3:サレ妻

「エロースの矢のセットをいただける?」

「はい、すぐにご用意できます」


 私の要求に、店員はにこやかに頷いた。その朗らかさに免じて、うっすら漂う煙草の残り香は不問に処そう。


 昼休憩に会社を出て、近場のレストラン街とも言える通りを物色しているときに、この店に気づいた。余程採算が合わなかったのか、開店したと思ったら半年と経たずに閉店したカフェ。その跡地に新しく入った店の名前は≪WWW≫、知る人ぞ知る都市伝説と同名だった。神秘の品が手に入る店。


 私は昔から、そういうオカルトめいた話は一笑に付してきたタイプだ。なのに、引き寄せられるように私の手はその扉を押し開けていた。


 日中なのに薄暮のような仄暗い店内のカウンターには、大学生のバイトか、私より十歳くらい若い青年が咥え煙草で本を開いていた。このご時勢、見る人が見れば立派なクレーム案件になりそうな光景だ。


 青年は来客に気づくと、瞬時に煙草を揉み消し、輝かんばかりの接客スマイルを浮かべた。


「いらっしゃいませ。何をお求めですか?」


 くっ、若さと爽やかさが眩しいっ。私は最初の光景を水に流し、努めて単刀直入に冒頭の台詞を切り出した。


「じゃあ、それをお願いします」

「畏まりました。少々お待ちを」


 二つ返事で承諾して、Tシャツジーンズというラフな格好の青年はカウンターを出ると、こちらから見て左手の商品棚の奥へ向かおうとする。その背中に、私はつい声をかけた。


「聞かないの? どうしてそれがほしいのか」


 こういう場合、自分の欲望を白日の下に晒され、己の醜さを突きつけられるものだと思っていた。


 青年は立ち止まり、くるりと私を振り返る。屈託ない笑顔も立ち居振る舞いも、やっぱり、今どきの大学生にしか見えない。……なのに時折、その目の奥に抜き身の刃物の如き光が閃く。


「お客様のプライバシーには立ち入りません。……ですが、話したいことがあれば勿論お聞きします。お客様のように、麗しい女性客であればなおのこと」


 ……ああそうか、欲望だ醜さだとか言うより、私は単純に、愚痴を聞いてもらいたい、いや吐き出したいだけだったのかもしれない。


「お世辞でもありがとう。……私ねえ、旦那に浮気されてたの。私よりずっと若い子と」


 夫のヒカルは会社の新卒同期だった。入社の二年後に付き合い始め、翌年から同棲、更に二年後に入籍した。そこからまた二年、まだ子供はいない。世の中共働き少子化とはいうものの、今年とうとう三十の大台に乗ってしまったこともあり、そろそろ真剣に考えようかと思い始めた矢先の裏切りだった。


 いや、正確に言うと、裏切りは今に始まったことじゃない。これが二度目だ。最初の浮気は同棲一年目のことだった。最初のせいか脇が甘く、不自然な残業や休日出勤、メールの遣り取りなど、すぐに証拠は掴めた。だけど私も同棲を始めたことで結婚を意識していたし、平身低頭謝罪され、翌年、きちんと関係を清算した上でのプロポーズに、一度だけ目を瞑ることにした。一度だけだ。二度目はない、そう自分の中だけで決めた。


 その二度目をやられた。しかも相手は同じ会社の若い派遣事務、その上妊娠までしている。


 堪忍袋の緒が切れた。まだ子なしで賃貸暮らしだったのは不幸中の幸い、離婚だ離婚。慰謝料だって、きっちり耳揃えて払ってもらおうじゃないの!


 と、息巻いていたのだが。


「でも情けないことに、相手に妊娠までさせておきながら、旦那が離婚を渋ってるの。……そんなの可哀そうだと思わない?」


 我ながら白々しい口調で言うと、青年も意外そうに眉を動かした。


「へえ。じゃあ、旦那をもう一度振り向かせるためにエロースの矢がほしいわけじゃないんだ?」


 エロースの矢はギリシャ神話に登場するもので、黄金の矢に射られた者は、目の前の異性に激しい恋心を抱く。キューピッドの矢、と言い換えれば解りやすいだろう。口調が砕けた青年に、私ははっきり否定の意を示した。


「どうせ向こうに子供が産まれたら養育費払い続けなきゃいけないんだもの。だったらもう、熨斗のしつけてくれてやるわ」


 この場合の「熨斗」が、黄金の矢ってこと。ちゃんと相葉あいばさんを真摯に愛する旦那を渡してあげる。


「なかなか手厳しいな、たった一度の浮気で」

「一度じゃないの、二度目」

「仏の顔も三度までって言うだろう?」

「私は二度あることは三度ある派なの。私もまだアラサー、されどアラサー。もう一花咲かせるためには早めに割り切ったほうがいいと思ってね」

「なるほど一理ある。……でも」


 意味ありげに台詞を区切った青年が、口端を片方だけ吊り上げて笑う。


「わざわざエロースの矢のをご所望なんだ、単なる親切心じゃないんだろう?」

「失礼ね、ちゃんと真心込めた贈り物よ」

「これは失敬」


 おどけた様子で謝り、青年は今度こそ商品棚の影へと消えた。私はどうにか笑顔でそれを見送ったけど、胸中では心臓が激しく鼓動していた。さすがは都市伝説の店員、私の真心――――復讐心を、はっきり見透かしている。


 勿論、あんな浮気夫は不倫女にくれてやる。割れ鍋に綴じ蓋、お似合いじゃないの。


 だけど、幸せになんてさせてやるものか。二度も裏切られ見下されて、へらへら笑って許せるほど私はお人好しの莫迦じゃない。


 そんな恨みを、この「店」を見つけたことで晴らすことができる。


 青年は程なく戻ってきて、ふたつのやじりを載せたトレイをカウンターに置いた。


「こちらがエロースの矢の鏃です。ご希望であれば、シャフトに装着した状態でのお渡しもできますが」

「いえ、これで大丈夫」


 現代日本の街中で、矢を番えたら間違いなく警察沙汰だ。神話によれば、射止めなくても、落として軽い傷を負うだけでこの矢は威力を発揮する。


 それよりも気になるのは。


「それで……幾らになるの?」


 都市伝説は、店の名前と商品の特徴を語るだけで、その値段に対する言及は一切ない。勢い任せの買い物だったけど、全財産とか魂とか言われたらどうしよう、と今更になって後悔が鎌首をもたげた。


 ここに来て尻込みする私に、青年は安心させるように笑ってみせる。


「ああ、結構ですよ。あなたのように美しい女性からお代はいただけません」

「……嘘でしょう? そうやって油断させて、あとから何を奪うつもり?」


 人生経験の浅い小娘なら丸め込めるかもしれないけど、こちとら三十路よ、社会に揉まれて十年近いのよ、騙されるもんですか。こんな怪しい店から怪しい品を無料ただで受け取って、無事ただで済むわけがない。


 据わった目で問い質すと、青年はやや大仰な仕草で、観念したように首を竦めた。


「冗談だよ。確かに俺は女性客には甘い自覚あるけど、さすがにそんなこと言ってたら商売成り立たないもんな」

「だったら」

「でもおねえさんが払う必要がないのは本当。立て替えてくれるあてがあるから」


 悪戯っ子のように目を細めた青年に言葉を遮られ、私は瞬く。代わりに支払ってくれる? 誰が? うちはありがちな一姫二太郎で、両親は社会を拒絶しドロップアウトした今も弟にしか関心がない。私はさっさと見切りをつけて就職を機に上京し、結婚式を最後に実家とは完全に没交渉だ。そんな家族が払ってくれるとは思えないけど、ほかに心当たりもなかった。


「その相手への連絡もこっちから入れるし、まあとにかく、悪いようにはしないから。安心してこれ持ち帰ってよ」


 これ、と、いつの間にか小さな箱に梱包した鏃を、青年は改めて私に差し出す。


「……本当に大丈夫なの?」

「大丈夫大丈夫」


 本当に大丈夫なのかともう一回訊きたくなるような軽さだ。本当に大丈夫か? でもこの分だと、私が払うと言っても何も受け取ってくれなさそう。胡散臭さが拭えないまま、私は仕方なく鏃の包みを受け取った。


「……ありがとう」


 せめて一言お礼を述べて店を出る私を、青年の言葉がカウンターの中から見送る。


「旦那によろしくな」


 夫を知っているの? 思わず振り向いた私の目と鼻の先で、断ち切るように扉が閉じた。

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