第30話 波・少女ありて⑥

 橘は毎晩魘され続けた。


 サリから悪夢を受け継いでから、実に2週間が経過しようとしていたが、それは彼女の精神を削るには十分すぎる期間であり、次第に日常生活に支障をきたすまでになっていった。

 蒸し暑い環境下での過酷な業務中、何度倒れそうになったか分からない。睡眠不足と相まって、心を消耗していた橘は仕事でミスを連発し、情緒不安定に陥っていた。


「あんた、もうやめなよ」


「…………。」


 ベッドに横たわる橘に付き添いの石橋が声をかける。日に日にやつれていく同期を見るに堪えなくなり、橘を無理やり医務室に連れてきたのだ。医者は橘に精神疾患の診断を下した。


「点滴を打つから、今日はもう休みにしなさい。上官には石橋君から言っといてくれないか?」


「承知しました。先生、橘の事お願いします。……あんた、ちゃんと眠るんだよ?」


「……寝たくない。」


「何言ってんの。寝ないと体力戻らないよ?あんた、人のために働いてんでしょ?体が資本なのよ?」


「分かってるけど……。寝たら、またあの夢見ちゃう……。嫌だ、もう……。」


「……。」


 彼女の睡眠時間が足りていないのは誰の目にも明らかだった。眠りたがらない彼女に、医者は精神安定剤と偽って睡眠薬を飲ませた。

 30分ほど経つと自然と瞼が重くなっていき、橘は再び夢の中へと落ちていく。



「あぁ、嘘……。私ったら寝てしまったなんて……。」


 橘は夢の中で、あれだけ寝るまいと思っていたのに寝てしまった事を悔やんでいた。しかしもう遅い。死なないと夢から覚めない事が分かりきっているからだ。10回目の夢の中で群衆に巻き込まれることなく生き延びたことがあったが、その時は日が昇っても騒動が収まらず、結局ビルの非常階段から飛び降りることで目を覚ました。

 ほかにもいくつか分かったことがある。群衆のパニックはあちこちで同時多発的に起こる。きっかけは様々だが誰かが転んだり躓いたり、はたまた喧嘩がきっかけだったり、とにかく事件が起こるからパニックになるのではなく人の過密故起こるべくして起こるものだった。従って、このパニックを防ぐことは不可能に等しい。そして、橘が夢に降り立った瞬間の場所や時刻は様々だが、いづれもこの騒動は21:30きっかりに必ず起こるということだ。


 橘はまず、ダイアモンドアイランドの高層ビルのデジタルクロックを確認する。21:23。今回は時間が無い。それを把握すると、あるところへ向かって急いで向かう。島の北側にある鉄塔だ。橘は数日前にこの鉄塔を見つけたのだ。地上40mあたりにスピーカーが付いていることに偶然気付いて以来、ここに来ることが習慣となった。

 コンクリート製の支柱は所々砕け、中の鉄が見えてしまっている。その支柱に取り付けられた、今にも外れ落ちそうな錆びた鉄梯子を登ると鉄網製の網で出来た踊り場が現れる。そこに操作盤を保護するための鉄製の小さな箱があり、中を開けると簡単な仕様のボタンが数個並んでいるのだ。

 彼女は電源を入れた後、サイレンを起動する。まるで地獄の番犬の遠吠えのようなサイレンがプノンペンの湿った夜の空気を揺らす。


「逃げて!逃げろってば!!もう、早く……!!来ちゃう!!」


 21:30、群衆はサイレンをBGMに蠢き始める。あちこちで怪我人や死者が出ているのが、鉄塔の上からだと良く見えた。


「逃げてーっ!!!……あぁ、今回も……!」


 頭を掻き毟り、その場に膝をつく。


 絶望に打ちひしがれた橘は柵から身を乗り出し、犇めく人の波へと身を投げた。

丁度真下にいた人に直撃し、四肢がバラバラに千切れ辺りに散った。自ら命を絶つのも慣れたものだ。


「う……。」


 夢から覚めた橘は、驚いた。ベッドを取り囲むように見知らぬ男が覗き込んでいたからだ。


「え?…え!?何ですか、貴方!?」


「おはよう、橘さん。我々は貴方を救いに来ました。お話聞かせていただけませんか?」


 東南アジア人の顔立ちをしたその男は、爽やかな笑顔を見せた。白衣を纏っていることから医者だと推測できる。それよりも、救いに来たという事はどういうことなのだろうか。


「救う?……この悪夢から……?」


「そうです。」



 ようやく、この夢を何とかしてくれる人物が現れたのだ。半信半疑になりながらも縋りたい気持ちが圧倒的に勝っていた。


「まず、経緯について教えてくれませんか?」


「……それより、貴方は誰?」


 男は現地人の身なりではない。集落の人間ではないのは明らかだった。


「精神科医です。ファンメイと申します。睡眠と夢の関係について研究もしてるのです。貴方の力になれると思いますよ。」


 ファンメイと名乗った男は自信ありげに目鏡を押し上げた。正直、怪しい。果たしてこの男に話して事態が好転する事なんてあるのだろうか。橘は慎重に話し始めた。


「……この夢は、保護施設の姉妹が見ていたんです。彼女らの間をこの夢は行ったり来たりしているようで、毎晩怯えながら眠っていたそうです。……それを私が引き取りました。それからは毎晩魘されています」


「成る程。後でその姉妹にも話を聞かせて貰うとしましょう。それで、どんな夢なんですか?できるだけ詳細に教えて下さい。」



 橘は今まで見た夢を覚えている限り話した。恐らく未来のダイヤモンドアイランドであること、人々がパニックに陥って犠牲者が出る事、時間や覚醒の条件……。



「……群衆雪崩の夢ですか。何度も貴方は夢の中で亡くなったんですね……。さぞかし辛かったでしょう」


「……私は自衛官ですから。一人でも多くの人を救いたかったけれど無理でした。……最近は、サイレンで警鐘を鳴らしていましたが、それも効果があったんだか……。」


「分かりました。このインタビュー内容を参考に、貴方の悪夢を取り除くための対策を練ります。ひとまず、貴方の身柄を一時的に収容させてください。貴方にも協力して貰いたいのです。」


「収容?どこにですか?」


「我々のキャンプ地です」





【あとがき】

この作品はクリエイティブ・コモンズ 表示-継承3.0ライセンスに基づき作成されています。

Author: KanKan

Title: SCP-1586-JP - 津波警報 -

Source:http://scp-jp.wikidot.com/scp-1586-jp

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