43輪 薔薇たちの密談Ⅱ

 しん、と静寂が落ちた。直前まで引き結ばれていたケイレブの口が、顎を落とすようにぽかんと開かれる。彼は無音で数度、口を開閉し、意識をとり戻そうとするかのように額を叩いた。


「その、好きというのは、どういう意味で……」


 混乱をきたすケイレブに、ロザリーは目を細めてほほ笑んだ。


「お慕いしている、という意味です。わたくしは、ケイレブ様のことを心からお慕いしております。ずっと以前から」


 聞こえているか怪しいほど呆けた顔で、ケイレブはロザリーを見詰めていた。しかしきちんと聞こえている証拠に、彼の頬にみるみる赤みが差していく。やっとまばたきをしたあとで、ケイレブは大きく息を吸い込んだ。


「わたしは――」

「それは本当ですか」


 まったく別の方角から上がった声で、ケイレブの出鼻は挫かれた。ぎょっとみはられた彼の目線が、ロザリーの背後へと逸らされる。


 彼の見やった先では、赤毛の侍女が静かに控えていたはずだった。背中を痛めているためにロザリーが振り返れずにいると、侍女の振る舞いを忘れたようにミンディが勢い込んで進み出てきた。座るロザリーの真隣に立った彼女の目元には、ほのかな朱が注がれていた。


「ロザリー様、今のお話は本当ですか」


 強張った声で、ミンディは繰り返した。彼女の眼差しには真剣を通り越して鬼気迫るものがあり、ロザリーは少し首を傾げてから頷いた。


「本当よ。わたくしが信じられない?」


 ミンディは焦ったように首を左右に振った。


「いいえ、そうではありません。そうではなく、ただ、あの……その、では……」


 胸の前で何度も指を組み替え、ミンディはひどく狼狽を見せる。ロザリーが怪訝に見上げていると、ミンディの目元の赤みがじわじわと頬まで広がっていった。


 唐突に、室内で笑い声があがった。ミンディが弾かれたように振り返る。彼女の視線の先に目をやれば、皇太子ジェイデンがベッドの柱に手をついて体を低く丸め、肩を震わせていた。

 よほどなにかがツボに入ったらしく、ジェイデンは腹を抱えて喉を引きつらせ、見栄をとり繕うことすらできぬほどに笑っている。


「この流れは――あまりにも、傑作――っ」


 笑いの合間に呟きが聞こえるも、途切れ途切れでほとんど声になっていない。

 ロザリーとケイレブが唖然とする一方で、ミンディが彼女らしからぬ荒っぽさで足を踏み鳴らした。


「殿下、ご存じだったのですね!」


 いまだかつてないほど感情的に、ミンディがわめいた。初めて聞く彼女の大声に、ロザリーはちょっと目をみはった。

 ジェイデンはミンディに怒鳴られても、変わらず大笑いしている。目の端に涙さえ浮かべ、息も絶え絶えなありさまだ。皇太子は引きつる喉からやっとのことで、まともに意味の通じる声を出した。


「そうだな。知っていた」


 ミンディは衝撃を受けたようすで、赤い頬に両手を当てた。


「卑怯です! 知っていて、あんな――」

「あの場でわたしの口から言ったのでは、君は信じなかったろう?」

「それは、そうかもしれませんが……黙っているなんて」


 言葉を詰まらせて、ミンディは顔を覆い隠す。波打つ赤毛の間から覗いた耳が、髪色が移りでもしたように真っ赤になっていた。


 ジェイデンとミンディのやりとりを眺め、ロザリーは二人の間でなにがあったかおおよそ察した。不測の事態があったとはいえ、ジェイデンはロザリーの働きかけ通りに行動を起こしたようだ。


 会話内容から、ジェイデンがなにか騙し討ちのようなことをしたと分かる。それに対してミンディが恥じらい怒っている姿が、ロザリーにはたいへん新鮮だった。それだけ彼女が、皇太子に心を開いているということだ。


 ロザリーが冷静に二人を見るかたわらで、ケイレブは一人だけすっかり状況からとり残されていた。しばらく唖然と言葉を失っていたが、さすがに居心地が悪くなったらしく、笑い続けている従弟へ控えめに尋ねた。


「ジェイ、申しわけないが……これは、どういう状況だ?」


 従兄に答えるために、ジェイデンは喉を鳴らしてやっと笑いを収め、体を伸ばした。


「つまり、こういうことだ」


 言いながら数歩進み出て、ジェイデンはミンディの肩を強く抱き寄せた。顔を隠していたミンディの両手が勢いで外れる。ほのかに色づいたこめかみへ唇が押し当てられた。ミンディの赤面が首まで広がった。


「あら、羨ましい」

「えっ」


 ロザリーは思ったままを呟き、それを聞きつけたケイレブが仰天の目を向けた。

 ジェイデンの腕の中で、ミンディは跳ねる魚のように身をよじった。


「まっ、待ってください! わたくしは、まだ――」

「まだ、なんだい?」


 問いかけながら、ジェイデンは逃がすまいとばかりに抱く腕の力を強める。ミンディはわずかでも体を離そうと、ジェイデンの胸を両手で押した。


「ま、まだ、わたくしはなにもお返事しては――」

「万が一、ロザリーの気持ちがわたしにないとはっきりすることがあれば申し出を受ける――と約束したのは、わたしの記憶違いだったろうか」


 ミンディの顔の赤さが一段と鮮やかになった。悲鳴のような声をあげて、彼女は再び両手で顔を覆った。


「こんなの詐欺ではありませんか! 始めから分かっていたなんて、ずるいです」


 ジェイデンは笑い声をたてた。両腕でしっかりとミンディを抱きすくめ、彼女の赤い髪へと口元をうずめる。


「詐欺だろうとなんだろうと、約束は約束だ。それとも君は、顔も見たくないほどわたしが嫌いかい? だとしたら無理強いはできないが……」


 ジェイデンの声色がかすかに陰る。ミンディは顔を覆ったまま首を縮めた。


「そ……そんなことは、言っていません」


 蚊の鳴くような声での返答に、ジェイデンは再び破顔する。


「それなら、顔を隠さずにこちらを見たまえ」


 いったん腕を解いたジェイデンは、ミンディの両手をつかんで顔から離させた。すぐさま手を放し、ミンディの両頬を左右から手の平で挟んで仰向かせる。


「批難ならばいくら聞く。罵倒も甘んじて受けよう。それでもわたしは、君を手放すつもりはない」


 囁きの終わりと同時に唇が重なった。ミンディの肩が跳ね上がる。数秒の口づけ。ミンディが膝から崩れ落ちた。


「おっと」


 腰を抜かしたミンディをジェイデンはしっかりと抱きとめた。自失したミンディの顔はもはや火を噴かんばかりの赤さで、瞳は目を回したように視点が定まっていなかった。


 ロザリーは呆れ果て、大げさにため息をついた。


「殿下ったら。浮かれ過ぎでしてよ。見苦しいですから、それ以上は人目をはばかっていただけますかしら」

「ロザリー様!」


 ミンディはロザリーの声で瞬く間に意識をとり戻して素っ頓狂に叫んだ。その隣で、ジェイデンは真面目くさった顔になってふむと唸る。


「ロザリーの言うことはもっともだ。では、我々は下の客間へ移るとしよう」


 ジェイデンは身を屈めてミンディの脚に手を添え、ひょいと抱き上げた。またミンディの口から頓狂な悲鳴が飛び出た。


「殿下、歩けます! わたくしは自分で歩けますので!」

「腰を抜かしたのだ。無理はよくない」


 機嫌よく言って、ジェイデンはミンディを抱えたまま、弾む足どりで部屋の出口へと向かう。肘で器用に把手を回し、肩で扉を押しながら、皇太子は室内に残るロザリーとケイレブへ顔を向けた。


「君たちは君たちで、ゆっくり話をつけたまえ」

「あの、待ってください! やはりわたくしはロザリー様のお世話を――」


 ミンディの抵抗は、無情に閉じた扉によって途切れた。

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