第19話 懐かしや逃げ水③

 誰かから鮮明な声で呼ばれた。


「翔馬?」


 有坂が振り返ると、髭を蓄えた中年の男が驚いた表情で彼を見つめていた。咥え煙草に下駄を履き、くたびれたシャツといった出で立ちで酷い猫背をした陰気な男だ。


「……誰?」


 有坂の事を“翔馬“と呼ぶ人間は限られているがその男に見覚えは無い。それほど親しい間柄の人物ならば忘れる筈は無いのだが、有坂は男の事を全く思い出すことが出来ない。


「あぁ……。まぁ、そうだよな。うん。…いや、な。もうすぐ夕暮れだ。家に帰らなくて良いのか?」


 男ははぐらかすような物言いで空を見上げる。確かについ先ほどまで太陽は真上にあったというのに、いつの間にか日は傾いて辺りが茜色に染まっている。


「本当だ……。なぁ、おっさん一緒に帰ろうよ。」


 有坂は自分の口から飛び出してきた言葉に違和感を覚える。何故彼と帰る場所が一緒なのか分からないし、知る由もない。見ず知らずの人間と一緒に帰ろうだなんてどうかしている。それなのに自分の発言のどこがおかしいのかが分からないのだ。


「……。いいとも」


 男は二つ返事で了承した。有坂はマサちゃん宅の玄関ドアを閉め踵を返し、二人は並んで歩き始めた。二人が歩いていると、通行人だか住人だかが道の端や家の庭からじっとこちらを見て何かぼそぼそと呟いている。人のようだが、輪郭はぼやけていて得体が知れない。有坂が気味悪がっていると、男はそんな有坂の気を紛らわすかのように昔話を始めた。



「お前よくあの木に登ってたよな」


 男の視線の先には大きなクヌギの木があった。山道に逸れる分かれ道の脇に生えたクヌギは、子供たちに涼しい日陰をもたらした。それにクヌギはクワガタが取れるため、夜でも大人気のスポットだった。



「…そうだった、うん。あの、木の幹が二股に割れてるところ。んでもうちょい上にウロがあって……」


「で、降りるとき怖くて泣いてたよな」


「一回だけだって。」


 そうだ、近所の子供と一緒に鬼ごっこをして遊んでいたとき、絶対に見つからない場所に隠れようと思って調子に乗って登れるだけ登った後、暫くして降りるにはあまりにも高すぎる事に気が付いたのだ。結局、散々泣き喚いて助けを呼んで、近所の大人に助けてもらった。苦い思い出でもあるが、結局そのクヌギは有坂にとって絶好の秘密基地となった。

 有坂が懐かしい思い出に浸っていると、男が今度は住宅に挟まれた店を指差す。



「そうそう、吉田さんとこの駄菓子屋もよく行ってたなぁ」


「懐かしい!夏休みしか来ないのにおばちゃん俺の事覚えてくれてんだよね。紗江ちゃんの息子、だってさ」



 駄菓子だけでなく文房具や縄跳びまで揃えたその駄菓子屋は子供の楽園だった。夏休み中は沢山の子供が入り浸り、店主の年老いた女性が世話を焼いてくれたものだ。



「寄っていこうよ。金貸して」


「駄目だ。貸さないし寄り道しない」


 名残惜しいが、それもそうかなんてぼんやり納得した。


「……おい、どこまで付いてくるんだ?お前の家はあっちだろ」


 歩いてきた道路の突き当りに古びた商店が現れる。ガラクタやゴミが店内に所狭しと押し込められているが、数点は骨董品と呼べるような焼き物や掛け軸がかろうじて存在した。うず高く積まれた品のせいで店内は薄暗く、妙な圧迫感がある。

 有坂は思い出した。この男は、この地で骨董品店を営んでいたのである。初めてこの地を訪れた時の事は鮮明に覚えている。かつて弟と2人で、物珍しさに見物しに来たのである。勿論所持金も持っていないので何かを買うつもりなど一切なく、近所でガラクタ屋と言われていたこの店に冒険をしに来たのだ。男は店主で、白井といった。有坂は合点がいった。懐かしいこの街に白井がいるのは、当然のことなのだ。それなら自分の事を知っていても何らおかしくない。


 そこで有坂は我に帰る。何故、白井は水溜まりの中で正気を保って生きているのだろう?他の人は様子がおかしいし、こんなに暑いのに町は真冬の夜の様に静まって物音一つさえしないというのに。



「…あんた、ここは…」


 有坂が疑問をぶつけようとすると、白井は店の隅に置かれた重厚な金庫を愛おしそうに撫でながら口を開いた。



「翔馬、お前はこれを覚えているか?あの時俺は心底驚いたよ。開かずの金庫を開けちゃったんだもの。若干9歳の子供が、だよ?素晴らしかった。僕は感動したよ…。」


「……それ。……あっ!」


 有坂は思い出した。その色褪せた金庫は有坂が初めて鍵を破った代物だ。有坂が一人で店を訪れた時、強烈にその金庫に惹かれた。見た目は何の変哲もない古びた金庫だが、どうしようもなく魅了された。中も見てみたくなった彼は憑りつかれたように黙々と鍵を開け始めたのだ。結局中には何も入っていなくてがっかりしたが、それよりも鍵を開けて金庫を暴いたことに対しての達成感で満たされていた。そして有坂は鍵を破る快感を知ったのだ。


「思い出した。うわー、懐かしい、なんで忘れていたんだろ。」


「ところで、そろそろ日が暮れてしまう。…タイムリミットはあと10分かな。さぁ、走って帰るんだ。」


確かに、辺りは夕闇に包まれようとしている。地平の果てで太陽が鬼灯のような色をして刻一刻と沈んでいる。


「……あぁ、そうするよ。それじゃ。」


 子供は暗くなる前に帰らなくてはならないものだ。ぴしゃりと商店の扉が閉じられると同時に、母の実家に向かった。この商店からまっすぐ西に5分程向かったところにあったはずである。

 そして、一軒の懐かしい家が見えてきた。間違いない。藤の木が、庭にある柱に絡みついている印象的な家だ。門扉を開けて立ち入ると、やはり昔見たままのあの光景がそこにはあった。

 空っぽの犬小屋、アジサイが植えられたプランター、庭に出しっぱなしの洗濯竿。全て見覚えのある物ばかりだ。母の実家で間違いない。

 確信を得た有坂は玄関ドアを開けたが、マサちゃんの家と同様に暗く塗りつぶされた空間が広がっている。でもここは、きっと自分の帰る場所なのだ。何も怖いことは無い。背後でずっと名前を呼ばれている気がするが、闇に足を踏み入れる。



―お待ち、お待ちよ 翔馬―


 全身が闇に飲まれようとするとき、少しだけ後悔した。





―――最後に俺の名前を呼んだのは若い時の母の声に似ている――……。





【あとがき】

この作品はクリエイティブ・コモンズ 表示-継承3.0ライセンスに基づき作成されています。

Author: ZeroWinchester

Title: SCP-194-JP - 水溜まりの中の世界 -

Source:http://scp-jp.wikidot.com/scp-194-jp

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