37輪 理性と悪態

 大粒の雨が窓を叩いていた。執務室に響き渡るその騒々しさは、多少の声は容易く掻き消してしまうほどだ。そんな雨音に大声で張り合ってまで雑談するのはわずらわしく、机に向かう皇太子とその近侍の口数も自然と減っていた。


 ジェイデンは皇太子名義の不動産の会計報告書を黙々とめくった。報告書には所々、ケイレブによるメモ書きが添えられている。それに一つ一つ目を通し、確認の署名をしていく。


 不意に執務室の扉を叩かれた。

 やかましい雨音を割ってせっつくようなその荒っぽさに、ジェイデンは声を張って返事をした。


「どうした」

「急ぎのご来客です」


 扉越しのザックの声まで、らしくない慌ただしさがあった。訝しんだジェイデンはケイレブと目配せをして、書類を伏せた。


「誰がきた」

「わたくしです! ミンディ・グンマイです!」


 ザックが答える前に別の声が叫び、ジェイデンはぎょっとして椅子から立った。


「入りたまえ」


 ジェイデンが言い終わらない内に扉が勢いよく開いた。赤い色彩がよろめくように飛び込んでくる。ジェイデンが慌てて机を回り込んで駆け寄ると、侯爵令嬢の侍女ミンディは執務室の真ん中で両膝をついた。


「突然伺った非礼をお詫び申し上げます。皇太子殿下に急ぎお願いが」

「分かった。話を聞くから立ってくれ」


 ミンディに膝をつかれるのはあまりに居心地が悪く、ジェイデンは両手を彼女へと伸ばす。その手を即座に強くつかまれ、ジェイデンはまた驚くことになった。縋りつくように皇太子の手を握ったミンディの瞳に、厚い涙の膜が張っていた。


「殿下、ロザリー様を助けてください」

「ロザリーを?」


 ただならぬものを察してジェイデンの眉間が険しくなる。


 そのとき、室内で大きな音がして、ジェイデンは反射的に顔をそちらへ振り向けた。勢いよく立ち上がったケイレブが椅子を倒した音だった。


「ロザリー殿になにが」


 椅子を直しもせずに、ケイレブは眼鏡を外しながら駆け寄ってくる。ミンディは視線を巡らせて、皇太子と侍衛の両方に向けるように言葉を続けた。


「ロザリー様に同行していた御者が……遺体で見つかったのです。ロザリー様は、見つかっていません。警察が捜してくれていますが、まだ行方が分からなくて……殿下のお力を借りられないかと、ここへ参りました」


 ミンディの話にジェイデンは息をのみ、ケイレブは顔を青くした。


「わたしが出ます」

「待て」


 眼鏡を握ったまま飛び出そうとするケイレブを、ジェイデンはすかさず呼び止めた。


「それを判断するにはまだ情報がなさ過ぎる。ミンディ、もっと詳しく状況を話せるか」

「はい。話せます」


 ジェイデンは頷き返し、腕を引いてミンディを立たせた。彼女を応接用の肘かけ椅子へと導きながら、ジェイデンは室内にいる二人の侍衛にも声をかけた。


「ザック、君もこちらで一緒に話を聞け。その方が早い。ケイレブは眼鏡を机に置け。そう気が立っていては壊してしまうぞ」


 ザックは無言で頷いて扉の前から移動し、ケイレブは少々むっとした表情のあとで素直に眼鏡を置いた。


 侍衛二名が皇太子のそばに立ち、当座の顔ぶれが速やかに応接テーブルを囲む。ジェイデンはミンディに目線を合わせて座り、改めて話をうながした。


 ミンディは顔を青ざめさせてときおりつかえながらも、はっきりとした口調で状況を語った。ロザリーを早く無事に見つけたいという、強い意思が声音に表れている。


 御者の遺体が河で発見されたこと。死因が溺水でなく射殺であったこと。この雨でありながら遺体がコートや外套を着ていなかったこと。ロザリーだけでなく、彼女が乗った馬車も破片一つ見つかっていないこと。


 ミンディの話だけで、信じがたい状況が次々に明らかになっていく。ロザリーがこの執務室にきたのがほんの数時間前のできごとであっただけに、ジェイデンの中にも動揺が走る。


 ここを出てから侯爵邸へ帰るまでの短い間で、ロザリーの身になにが起きたのか。驚き狼狽える気持ちをなだめすかしながら、ジェイデンはあらゆる可能性を思索する。

 その隣で、ケイレブがいても立ってもいられないとばかりに足踏みした。


「ジェイ、やはりわたしが行く」

「まだ待て」


 臣下の言葉づかいまで忘れたケイレブを、ジェイデンは強く押しとどめる。ケイレブはもどかしげに顔を歪め、理性的なジェイデンとは対照的に感情のまま詰め寄った。


「なぜだ。こうしている間にもロザリー殿は――」

「気持ちは分かるが少し落ち着け。すでに警察が動いている。闇雲に同じ動きをしても状況は大して変わらない」

「しかし――」


 今にも口論を始めようかというところで、ザックがケイレブの肩をつかんで強引に振り向かせた。寡黙な侍衛は驚いた同僚の襟をつかみ、顔を寄せて睨み据えた。


「言われた通り少しは冷静になれ。殿下にもお考えがある。言い争う時間の方が無駄だ」


 ザックの声も表情も明らかに苛立っていた。同僚の鉄仮面が剥がれたことで、さすがにケイレブも息をのんで口を閉ざす。ケイレブが確かに黙ったとみると、ザックは突き放す動きで襟から手を離した。


 たしなめられたことでケイレブは多少なりとも自分をとり戻したようだが、なおもどかしげに顔をこすっていた。横目にそれを見ながら、ジェイデンは今考えるべきことに意識を集中させた。


 ロザリーがなんらかの事件に巻き込まれたのは確実だ。しかも、馬車ごと攫われた可能性が高い。伝え聞く状況からみて第一に疑われるのは強盗か、身代金目的の拉致だろう。おそらく警察も、その線から捜査を始めているとみていい。


 皇王の膝元であるラガーフェルドの真ん中で、御者を射殺して侯爵家の馬車を強奪するなどあまりにも大胆だ。大雨で証拠が流れやすいとしても、目撃者が皆無ではありえまい。しかも今日のロザリーは最低限の用だけですぐ帰るつもりだったからか、比較的軽装に見えた。

 もし、犯人がただの強盗だと仮定したら、リスクに対し報酬が到底見合っていない。


 となればやはり、始めからロザリーを狙った拉致だ。ヘルツアス侯爵の嫡女ともなれば、身代金も相当な額になるはずだ。ミンディが屋敷を出た時点ではまだなにも要求は届いていなかったようだが、これから犯人から接触してくることは十分にありえる。


 しかしまだ、ジェイデンの中で強い違和感があった。

 ランブラー河で見つかったという御者の遺体の状態に説明がつかない。


 侯爵家の御者は皆、それと分かる家紋入りの黒いコートと帽子を制服として身に着けている。しかし遺体はそれを着ていなかったという。遺棄の際に脱がされたのだろうが、なぜそうする必要があったのか。


 上等なコートと言えど家紋がはっきり刺繍されていたのでは、簡単に売れるものでもない。遺体の身元を誤魔化す手段と考えるにもお粗末過ぎる。


 もっとも現実的で有効な利用方法を考えるならば、変装のためだ。侯爵家の御者の姿で、侯爵家の馬車を駆れば、堂々と通れるだろう場所はかなりある。捜査の手がラガーフェルド全体にいき渡る前まで、という時間制限つきだが。


 そこまで考えた途端、ジェイデンの中で一気に思考が繋がった。


 御者の遺体が河で見つかったのは、手間のかかる遺棄方法を講じる時間を犯人が惜しんだからなのでは。見つかったとしても荒れた河ならば、うまく漂着でもしない限り時間稼ぎくらいにはなる。であれば、彼らがそうまで性急に侯爵家を装い向かうとしたらどこか。


 ジェイデンは心当たりにはっとして、侍衛らの方へ素早く振り向いた。


「ケイレブ、ザック。どちらでもいい。今日ロザリーがきたとき、御者の他に同行者を見たか」


 突然早口になった皇太子に問われ、侍衛らは顔を見合わせた。目線と首の動きだけのやりとりのあと、ケイレブが厳しい表情で答えた。


「いいえ。御者が一人いた他は、馬車にはロザリー殿しか乗っていなかったかと」


 皇太子と侍衛のやりとりを見ていたミンディも、横から身を乗り出した。


「今朝、わたくしもお見送りをしましたので確かです。電報局と皇宮で少し用を済ませたら、すぐに戻るとおっしゃって出られました」


 ジェイデンはテーブルを叩きたくなる衝動を堪え、代わりに勢いよく立ち上がった。


「くそっ。ロザリーをもっと厳重に見張るべきだった。一人で出かけるなと伝えていたのに、迂闊なことを」


 普段なら決して人前で口にすることのない悪態を吐き出す。驚く周囲の目には構わず、ジェイデンは声を大きくした。


「ザック、すぐにラガーフェルドすべての門へ人をやって、侯爵家の馬車が通っていないか調べろ。まだ通っていなければ封鎖して確実に足止めしろ。急げ!」

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