第45話 少年Sと空飛ぶクジラ④

 1941年 太平洋戦争開戦。




 第二次世界大戦におけるアジアを巡った日本対連合国の戦いを総称し、後にそのように呼ばれた戦争は実に熾烈を極めた。極東の小さな島国に過ぎない日本は連合国軍を相手に全てを投げ打った泥臭い戦いを強いられた。兵力も物資も、先の戦争で消耗していた日本側には余裕が無い。お互いの総力戦となり、太平洋戦争は長期化という名の泥沼へと嵌まっていく。日本の戦い方は、国の持ちうるもの全てを利用し捨て身の方針へと傾いていくのは必然だったのかもしれない。中でも圧倒的に兵士の数が足りていなかったため、国家総動員法により健康な男性は戦地へ次々と駆り出されていった。



 邦夫の村も例外ではない。まず連れていかれたのは父の邦義だった。母は涙を流して悲しんだが、邦義は抵抗することなく運命を享受した。徴兵されていく際に「国の為に働いてくる」と言って出て行った邦義は二度と帰ってくることは無かった。

 父だけではなく、村の男が何人も兵隊にとられて行ってしまった。漁師の仲間もだんだんと減り、燃料不足も相まって船を動かす頻度が大きく減り、そのせいで村は金に困るようになった。

 この頃には邦夫が舵を任せて貰えたので何とか漁を続けることは出来たが、如何せん人手が足りなかった。それでも鯨油は日本の主要輸出品目であり、鯨肉は人々の糧となる食料だ。村の女・子供を食わせる為、生きていく金を稼ぐ為に漁を止めることは出来ない。腰の曲がった老人・女衆や子供の手を借りて、村総出で漁を続けた。男がいなくなっていき、村の活気が失われていく。この村だけがそうなのか、日本のあちこちで同じように萎びているのか、村から出たことの無い邦夫には分からない。



 一方で喜ばしい出来事もあった。邦夫は幼馴染を嫁に貰い2人の子供を授かったのだ。妻のめい子は、いつ夫が徴兵されるのか毎日不安に思いながら過ごしていたが、邦夫は彼女に何も言わなかった。「秘密の仕事を請け負っているから戦地へ行くことは無いだろう」と言って安心させてやりたい気持ちを必死に抑えていた。彼は昔、村に来た軍人が取り計らってくれいるのだとなんとなく分かっていた。彼からそうはっきり告げられたことは無いが、毎月支払われる給金が”死ぬまで仕事を遂げろ”と言っているような気がしてならなかった。それはつまり死ぬまで保護する、という意思表示に他ならないのだ。きっと、あの時の軍人は人1人の運命をも左右することが出来るような力を持った人なのだろうと、そう思っていた。







 ある時、妻が女たちになじられている場面に遭遇した。村の女たちが涙を流しながらめい子に詰めよっていたのである。邦夫は、見てはいけないようなものを見てしまったような気がして思わず物陰に身を潜め、その様子をこっそりと眺めていた。狭い村の事なので顔を見ただけで誰か分かるのだが、いずれも若い女たちで、めい子とさほど歳の変わらない女たちだ。その中の一人が、きぃきぃとした声で叫んだ。



「何でめい子さんの旦那さんはお国の為に戦わないの!?私の旦那は3か月前に手紙を寄こしたっきり、返事すら無いったら。偉い人にお金でも積んでいるのかしら?ねぇなんでなの、めい子さん!?」


「流石鯨漁の旗頭に嫁いだだけあるね。随分儲かってたのねぇ!いいねぇお金持ちは!」


「そんな……」



「非国民!」



 邦夫は心臓が締め付けられる思いでそれを見ていた。めい子が自分の事で苛められているなんて知らなかったからだ。めい子にも真実を教えるべきだったのだろうか?それでも女達は旦那が戦地へ行っていないめい子を妬むのはきっと収まらない。彼女らは夫や子供を戦争に取られ、生きていくために必死なのだ。彼女らの行き場の無い怒りや悲しみの矛先が、めい子に向いたのだった。めい子は突き飛ばされ、地面に尻もちをつく。流石に止めに入った方が良いかと邦夫が勇気を出そうとした瞬間、めい子の大声が響き渡った。



「なにさ!誰のおかげで飯食えてんだ!?ウチの人が漁に行かなかったら、困るのはあんた達だろ!鯨がいなけりゃ、飯も櫛も作れやしないってのに、その言い草はなんなのさ!」



 めい子の声量に圧倒された女たちが言い淀む。女の争いとはなんと迫力のある事だろうか。あの中に割って入れば只じゃ済まないだろうと想像し身震いする。

 言い返された女たちはめい子を睨みつけながらどこかへ去っていった。めい子はもんぺに着いた砂を払い落とすと、顔を伏せて家の方向へ歩いて行った。


 邦夫は追いかける事ができなかった。


 まともにめい子の顔を見ることが出来ないような気がして、家に帰るのが憚られたので通い慣れた灯台へ向かった。灯台は、ドアを開けて中に入るとひんやりと涼しくて湿っている。まるで天まで続いていると錯覚するような螺旋階段を上ると、ぽっかりと開いた窓から光が差し込んでいるのが見えてくる。薄暗い灯台の中、その一筋の光が埃をきらきらと照らしていた。窓から外が見える階段に腰かけ、海を眺めながら邦夫は考える。





 このままではめい子が可哀想だ。はっきりとした理由を並べてやらないと彼女らの溜飲が下がらないだろう。


 皆、邦夫に赤紙が届かないのを不思議に思っていたので邦夫は嘘を考えた。怪我をわざと負って徴兵を免れたという話を小耳に挟み、そこから着想を得て実は腎臓の病気に掛かっているという嘘をでっち上げた。妻にも、子供にもそのように伝えた。


 暫くして村中にその話が広まり、皆は態度を改めて同情するようにめい子を慰めた。人と言うものは愚かで、自分が幸せであるためには他人も不幸でないとやっていけないらしい。










 


 戦争で灼けた野のはるか上空を、戦闘機が横切った雲海を、鯨は泳ぐ。


 



 多くの血が流れた大地を、悲愴渦巻く下層に目もくれず、悠々と。



 


 鳥たちと影を重ね、鯨は艶々とした体を惜しげもなく晒し、天に唄う。


 


 






  漁の回数が減ったので、必然的に邦夫が空を眺める時間は増えた。家族には戦地に行けない分、敵が来ないか見張っていると嘘をついて空が明るいうちは灯台に籠った。


 初めて空を飛ぶ鯨を目撃してから13年の月日が流れたが、その間にその姿を目撃したのはたった4回である。よく行動を観察した後、家にすっ飛んで帰り、電報を東氏宛てに打った。時に詳細な情報を求められることもあったので、手紙にしたためて送ることも何度かあった。


 東氏からは時折手紙が届いた。仕事は順調か、だとか息子は息災か、だとか他愛無い話題を挟むことも多々あった。一端の田舎者にもまめに手紙を寄こしてくれる彼の事を邦夫は尊敬していた。手紙の返事に給金の礼を必ず入れるようにしていたのだが、事実、その金に渋谷家は救われていたので、溢れんばかりの感謝の気持ちを毎回手紙に込めて送ったのである。




 邦夫が漁船を失ったのは、それから暫くの事である。








後書き

この作品はクリエイティブ・コモンズ 表示-継承3.0ライセンスに基づき作成されています。


Author: C-Dives

Title: SCP-1608 -禺彊-

Source:http://scp-jp.wikidot.com/scp-1608

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