へ飛んで行ったのである。



「母様、本当に見たのです。父さんは信じてくれやしませんでしたが、本当に見たのです。」


「あらまぁ、本当に?そりゃぁきっと良いことの前兆やねぇ。」


「そうなのですか?」


「そうさ、神様さ。鯨の神様。いい事の現れに違いねぇ。」



 母はそう言って邦夫を抱きしめた。母は信じてくれたが、邦夫が朝の漁でほらを吹いたという話は誰かに盗み聞きされていたのか船員の皆の間にいつの間にか知られていて、嫌というほどからかわれた。それでも、あの鯨は夢なんかじゃないと邦夫は信じていた。手がかじかんで確かに痛みを覚えたのだから、夢である筈はないのだ。夢の中で痛みを感じる筈は無いのだから。


 それからというもの、邦夫はほんの数秒しか見ていないあの鯨のことで頭がいっぱいになってしまった。仕事も学校もない時には、空を見上げて雲の間の鯨を探した。鳥の影が頭上を横切るたびに鯨ではない事を悟りがっかりと肩を落とすのであった。


 邦夫が空を観察し始めて4日目、ついに成果が現れる。


 この日も邦夫は朝から船に乗っていた。波に揺られながら、漁場に着くまでの暫くの間水平線を見つめていた。波は穏やかなのにやたら海鳥の声がギャアギャアと五月蠅い。



「なんかおかしいな。鳥の様子が変だぜ。」


「何かの死体でも食ってるんだろ」



 何百匹もの海鳥が水面近くに群れていた。これだけなら何もおかしい事ではないが数が多すぎる。通常、鳥が海上に群れていれば小魚を狙う大型魚や鳥を狙ってさらに大型の魚が集まっている可能性があり、鯨も出現する期待ができる。漁師にとっては嬉しい目印にもなるのだが、この数ではあまりに異様だ。


 鯨がいるか探るため船を近づけると、鳥たちはパニックになったのか蜘蛛の子を散らした様にばさばさと出鱈目な方角へ飛び立っていった。


 

「なんだ何も無えじゃないか」


 誰かがそう呟いたその時だった。


 グヲォォォーーーン……


 びりびりと脳を揺らすような鯨の鳴き声があたりに響いた。何故だか不安になるような、それでいて美しい歌にも聞こえる。邦夫は、きた。と思った。


 ――空からな鯨が大口を開けて迫ってきたのだ。


 

「うわぁぁあっ!鯨の化け物だ!」


 

 船員たちは大層驚き、悲鳴をあげて腰を抜かした。鯨の喉奥から吐き出される生暖かい空気が、髪や服の裾を強く靡かせた。胃袋に繋がっているであろう喉の奥が不気味なほど真っ暗で、夜の闇や或いは宇宙を想像させた。



「罰だ、鯨の化け物が罰を与えに来たんだよぅ!」



 鯨は海鳥の群れに突っ込みながらまっすぐ船へと向かってくる。



「もう駄目だ!食われちまうよ!!」



 誰しもがあきらめかけたその時だった。



「総員、船にしがみ付けぇ!」



 邦義が船を操り急旋回させた。突然進路を変えた船が遠心力で傾く。邦夫は必死に船のへりに掴まり、何とか振り落とされずに済んだが、波に乗り上げて跳ね上がった船体が激しく揺れた。邦義の機転のお陰で真正面から食われることなかったが、船の見張り台の上部が喰われてしまったのか無くなっていた。







後書き


この作品はクリエイティブ・コモンズ 表示-継承3.0ライセンスに基づき作成されています。

Author: C-Dives

Title: SCP-1608 -禺彊-

Source:http://scp-jp.wikidot.com/scp-1608

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