44輪 薔薇たちの密談Ⅲ

 赤白の色彩が扉の向こうへと消えると、途端に室内は静寂に満たされた。その落差がおかしくて、ロザリーはふと息を漏らして苦笑した。


「あんなにはしゃいで、困った方ですこと」


 ロザリーは呟いたが、先ほどのジェイデンの振る舞いがロザリーとケイレブの話し合いをしやすくするためのものであることは明白だ。だからこうして、二人きりにしてくれた――ジェイデン自身も、改めてミンディとの意思疎通を図るつもりだろう。


 呆然と扉の方を見ていたケイレブが、我に返ってロザリーへと視線を移した。


「ご存じだったんですか、あの二人の関係を。だから殿下とのことも、頑なに……」


 ケイレブの眼差しにはまだ混乱があった。ロザリーは口元にだけ淡く笑みを残して、彼の透き通った瞳を見据えた。


「殿下とわたくしは、もとより利害関係だけの繋がりで、ケイレブ様が思っていらっしゃるような間柄ではありませんでした。ご覧になったでしょう? 先ほどの、殿下の楽しそうなお顔。わたくしに対して、殿下があのような表情をすることはありえませんわ」

「しかし……」


 いまだ得心がいかないようすで、ケイレブは眉宇びうを歪める。彼がこれまで信じていたものの多くが偽りだったのだ。戸惑うのも無理はない。

 ロザリーの感情は不思議と凪いでいて、当惑するケイレブの表情を冷静に見ていられた。


「殿下とわたくしの間に愛はありませんでしたけれど、意に染まない婚姻を望まないという一点で意見が一致して協力をしておりました。その面だけで見れば、同志とは呼べるかもしれませんわね」


 ロザリーとジェイデンは互いに理解者にはなれても、当たり前の恋人や夫婦には決してなれない。なにがあってもそれは揺るがなかった。


 共にいればロザリーはジェイデンに対抗せずにはいられないし、逆もしかりだ。深くつき合い過ぎれば必ずどこかで致命的な衝突を起こし、一歩踏み違えばたちまち憎み合うことになる。それくらい危うい綱渡りをしながら、ロザリーとジェイデンは向き合ってきている。


 争いが二人の間だけで済む内はいい。しかしジェイデンは皇太子だ。いずれ国を背負う。そのときに皇后の地位を得たロザリーと衝突すれば、派閥を生み国を割ることさえありえるのだ。


 ならば、国や家の利害よりも、それぞれが共にいて心安らげる相手と添う方がいい。と、双方が考えるのは必然だった。


 その思惑に今、陰りが兆す。


「わたくしたちは、ずっと嘘をついておりました。軽蔑なさいますか?」


 尋ねたものの、ロザリーの覚悟はすでにできていた。ケイレブを欺き、傷つけ、手まで汚させてしまったのはロザリー自身だ。彼が見放したとしても、それもまた報いと思えた。


「どう言うべきか、分からないのですが――」


 ケイレブは瞳を彷徨わせながら、そう前置きをした。


「わたしは、望まない婚姻の末に、罪を犯した女性を知っています。実子さえも捨てたその女性がその後、幸せにしているのか、あるいは不幸になったのか。わたしには知る由もありません。少なくとも残された子供は……大人になっても癒えないほど深い傷を心に負いました。なので――」


 そこで一度、ケイレブは深呼吸を挟んだ。


「お二人共が意に染まないと考えて、現状を変えるために行動されたなら、わたしは批難できません。心を殺した婚姻で、ロザリー殿が母と同じ後悔に陥るくらいなら……そうなる前に、わたしが騙される方がずっとましです」


 母、とケイレブが口を滑らせたのをロザリーは聞き逃さなかった。では、残された子供とは彼自身のことか、と。ロザリーの中で推論が繋がっていく。


 ケイレブは戸惑いと必死さのあまり、自分がなにを口走っているかあまり分かっていないようだった。ついには言葉に窮し、困り果てて頭を掻いている。


「だから、ええと……参ったな。こんな話がしたかったのではなくて、つまり――」


 ロザリーはケイレブの言葉を少しも聞き漏らさないよう、じっと黙っていた。彼がなにを言おうと、すべて受け止める心づもりだった。


 ケイレブがもどかしげに掛布をはねのけてベッドから立ち上がった。かと思えば、すぐに膝を折り、ロザリーの前に姿勢よく跪いた。背の高い彼は床に跪いてなお、椅子に座るロザリーと目の高さがさして変わらない。


 瞠目するロザリーの瞳を、ケイレブはわずかの揺るぎもない真っ直ぐな眼差しでとらえた。


「この感情は、永遠に仕舞っておくべきものと思っていました。殿下の思い人に対し、許されるはずがないと――でも、違うのなら」


 躊躇いがちに、ケイレブはロザリーの手を握った。


「ロザリー殿。わたしも――わたしは、あなたが好きです」


 つかの間、ロザリーの思考は動きを止めた。ケイレブの言葉が浸透するまで、わずかながら時間が必要だった。けれど頭の中心にまで言葉が届くと、目覚めるように熱さが全身を駆け巡った。


 泣くのだけは必死に堪えた。代わりに笑顔を浮かべたが、うまく笑えている気がしなかった。ケイレブからのたった一つの言葉でこんなにも心動いている自分に、ロザリーはなにより驚いた。


「――ありがとうございます」


 震える声で答え、ロザリーはケイレブの大きな手を握り返した。


 ケイレブの顔がほころんだ。安堵したように強張りがすっかり解け、目元が照れくさげな薄紅に染まる。彼はロザリーを見詰めたまま、繋がれた手をやや慎重な動作で持ち上げて、指先に口づけた。


「……怪我をしていてよかった」

「え?」


 ケイレブの呟きが吐息と共に指先へ触れ、ロザリーはつい短く聞き返す。彼は自分の発言に遅れて気づいたようすで、恥ずかしげに目を逸らした。


「いえ、その……まともに動ける体だったら、おそらく、さっきのジェイと似たことを……」


 一瞬だけ唖然として、ロザリーは盛大に噴き出した。令嬢としての見栄に構っていられないほど、おかしくておかしくてたまらない。自覚はなくともロザリー自身も、先ほどのジェイデンと同様にかなり浮かれているのかもしれない。ケイレブの恥ずかしげな表情が、また余計に愉快だった。


 笑うあまり、ロザリーは体勢を崩して前屈みになった。途端に腰から背中へ痛みが走って、瞬間的に笑いが引っ込む。


「痛た……」


 悶絶するロザリーに、ケイレブが慌てて両手を伸ばす。抱きかかえるようにロザリーを支えた瞬間、今度はケイレブがうめいて顔を歪めた。咄嗟に重傷の左肩へ力を入れてしまったのだ。


 ロザリーとケイレブは互いの体を気づかいながら、間近に顔を見合わせた。同時に、笑み崩れる。揃って満身創痍なありさまに、笑うしかなかった。


 これほど無防備に笑ったことが過去にあっただろうかというほど、二人は笑った。互いの気どらぬ笑い声が、鼓膜に心地いい。


 ひとしきり笑い合い、ようやく共に収まった頃、ケイレブがロザリーの頬に触れた。

 傷に響かない側の手で滑らかな頬を撫で、指先でやわく耳たぶに触れる。そこに光る蜂蜜色の耳飾りを確かめると、同じ色のケイレブの瞳が愛しげに細くなった。


「怪我が癒えたら、改めて――抱き締めにいっても、いいでしょうか」


 思いがけず大胆なケイレブの発言に、ロザリーは目を見開いた。

 意外にも彼は、恋愛にいざ本気になると、かなり積極的なたちなのかもしれない。


 嬉しいような恥ずかしいようなときめきに、くらくらしそうになりながら、ロザリーは頬に触れるケイレブの手に自身の手を重ねた。


「心から、お待ちしておりますわ」


 ほほ笑んだケイレブの顔が近くなった。ロザリーは自然と目を閉じた。柔らかな熱が唇に触れる。

 これから先の幸福に思い馳せながら、恋人たちは甘いひとときに身を浸した。

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