ノイズキャンセラー




彼の精密検査は毎月一緒だ。

血液検査と心電図、脳波だ。


「異常はない。」


圭悟が検査結果を見ながらセイに言った。


「六花はどうだ。」

「後頭部にこぶが出来たぐらいだ。

六花ちゃんは聴力が敏感だから眩暈が出たのかもしれんが、

調べたが異常はなかった。」

「耳が悪いのか?」

「いや、音に敏感なんだ。

大きい音を聞くと体が動かなくなる。

だからあのヘッドホンはノイズキャンセラーだ。

80デシベル以上の音は自動的に小さくなったり遮断する。」


セイは少し黙り込んだ。

それをちらりと圭悟が見る。


「ところで昨日はどうした。」


彼ははっと顔をあげる。


「家まで送った。」

「ちゃんと生活していたか?」

「生活?」

「ああ、六花ちゃんは半年ぐらい前から一人暮らしをしているんだ。」


一瞬ゴミ屋敷の様子がセイの頭に浮かんだ。

だがそれを幼馴染である圭悟に伝えて良いのかどうか一瞬迷った。


「……猫がいた。」

「ね、ネコぉ?」


圭悟が素っ頓狂な声を上げた。


「処分されるかもしれん年寄り猫を引き取ったらしい。」

「年寄り猫……、六花ちゃんは世話をしていたか。」

「猫の世話だけはきちんとしていた。」


それは嘘ではない。


「信じられんな、あの六花ちゃんが。」


その時だ、看護師の香澄が顔を出した。


「先生、次の患者さんがお待ちです。」

「ああ、すまん、じゃあセイ、来月だ。」


セイが少し頭を下げて立ち上がった。


「今日はお前はいつもみたいな事は言わなかったな。」


セイがちらと圭悟を見た。


「死ぬとか。」

「……、そんなことどうでも良いだろう。」


セイがぼそりと言って診察室を出て行った。


「ああ、今言った。」


圭悟がにやりと笑う。


セイが待合に出るとそこには六花が座っていた。

そのそばで香澄がいて二人は話をしている。

六花とも知り合いらしい。


「じゃあ、香澄ちゃん、また電話するね。」

「うん、待ってる。」


香澄がセイを見た。


「まさか六花ちゃんとセイさんが知り合いなんて

びっくりしました。」


香澄が言った。


「でしょ?

私もセイと圭悟が知り合いなんて知らなかったよ。」


そう言う六花の耳には

いつものノイズキャンセラーが無かった。


「……お前、耳は?」


セイが聞く。


「もしかすると昨日の眩暈はキャンセラーの不備かもしれないから、

一応検査に出すことになったんです。

それでその、家にスペアがあるから取りに行きたいんだけど、

送って頂けるとありがたいんですけど……。」


かなりの低姿勢で六花がセイに言った。

セイは一瞬迷ったが部屋の片づけはまだ途中だ。

それに、


「……クロ、」


ぼそりとセイが言う。


「え、なんです?」

「あ、いや、なんでもない。来い。」


セイが手で指示をする。六花がほっとした顔をした。


二人が車に近づくと六花が車の扉を見た。

昨日六花が付けた傷がある。


「あの、傷、すみませんでした。」


ちらとセイが傷を見る。


「そうだな、これはさすがにただじゃ済まさん。」


彼はぎろりと六花を見た。


「修理代払います。」

「当たり前だ。」


二人は車に乗り込んだ。


「でも結構古い車ですよね。」

「ああ、九津の車だ。」

「九津?」

「俺の同僚だ。もう死んだがな。」


六花がはっとする。


「あのう、私はかなり大変な事をしてしまったのでしようか。」


彼女が上目遣いで彼を見た。


「かなり、な。」


それから車を走らせている間、六花は何も喋らなかった。

結構おしゃべりな彼女だ。

セイは少しばかり言い過ぎた気がして来た。


「……、その、」


彼女のアパートの近くまで来た時に

沈黙にたまりかねてセイが口を開けた。

だが、


「あの、スーパーに寄って下さい。」


六花が指を差す。


「……お、お前な、」

「うちにはもう食べるものはないし、クロのご飯も買わないと。」

「……、」


猫のエサだ。

セイは無言のままスーパーの駐車場に車を入れた。




「カートを押してくださいね。」


店内に入ると六花は手で耳を押さえながらセイに言った。


「お、俺が何で、」

「だって私は耳を押さえないと。」


と言うと彼女はさっさと中に入って行った。

セイは仕方なくカートを押して彼女の後ろを着いて行った。


「セイはご飯は何が良いですか?」


彼はじろりと彼女を見ると寿司をカートに入れた。

手元のカートにその金額が表示される。


「お前、奢れよ。」

「えっ、どうしてですか。」

「昨日からの車代だ。」

「うーん、まあ仕方ないですね。じゃあ私は唐揚げにしよう。」


呑気な様子で六花は弁当を選んでいた。

だが物を取る瞬間だけ耳から手を放す。

それほど彼女の大きな音に対する反応は敏感なのだろうか。

セイには分からなかった。


ペット用品の売り場に二人は来た。

六花が今食べさせている猫のエサを手に取るが、

それをセイは元に戻しシニア用の猫の缶詰を手に取った。


「え、なんで。」

「クロは年寄りだ。歯も悪い。こっちにしろ。」

「でも高い……。」

「これは俺が出す。」


ぽかんと六花がセイを見上げた。

するとセイが顔をそらせた。その耳は赤い。

六花はそれを見てニヤリと笑った。


「じゃあ人用のデザートも買いましょ。」

「お前が出せよ。」


ショッピングは素早く終わる。

支払いも電子マネーだ。

買い物を済ませて二人は再び車に乗り込んだ。

だが駐車場を出る時に一台の車が

激しくクラクションを鳴らして追い越して出て行った。

セイは警官だ。

運転は慎重だがそれにしびれを切らせたのかもしれない。


「なんだ、あの車。」


彼は抜いて行った車を見た。

そして助手席の六花に振り向いたが彼女は俯き目を見開いていた。

全く身動きをしていない。


「六花、おい、どうした。」


セイが再び駐車場に戻り六花に声をかけた。


「大丈夫か?」


セイが六花の肩に触れた。


「……あ、はい、すみません、もう大丈夫です。」


消え入りそうな六花の声だ。


「大きな音が駄目だと聞いたが、」

「そうです、動けなくなっちゃうんです。

さっきはいきなりだったので耳も抑えられなくて……。」

「家にキャンセラーのスペアがあるんだろ?」

「はい。」

「じゃあ、早く帰ろう。」


彼は再び車を出した。

どことなく前より慎重になる。


「ところで六花、

お前は昨日どうしてあんなに家に帰りたかったんだ?」


六花がちらりとセイを見る。


「家の中のごみを見られたくなかったのか?」

「……それもあるけど、」

「クロが心配だったのか?」


六花がにこりと笑う。


「そうです。」


六花は前を見た。


「ずっと猫が飼いたかったけど飼えなかったんです。

でも一人暮らしを始めたら飼えるなと思ったら、

警察に呼び出された時に受付にクロがいたんです。

小さいケージに入ってボロボロで丸くなっていたから

どうしたんですか、と聞いたら捨てられてたって。

この後どうするんですか、と聞いたら

引き取り手が無かったら殺処分だと。

だから飼い主が来るまで預かりますって。」


六花はクロを見かねて引き取ったのだろう。


「野良猫じゃないのか?」

「首輪をしていた跡があったんです。

それでマイクロチップが入っていた所に傷があって。

引き取った後に動物病院に連れて行ったら言われました。

チップを抜いたんじゃないかって。」


それを聞いてセイもさすがに気分が悪くなった。


「……お前がやったことは正しい。」


六花がはっとセイを見た。

あまりにもじっと見られるのでセイは気恥ずかしくなった。


「あまり見るな。」


六花がはっとして俯いた。


「す、すみません、

そんな風に言っていただけるとは思わなかったので。」

「……正しい事は正しい。」


六花が小さな声で言う。


「ありがとうございます。」


その後二人には会話は無かった。

だがその空間は居心地は悪くなかった。




二人がアパートにつくと花咲が出て来た。


「ほら、これがゴミ分別の冊子。」


とセイに小冊子を渡した。


「あれ、私にじゃないんですか?」


六花が言うと


「あんたは信用出来ない。彼氏に渡しておく。」


セイと六花は顔を見合わせる。


「じゃあ頼むよ。」


と花咲は言うとさっさと部屋に入って行った。

二人は無言で部屋に向かう。

扉を開けるとクロがよたよたと走って来た。


「にゃあ」


クロは六花の足元に纏わりつき、続いてセイの足にも体を寄せた。

セイはそっとクロを抱き上げる。


「こいつ、人懐っこいな。」

「でしょ、だからやっぱり飼い猫だったと思うんです。

それで人に慣れているから可愛がられていたと思うんだけど、

どうして捨てられちゃったんだろうって。」

「チップも抜かれていたんだよな。」


セイがクロの首を触る。

大きな傷ではないが抉られたような部分があった。


「傷はもう塞がってるけど、可哀想ですよね。」


セイがそっとクロの首筋を撫でた。


「俺はクロにエサを食べさせる。お前は飯の準備をしてくれ。」

「はい。」


自分の猫なのにまるでクロはセイのもののようだと

六花は思ったが嫌な気はしなかった。


「あー、その前にキャンセラーどこだったかな?」


六花が隣の部屋に行きその中を見渡す。


「なんか色々と場所が変わっちゃったから

どこにあるか分からなくなっちゃった。」


六花が呟くように小声で言った。

それをセイが聞く。


「なんだ、俺が悪いのか。」

「えっ、聞こえたんですか。」

「俺は耳が良いんだ。内緒話でも聞こえるから気をつけろ。」

「了解でーす。」


六花がキャンセラーを見つけると充電を始めた。


「2時間ぐらいかかります。」

「普段から充電しておけよ。」

「いやー、そうですね。」


と彼女はぺろりと舌を出す。

セイはそれを見て仕方ないとため息をつき猫缶を出した。

それを見てクロの目つきが変わり甘えた声で鳴き出した。

猫缶が食べ物である事はクロは分かっているのだ。


クロは一体どこから来たのか、

どうして捨てられたのかそれは今は分からない。


人に対して警戒心は持っていない。

可愛がられていたはずなのだ。

それが裏切られたのに今は無邪気にえさを食べている。


そんないたいけなものがどのような経験をしたのだろうか。

そんなクロの様子を見て六花は哀しくなる。

そしてセイもそれを分かっているようだ。


六花にとってセイはどのような人なのか

まだよく分からなかった。


愛想が悪く口数も多くはない。

ただ、困っている人を見捨てる性格ではないのだ。


自分が鬼に襲われた時も部屋に送ってくれた時も

無愛想ながら助けてくれた。

仕事だからと言う事以上に彼には思いやりがある。


だが、彼には何かしら大きな秘密がある気が六花はしていた。


美戸川の態度、それに対するセイの反応、久我の言葉、

それらを考えるとセイには何かがある。


そして鬼、だ。


六花自身は茨島神社の巫女であり、そこに関わる家系だ。


茨島神社には昔から鬼伝説がある。

あの黒岩も鬼が封じられたものらしい。

だから六花が鬼に関わりがあっても不思議ではない。


だがセイは?

彼にはどんなかかわりがあるのだろうか。


クロにエサをあげて六花の前にセイが座った。


「お寿司、好きなんですか?」

「あ、ああ、まあ、和食の方が、」


彼は手を合わせて食事を始めた。

その時六花は彼の右手を見る。


「手袋、取らないんですか?」


彼ははっとして手を見る。

セイはいつも黒い皮の手袋をしている。


「手袋はしていない。」


彼は両手を彼女に見せた。

右手は黒いが左手は普通の色をしている。


「あ、ごめんなさい。」


多分これも彼の何かしらの事情なのだ。

触れてはいけないものに触れてしまったようで、

彼女は少し気まずくなった。

セイは寿司をつまみながら彼女を見た。


「気にするな、俺は気にしていない。」


六花は少し上目遣いで唐揚げを食べながら彼を見た。


「生まれつき右肩から手の先まで色が違う。」

「痣ですか?」

「痣、と言うか……、」


彼はお茶を飲んだ。


「俺はつぎはぎなんだよ。」

「つぎはぎ……。」






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