42輪 薔薇たちの密談Ⅰ

 ロザリーは起き上がれるようになると、ケイレブに会うため真っ先にユーゴニス伯爵邸へと足を運んだ。まだ腰に痛みがあり、あまり無理がきかない体ではあったが、きちんと固定をすれば座って話すくらいはできる。とにかく彼の無事な姿を直接見なくては、とても安穏と寝てはいられなかった。


 赤毛の侍女に片手を支えられてロザリーが入室すると、そこには先客がいた。


 四柱式ベッドのかたわらに置かれた肘かけ椅子に、ミルク色の長髪を垂らした後ろ姿がある。ロザリーが扉の前で軽く鼻白んでいると、皇太子ジェイデンはすぐに振り向き、白薔薇の美貌をとろけさせるように相好を崩した。


 見慣れているはずの皇太子の笑顔にロザリーは、おや、とささやかな疑念を覚えた。


「君もきたか」


 ジェイデンの声の響きまでどことなく甘いようだった。注意深く聞かねば分からない程度の違いだが、彼の言った〝君〟がロザリーを差していないと直感する。


 ロザリーは隣で目線を下げている侍女ミンディをちらとだけ見やってから、笑顔を作った。


「殿下がお見えとは存じませんでした。ご挨拶を申し上げますわ。もしかして、お話のお邪魔をしてしまいましたかしら」

「いいえ、まさか」


 慌てたように答えたのは、ベッドにいるケイレブだった。


 ケイレブはごく寛いだ表情で、寝具の上に身を起こしていた。顔色も悪くはないようだ。しかし申しわけ程度にシャツを羽織った体は、可動を制限するように左肩から胸にかけて分厚く包帯が巻かれていて、見るからに痛ましかった。


 利き腕でない方といえども肩が動かせないのでは、さぞ不自由だろうに。それを窺わせない自然さでケイレブはロザリーに笑いかけた。


「出迎えもせず、こんな見苦しい恰好で申しわけありません」

「その肩では着替えもままならないでしょうから、お気になさらないで。身なりよりも、早く怪我を治すことの方が重要ですもの」


 ロザリーがゆっくりとベッドへ歩み寄って言えば、ケイレブの笑みが苦笑じみたものになった。その横で、ジェイデンがふと笑い声を漏らす。


「ケイレブ、今の言葉をそっくりそのままロザリーに返すべきではないか」

「おい、ジェイ」


 焦り咎める口調でケイレブは従弟を呼ぶ。当のジェイデンはまるで聞こえていないかのように、ベッドの従兄から顔を逸らした。


「ミンディも、そう思うだろう?」


 皇太子から水を向けられ、ミンディの肩が小さく跳ねた。彼女は顔色を窺うようにロザリーとジェイデンの間で目線を行き来させてから、困ったように複雑な笑みを浮かべた。


「あまりご無理はなさらないでいただきたいと、思ってはおりますが……」


 ミンディは言葉を濁したが、実質は皇太子への同意だ。それを受けてジェイデンがやけに得意げな表情をしているのが、少々ロザリーの気に障った。


 ロザリーが軽く睨めつけると、ジェイデンは不敵な笑みで立ち上がった。優雅にお辞儀するような動作で、肘かけ椅子をロザリーへと明け渡す。


「どうぞ」

「……恐れ入ります」


 痛む体でこれ以上の立ち話を続けるのが困難なのは確かなので、ロザリーは皇太子の厚意をひとまず素直に受け入れた。

 ミンディの腕を借りて、ロザリーはベロアの座面へと慎重に腰をおろした。


「ありがとう、ミンディ」


 楽な姿勢になったところでロザリーが礼を言えば、ミンディは少しほほ笑んで後ろへと下がる。ジェイデンも椅子から数歩距離をとり、ベッドの柱にもたれて立った。

 ケイレブは居住まいを正すようにベッドの上で身じろぎして、ロザリーの方へ上半身を向け直した。


「やはり無理をされているのでは。少し、お痩せにもなったような」


 ひどく気づかわしげに眉を寄せるケイレブへ、ロザリーは努めて笑みを向けた。


「多少の無理は承知で、わたくしがきたかったのです。助けていただいたお礼も、まだ言えておりませんでしたし――」

「それくらいのことであれば、伝言でも十分です」


 前のめり気味に強めの語調で言われ、ロザリーは軽く目をみはった。ケイレブが平時に相手の話を遮るような喋り方をするのは、たいへん珍しかったからだ。

 ロザリーが驚いて返事をしかねていると、ジェイデンのため息が会話に割り込んだ。


「せっかくきてくれたロザリーに、そう追い返すようなことを言うものではないと思うが」


 ジェイデンにたしなめられ、ケイレブはちょっと言葉を詰まらせた。


「追い返すなんてつもりは……わたしはロザリー殿の治療が長引くことの方が気がかりで」


 自身の方が重傷であるはずなのに、あくまでもケイレブはロザリーへのいたわりを優先する。それはロザリーにとって嬉しくありつつも、少々の切なさを胸によぎらせる。


 ロザリーの怪我は、身から出たさびと言える――目的のために多少危ない橋を渡ったとしても、自分ならすべてうまくやれると、慢心していた。その傲慢の結果、侯爵家の御者一人の命が失われ、ケイレブに大怪我をさせてしまった。罪悪感に苛まれないはずがなかった。


「わたくしが、どうしてもケイレブ様にお会いしたかったのです。もちろん、無理をできない状態であることも、周囲に負担を強いてしまっていることも、重々理解しております。それを押してでも、ケイレブ様のお顔を見て安心したかったのです。ですからこれは、わたくしの我が儘ですわね」

「ロザリー殿……」


 強がってほほ笑むロザリーに対し、ケイレブは返す言葉に迷ったようすで名前を呼んだ。彼の蜂蜜色の瞳を見詰め返し、ロザリーは身を縮めるように体の前で両手を重ねた。


「恐ろしかったのです。ケイレブ様が撃たれた瞬間、本当に……怖かった。自分に銃を向けられたときよりも、ずっと。ケイレブ様のご無事な姿をこの目で見るまでは、二度と眠れない気がして、わたくし――」


 すべて、ロザリーの偽らざる本音だ。

 助け出されたあと、一度目覚めてからと言うもの、ケイレブの体から散った赤を何度も夢に見るようになった。そのたびに飛び起きては、震える体を必死で押さえ込んだ。それほどまでに、今回の件は強烈なトラウマとしてロザリーの脳に刻み込まれていた。


 体の痛みよりも、悪夢で精神を削りとられていくのがあまりにも耐えがたかった。


 ロザリーは改めて、目の前のケイレブの姿を眺めた。包帯に覆われた左肩は痛々しいが、彼はそこにいて、呼吸し、喋り、澄んだ瞳で真っ直ぐにロザリーを見ている。


 ケイレブが生きている。その姿を間違いなく確かめられたことで、今のロザリーは満足だった。恐怖によって胸の内で冷たく凍りついていた部分が、ゆっくりと温まりほぐれていく。


「よかった……ケイレブ様が生きていてくださって、本当に……本当によかった――申しわけありませんでした、巻き込んでしまって。ありがとうございました、助けてくださって」


 ずっと胸につかえていた謝罪と感謝を伝え、ロザリーはようやく、ここへきた目的を果たせたと思えた。

 ケイレブの凜々しい眼差しが少し見開かれた。彼は困惑げに瞳を逸らし、いつもより癖が目立つ髪を掻いた。


「謝っていただくようなことは、なにもないのですが……怪我をしたのは、わたしの油断が原因です。わたしは近衛騎士として、殿下の命令に従って役割を果たしただけで――」

「それは違うだろう」


 ジェイデンが、強い声音でケイレブの言葉をはねのけた。美貌の皇太子は不機嫌そうな無表情で、ベッドの従兄を見下ろしていた。

 話を遮られたケイレブは、ベッドの柱にもたれている従弟を睨み返すように顔をしかめた。


「なにが違うと言うんだ」

「君はロザリーが行方知れずと聞いたとき、ザックが止めなければ、わたしに逆らって一も二もなく飛び出していた」


 間髪入れずに答えたジェイデンの声には、表情同様の不満と呆れが含まれていた。ケイレブはたじろぎ、決まり悪げに瞳を泳がせた。


「それは……当然だろう。ロザリー殿が危険にさらされたんだ。彼女は、君にとって重要な女性だ」


 弁解を聞いて、ジェイデンの目が胡乱げに細まった。鳩羽はとば色の眼差しに、ほのかな嘲りまで乗る。


「ふぅん。では、攫われたのがわたしにとって重要な別の人物だったとしても、君はザックが声を荒らげねば止まらなかったほど動揺したということか。長いつき合いだが、君がそこまで他人に感情移入できるたちだったとは、迂闊にも知らなかった」

「だから、それは……ジェイ、わたしになにを言わせたいんだ」


 ケイレブはもどかしげに右手でチョコレート色の髪を掻き回す。ジェイデンは鼻を鳴らして顎を突き出した。


「くだらないこだわりは捨てろということだ」

「まるで意味が分からない。はっきり言ってくれないか」

「度しがたい鈍さだな。以前から君には――」

「よろしいですわ、殿下」


 ジェイデンによる追及を、ロザリーは遮ってやめさせた。室内の視線が、今度は彼女へと集まる。

 ロザリーは顔だけを振り向け、こちらを見下ろす元婚約者の眼差しを正面から見詰め返した。


「今ので十分です。わたくしから、申し上げます」


 ジェイデンが軽く息を吸った。脱力するように深々とそれを吐き出す。


「まったく。不甲斐ない従兄で申しわけない限りだ――自由にしたまえ」


 諦めの表情でジェイデンは肩をすくめる。ロザリーは彼に対しておそらく初対面以来、初めて好意的な感情で笑みを向けた。


 ロザリーが顔を戻すと、ベッドに座っているケイレブは恐れるような警戒するような、強張った表情でこちらを見ていた。


「ケイレブ様に、お伝えしたいことがあります」


 真剣さが伝わるよう、厳粛な声音でロザリーは切り出した。息をのむケイレブの喉が上下するのを見ながら、彼女は心を決めた。


「わたくしは、ケイレブ様が好きです」

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