2:不倫女

「あの女に消えてほしいの。何かいいものはない?」

「…………」


 正面のカウンターと、両脇の商品棚と本棚くらいしか見通せないほど明かりの乏しい夕方のような店内で、あたしはカウンターに我が物顔で居座る無言の店番に切々と訴える。


 ネットで時々話題になる都市伝説、≪WWW≫。SNSでバズるような目立ち方はしないけど、その分風化もせずにいつまでも細々と残っている。なんでも、龍の鱗とかユニコーンの角とか、伝説にしか存在しないものを売る店だとか。


 有休をとって産婦人科に行った帰りに立ち寄った駅ビルは、繁盛してるのかそうでもないのか、度々テナントに空きが出ては案外すぐ埋まる。先月某アパレルが撤退したばかりの空間に、わざわざ壁と扉を拵えて開店していたのが、その≪WWW≫だった。


 ほかの客は誰も目を向けない。でもあたしは、冗談半分、つまり半分は本気でその扉を開いた。足を踏み入れた途端、本物だと直感する。扉とカウンターを結ぶ短い通路と平行に、左右にずらりと立ち並ぶ棚は、どこまで続いているのか、店内の薄暗さを差し引いても果てが見えない。そんなスペース、たかだか駅ビルのテナントの一角に確保できるわけがない。


 そんな不思議な店だから、カウンターに店番にも、あたしは不審や不満を覚えず話しかけた。


「ここは普通の店にはない、不思議なものを売っているんでしょう?」

「ニャー」


 ようやく一声鳴いたハチワレの猫に、あたしは拍子抜けしそうになる。何、まんま猫じゃないの。喋れるとかじゃないわけ? それなのに店番一人、いや一匹でやってるって言うの!?


 思わず逆上しそうになって、駄目駄目と心を落ち着かせる。動物虐待になりかねないし、何よりお腹の子によくない。


 気持ちを落ち着かせるため、服の上からも膨らみが判るようになってきたお腹をさすっていると、また猫が「ニャー」と鳴いた。その目ははっきりとあたしのお腹を見ている。あたしはちょっと得意げに笑った。理知的な面構えとは言え、猫相手にばかばかしいかな? でも誰も喜んでくれなかったけど、あたしには宝物だ。


「そう、ここに赤ちゃんがいるの。女の子だよ」

「ニャーオ」


 この猫、言葉は喋れないけど、理解してる。通じてる。そう確信したあたしは更に続けた。


「大好きな人の子なの。でもその人には奥さんがいて、こっそり付き合ってたんだ。奥さんよりあたしのほうが若くて可愛いっていつも言ってくれてね」

「ニャー」

「奥さんにはまだ子供がいなかったから、先にあたしが妊娠すれば、ヒカルさんは離婚してあたしと結婚してくれると思ったの」


 その予想はあながち外れていなかった。夫の浮気とあたしの妊娠を知った奥さんは、即座に離婚すると言い出した。


  だけど。


「でも奥さん、ヒカルさんにもあたしにも慰謝料三百万請求するって言ったの。酷くない? こっちはもうすぐ子供が産まれて、これからお金がかかるって言うのに」


 何より腹立たしいのは、その金額に怯んでか、ヒカルさんも離婚と再婚に消極的なことだ。冗談じゃない、もう堕胎もできないんだから、あたしたちを捨てるなんて許さない!


 奥さんと離婚はしてほしい、だけど慰謝料は払いたくない。それを両方叶えるためにいちばん手っ取り早いのは――――奥さんに死んでもらうこと。だけどさすがに殺人はハードルが高すぎると思い悩んでいたところに現れた≪WWW≫の扉は、まさに渡りに舟だった。


「だからね、奥さんを呪い殺せるようなものはないかなあって。どう?」


 あいにく具体的な品名は思いつかないけど、客の要望から商品を提案するのも店員の仕事のうちでしょ?


「ニャー」


 宝玉みたいな目を持つ猫は身軽にカウンターから飛び下りた。その動きに合わせて、首輪の鈴がリィンと涼やかに鳴る。そして、少々お待ちくださいと言うように鳴き声を残して、あたしから見て左、壁面棚とそれに対して垂直に並ぶ棚との間の通路を奥へと向かっていった。こちらには右側と違って窓もないから、すぐにその姿は闇に呑まれて見えなくなってしまう。


 闇の中で断続的に鈴の音が響き、それほど待たされることもなく、ハチワレ猫は暗い通路を戻って来た。行きと違うのは、猫には少々運びづらそうなサイズの箱をどうにか咥えていたこと。


 猫はまた鈴の音と共にひと跳びでカウンターに飛び乗り、咥えていた箱を置く。箱はなんだか模様のある紐にくるまれていて、それを猫は爪でバリバリと破るのではなく、器用にしゅるしゅると解いた。


 そうしてお披露目された箱をあたしが持ち上げても黙っていたのに、開けようとした途端、爪を閉まった猫パンチが手の甲に飛んでくる。


 開けたら駄目なの? 確かに神社のお守りとかも基本開けないものだし、そもそもどうやらからくり箱の類いらしく、簡単には開けられそうにない。


 中には何が入っているんだろう?


 でもとにかく、これに祈りを捧げれば、きっと願いが叶うんだ。お守りのように持ち歩くにはちょっと大きいから、縁起物みたいに部屋に置いておけばいいんだと思う。


 あたしの願い――――奥さんが消えて、お金の心配がなくなりますように。


「ニャー」


 恍惚とした思いに水を差すように、猫があたしの小ぶりなハンドバッグを見ながら鳴く。……そっか、ここは「店」だから、お会計をしなくちゃ。無料ただより高いものはない。曰くつきの場所から無許可で持ち出したものが障りを起こすって言うのは、ホラーにありがちな展開だもの。ちゃんと対価を支払えば安心できる。


「じゃあこれで」


 あたしは名前もよく知らない偉人の描かれたお札を一枚、財布から取り出してカウンターに直接置く。「ニャー」という鳴き声に見送られ、上機嫌で扉を出た。


 もう、ばかな子なんて言わせない。あたしはこの子とあの人と、幸せになるんだ。


 ヒカルさんのマンションに帰って、さっそくからくり箱をサイドボードの棚に鎮座させて手を合わせる。神棚はないから、これで勘弁してほしい。


 ふとアパートから持ち込んだケージを見ると、またハムスターが脱走してる。今度はどこに隠れたの? 面倒だけど探さないと。


◆◇


「お客さん来てた?」


 カナコが店を出て随分と経ってから、扉から見て右の書架の奥より、西洋人形の如き少女がカウンターに顔を出した。手にしているのは『稲生物怪録』。過日の客あしらいを一部反省し、改めて数々の文献に目を通していたのである。


「ニャー」

「ふうん。奥さんは邪魔、お金は惜しい、と。なかなか自分の欲に正直で素敵ね」


 鏡のような少女の目が、猫のひと鳴きだけで客との遣り取りを正確に読み取り、更に踏み込んだ内情までも汲み取る。


「……ああ、今のお客さんが、この前のお客さんの浮気相手なの。因果なものねえ」

「ニャー」

「それで、何をお出ししたの?」

「ニャー」


 少女の問いかけに、猫は鳴き声と共に箱をくるんでいた紐……細い呪符をずいと押し出す。それを摘まみ上げ、少女は「うわあ」と感嘆した。


「あらまあ、これって……」

「ニャーン」

「なかなか諸刃の剣を買って行ったわねえ、ろくな説明も聞かないまま」

「ミー」

「ううん、チョイスは間違ってないわよ。ちゃんと取り扱えば、邪魔者は始末できるしお金も手に入るもの」


 ただその、「ちゃんと取り扱えば」が少々、いやかなり難しい一品ではある。


「人を呪わば穴二つ、なんてよく言ったものね。わたしかつるぎが対応してれば多少は説明できたけど……まあそういう巡り合わせも、人生には必要な運かしら。無知は罪とも言うしねえ」

「ニャー」

「これが代金? ちょーっと足りないんじゃない? 箱はともかく中身はタダみたいなもんだけど、あれだけ集めるのは結構労力がいるのよ」


 猫が更にずずいと差し出した紙幣に不満の声を漏らした少女だったが、猫の口許をじっと見つめ、「あらあら」と苦笑いを浮かべる。


「早速、不足分をしっかりきたのね。抜け目なくて立派よ、タマ」

「ニャー」


 小腹を満たした白黒の二毛猫は、水琴窟の鈴をリンと鳴らし、満足げにカウンターの上で丸くなった。

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