第28話 波・少女ありて④

「いぁぁああっ!嫌、痛いッ……!う”ぅ、う~」



 午前2時。サリの悲鳴を聞いて橘は飛び起きた。眠っているにもかかわらず、サリは火が付いたように泣き喚いている。魘されているようなので起こそうと彼女の体を揺すった。



「サリ!?サリ……すごい汗……起きてサリ!」


 いくら揺すっても起きる気配がない。彼女は依然目を閉じながら叫び続けた。



「まだ起きないと思う」


「……どういう事?」



 スマイも鳴き声を聞いて起きたようだった。しかし慣れているのか、妹が異常なほど魘されているというのに彼女は怖い程冷静だった。


「目が覚めるまで多分もう少しかな。やっぱり今夜はサリだと思ってたよ。」


 淡々とそう言ってのけるスマイに薄ら寒い恐怖を覚えた。妹がこんな様子にもかかわらず7歳の子供はここまで冷静になれるものだろうか。


「何故サリだと?」


「昨晩、セナが夢を見て起きたじゃない?私もセナが起きるちょっと前に起きていたの。寝付けなくて……。あの時眠っていたのは、サリだけだった。だから、次はサリだとおもったの。」


「そんな、只の偶然じゃないの?」


「数十回も繰り返してたら、なんとなくパターンが分かるものだわ。だから、明日はきっと私があの夢を見る。あぁ、嫌だわ……。」



 彼女の異常なまでの冷静さは、絶望していたからだった。溺死しそうなネズミが壁を這い上がろうとするのを何度も水に落とし続ける実験のように、冷静になりすぎた結果希望を捨てた知恵ある生命の成れの果てであった。



「つまり、あの夢を見る法則があるってこと?」


 こくりとスマイは頷いた。


「夢を見ていた人が夢から覚めた時、近くにいて寝ていた人に夢は移っていくの」



 橘の中で1つの仮説が立てられた。この夢は伝播しているのではなく、移動している。まるで人に憑りつく幽霊のように、人に乗り移る。しかも、条件があると来た。法則性があるという事は、対処法もあるのではないだろうか。


 翌朝、橘は忙しい通常業務の隙間を縫って上官に相談することにした。この現象は一体何なのか、解消する方法はあるのか。だが期待する答えを得ることは出来なかった。プノンペンに派遣されて長い上官を数人あたったが全く情報を得る事はできなかった。結局、この日は何も有力な手掛かりを得ることは出来なかったのだ。



 その晩、橘は夢を見た。



 橘はその光景に見覚えがあった。プノンペンのダイヤモンドアイランドだ。多くの人が楽しそうに行き交っている。


「………今日は私か」


 そうだ、これは夢だ。あの忌まわしい夢である。自分がこの夢を見ているという事は、きっとあの2人は安眠できている事だろう。ならばこの夢を引き受けるのも悪くはないかもしれない。


 一回悪夢を経験したことで心に余裕が出来ていた橘はいくつか試してみたいことがあった。この夢の呪いをどうにかして解こうといくつか策を練っていたのである。毎回同じシチュエーションという事はあのパニックが起こる原因とトリガーがあり、あのパニックを阻止する方法がある筈なのだ。

 まずは、人々が何に怯えて逃げ惑っているのか知る必要がある。これに関しては、聞き込みをするしかない。橘は早速、道行く人に訪ねてみた。



「スオスダイ、皆さんは何が目的でここに来ているのですか?」


 若いカップルに訪ねると、女性が答えた。


「スオスダイ、私達祭りを見に来たの」


「祭り?」


「ソンクラーンよ。すごく楽しいの。」


 ソンクラーンとは東南アジアで雨季の終わりを祝う水祭りである。その名の通り、水を掛け合って楽しくずぶ濡れになって楽しむ一大イベントだ。どうやらこの大勢の人々はソンクラーンを見るために集まったらしい。成る程、前回の夢では気付かなかったがよく見ればあちこちにフラッグや花輪が飾られており、お祭りムードだ。しかし、楽しい祭りのはずなのに何故突然人々がパニックになるのか未だ分かっていない。



「あの、どこかでハプニングが起きそうな気配がしたりしませんか?」


「変な質問ね。さぁ、分からないわ。それじゃあね、リア・ハウイ」


 突飛な質問だったせいか一蹴されてしまった。それから、数人に訪ねてみたが皆ハプニングの予感に関しては怪訝な顔をして首をかしげていた。

 しかし、この祭りで何かが起こるという事が分かった。ハプニングのタイミングと場所が分かれば何とかなるはずなのだが……。


 ダイアモンドアイランドは相変わらず眩しく輝いている。人ごみに紛れて歩くと、前回の夢で見たデジタルクロックが見え21:20と表示されていた。恐らく、もう間もなくパニックが起こる。前回見た夢では21:10に時刻を確認してから体感20~30分経ってからあの騒動が起きている。


 それまでに原因を探さなければならない。橘は前回の記憶を頼りに、走り出した。


 必死の形相で走る橘を怪訝な目で見たり、肩がぶつかり舌打ちされたりしたが、それでもいい。一刻も早く原因を探し出さないとまた多くの人が犠牲になってしまう。

 やがて橋の付近まで来た時にはもう走ることは出来ない程混みあっていた。人の波を掻き分け、進もうとするが押し負ける。


「と……通して、通してくださいっ!」


 あぁ、不味い。このままじゃ、また……


 どこかで、人の重みで橋が壊れるぞと叫ぶ男の声がした。すると、にわかに長さ約100m、幅8mの橋の上は地獄と化した。パニックになって叫ぶ人の声が、さらなるパニックを伝染する。橋から退避しようと人々は意思の疎通がなされないまま陸地を目指して行進を始める。


 押し合い圧し合い、転んだ少女が下敷きになり、倒れた人の列ができ、橋から押し出された人が暗く濁った川に落ちていく。


「押さな……ッ!!あ……!!」


 橘もとうとう橋から押し出され、その肢体が宙を舞う。目いっぱい腕を伸ばし、何とか欄干を掴みぶら下がった。視界の端では何人もの人が悲鳴を上げながら漆黒の川へ落ち水飛沫が上がっているのが見えた。


「自衛隊舐めんなッ!」


 日々過酷な業務を遂行しながらも、健全な肉体を保つためのトレーニングを日々積んでいる橘は、少なからず筋力に自信があった。しかしこのまま欄干にぶら下がってこの場を凌ごうと思っていたその直後、上から男が降ってきて橘に直撃した。衝撃で手を放してしまった橘は川へと落ち、水面を探して藻掻くその上にも人が落ちてくる。


「げほッ、ごぼ……っ!!?」


 水面が遠い。酸素を求める肺に臭い川の水が流れ込んでくる。やがて酸素が足りなくなった頭は生きようとする意志を薄れさせていって___




 橘は溺死した。


 












「……はぁッ!!!!」




 橘は目を覚ました。汗でシーツまでびっしょりだ。心臓が血中の酸素を循環させようと鮮明に収縮を繰り返しており、眠っていたにも関わらず体は疲労でぐったりとしている。橘は夢の中で2度目の死を迎えたのだ。川の中で苦しみながら意識が段々薄れていくあの感覚が未だに身体に残っていた。




【あとがき】

この作品はクリエイティブ・コモンズ 表示-継承3.0ライセンスに基づき作成されています。

Author: KanKan

Title: SCP-1586-JP - 津波警報 -

Source:http://scp-jp.wikidot.com/scp-1586-jp

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