第29話 波・少女ありて⑤

 翌朝業務の間を縫って、集落で最年長だと言われるミジェールを尋ねた。彼女は良く灼けた肌に白髪が良く映える老婦人だった。


「……という訳で、ミジェールさん。こんな現象、今まで聞いたことありませんか?」


「すまないねぇセナちゃん。聞いたことないよ、そんな恐ろしい夢の話なんて……。」



  最有力候補だった彼女が何も知らなかったのは橘にとって計算外だった。てっきり齢80の彼女なら過去に起こった似た事例を知っていると期待していたのだが、そもそもそんな事例は起こった事が無いという。プノンペンに最も長く生きた人物が知らないという事は風土的な現象ではなく、突発的に起こった事象か外部から持ち込まれたものだということだ。






「悪夢?あはは、橘君、少し疲れているんじゃないかな。有休を申請したらどうだい?余ってるだろ?」


「……考えておきます。」


 次にカンボジアに長くいる上官達数人を改めて尋ねて回ったが、ミジェール同様そのような事象は初めて聞いたという答えしか返ってこなかった。それどころかこの暑さに頭がやられてしまったのだと戯言を言う上官さえいた。

 完全にあてを亡くした後、顔見知りの現地人に聞いて回ったが地元の人もやはり知らないようで、スマイとサリ、橘の3人だけがこの現象に悩まされていた事が分かった。


 結局、日中は何も手掛かりを得る事はできなかったのである。


 そしてまた、無慈悲にも夜がやってきた。


 




「セナ、こんばんは。今夜も熱いね」


 スマイが眠たくて舟を漕いでいるサリをおぶってキャンプ地に現れた。


「スマイ、聞いて。今日から一緒に寝ることはもうできないの」


 橘は覚悟を決めてスマイに伝えた。わざわざ子供の足では遠い保護施設から通っているスマイ達に言うには心苦しいが、これは彼女の覚悟でもあった。



「なんで?」


 スマイの顔が曇る。


「悪い夢、私が何とかしてみせる。2人にはぐっすり眠って欲しいの。」


「そんな、でもそれじゃ……」


 悪夢は今、橘に憑りついている。スマイの証言を信じるならば、このまま一人で悪夢を保持し続ければスマイやサリがもう悪夢を見る必要は無くなるのだ。


「信じて、スマイ。私が強ーいの、知ってるでしょ?」


「……うん」


 にっこり笑って見せると、スマイは納得したのか諦めたのか、肩を落として帰っていった。これからは橘一人の戦いになる。

 今夜こそ、夢の中の人々を救って見せると意気込んだ。



 【20:00プノンペン ダイアモンドシティ】


 橘は再び悪夢の中に降り立つ。デジタルクロックには20:00と表示されており、リミットを21:30と仮定するとは時間に少し余裕があるようだ。前回の反省を踏まえ、溺死することを避けるために橋には近寄らないことにした。


 街を散策する。相変わらずお祭りムードで浮かれた人々が大勢行き交う中、橘は一人原因と阻止方法を探してあてもなく歩く。


 メインストリートに入ると、急に人の密度が高まった。水鉄砲を持ち寄り、通行人同士が水をかけて応酬し合っている光景が良く見られた。車の後部座席から水風船を地面に投げつけ、水が飛び散るのを楽しむ若者集団も多く見られ、中にはカラーパウダーをまき散らしながら爆音でヒップホップを流す迷惑な輩もいる。実に暢気なものだ。この後大騒ぎになるとも知らずに、ダイアモンドアイランドの人々は年に一度のソンクラーンを大いに楽しんでいる。


 __それはもう、腹が立つくらいに。


 橘は苛々していた。一人仏頂面の彼女は集団の中では浮くらしく、ターゲットに選ばれやすかった。つまり、対抗手段を持っていないにも関わらず彼女は濡れネズミのようになっていた。


「あんたらの為なのに……。」


 橘が足止めを食らう中、時間は刻一刻と過ぎ去っていく。思ったように探索もできず、彼女は焦燥感に駆られていた。何のヒントも得られずタイムリミットが迫る。



「あぁまただ……!また、沢山の人が犠牲になってしまう…!!」


 橘は自責した。また、人を守れないのだろうか?人を助ける仕事がしたいと子供の頃から憧れて、漸く相応しい職業に就けたと思っていたのに。誰も守れず、目の前で踏み殺される子供を眺めるしかできないのだろうか?そう思うと、橘は居てもたってもいられなくなった。


「皆さん、逃げて!ここから離れてください!!!」


 急に大声で叫び始めた橘を怪訝な目で眺める群衆。中には、頭がおかしくなったんじゃないかと揶揄う声まで聞こえるが、橘はなりふり構わず叫び続けた。


「建物の中か人通りの少ないところへ!逃げて下さい!」


 声が音楽に搔き消されそうになるが、叫び続ける。おかしいと思われたって良い。一人でも多くの人の命を救いたい。そのような崇高な思いで声を掛け続けるも、熱に浮かれた人々は誰も退避しようとはしなかった。



「お願い、このままじゃ……。」



 時刻は21:30。群衆がにわかにパニックに陥る。


 人々は渦になり、それは次第に狂乱の渦へと変貌する。



 ――橘は倒れた男の子を踏んだ。足の裏に、彼の肋骨が折れる感触が伝わる。


 ――男の子が泣き叫ぶ。その声すら雑踏にかき消される。


 「…あ……!あぁ……!!」



 橘は最早正気を保つことは出来なかった。






【あとがき】

この作品はクリエイティブ・コモンズ 表示-継承3.0ライセンスに基づき作成されています。

Author: KanKan

Title: SCP-1586-JP - 津波警報 -

Source:http://scp-jp.wikidot.com/scp-1586-jp

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