第3話 恐ろしい事件

「やったー。やっと終わった……」


 笑顔で言って、倉田刑事は椅子に座ったまま、大きく伸びをしました。

 いつも通りの爽やかな笑顔。

 

 ……には見えませんね。


 声にも力がありませんし、いつもなら五月晴れみたいな笑顔が、今は梅雨空のように曇って見えます。


 倉田刑事が2児のパパだというお話はもうしましたが、2児というのは1歳になる双子ちゃんなのです。

 その双子ちゃんが風邪をひき、看病していた倉田刑事の奥さんにもそれが感染うつって3人で寝込んでしまったので、倉田刑事はここ2日続けて定時で退庁し、家族の看病に努めていました。


 それで作成すべき捜査書類が溜まってしまい、深夜3時までかけてやっとどうにか明朝期限の書類だけは片付けたようです。

 定時退庁した2日間も家族の看病でほとんど寝ていないでしょうから、きっと睡眠不足が溜まっているのですね。

 五月晴れが梅雨の曇天になるのも無理ありません。


 倉田家のベビーたちは男女の双子で、名前は女の子が蒼依あおいちゃんで、男の子がつかさちゃん。

 ちなみに、新里警部補の下の名前は蒼司です。

 ……うん。

 先輩のこと、好きすぎですね。



 とはいえ、これにはそれなりの理由があるのです。



 一旦、刑事部屋を出た倉田刑事が、水を入れたコップを持って戻ってきました。

 そして、私の方に歩み寄ってきます。

 倉田刑事はさっきからずっと無糖コーヒーとエナジードリンクを飲んでいたので、コップの水は私のためにわざわざ汲んできてくれたようです。

 私がお茶もコーヒーも受け付けないのを知っているのですね。


 優しい。

 優しいのですけれども、実はちょっと困ってもいるんです。

 でもそれをどう、倉田刑事に伝えたらよいやら……。

 


「スミレさんを見ると癒されるな…。和むっていうか、懐かしくなるっていうか…」


 穏やかな口調で、倉田刑事が私に話しかけました。

 今が午前3時で室内が静まり返っているとはいえ、そんな物静かな態度はいつも元気な倉田刑事らしくありません。


 私が心配になってじっと倉田刑事を見つめていると、悲しそうな微笑を浮かべ、倉田刑事は話し始めました。


「俺たちの家…なくなっちゃうらしいんすよね。

 俺と、菜月。それに今は天国にいる琴音や、ほかのみんなが育った家が」


 ああ、そうなのか……と、私まで悲しくなりました。


 倉田刑事が――倉田大輔君が――育ったのは、「まきば学園」という名の児童養護施設です。 

 大輔君は25年前、その学園の門前に段ボール箱に入れられ、捨てられていたそうです。


 その当時の学園長は倉田清さんとおっしゃる方で、学園の子供たちから「おじいちゃん」と呼ばれて親しまれていた篤志家とくしかで、大輔君の名付け親でもあります。


***


「じいちゃんが学園長だった頃は、あそこは本当に良いところだった」


 仲竹署に異動になって暫くしたある日、そう倉田刑事は私に話してくれました。


 あの時も今日みたいにほかには誰もいなくて、倉田刑事は捜査書類を期日までにどうにか仕上げようと、必死になってパソコンに向かっていました。

 そしてやっと書類作成が終わって一息ついた時、彼は今みたいに私に水を持ってきてくれて、話し始めたのです。


 まきば学園で起きた、恐ろしい事件のことを。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る