36輪 女主人の心得
食堂で報せを受けたミンディは、その場に膝から崩れ落ちた。報せを持ってきた黒髪のメイドが慌てて両手を伸ばし、倒れ込む体を支える。
震える指でメイドの前かけに縋りつき、ミンディは蒼白な顔を突き出すように上げた。
「ロザリー様は……ロザリー様はどこに?」
メイドは悲痛に顔を歪め、長身ゆえに広いミンディの背中をさすった。
「お嬢様は見つかっておりません。お嬢様の乗った馬車の行方と併せて、警察の方が捜索してくださっています」
打ちひしがれて、ミンディは力なく頭を垂れた。
ランブラー河から引き上げられた御者は溺死ではなく、胸を撃たれていたという。つまり、ロザリー様を乗せた馬車が何者かに襲撃されたと考えられる。
強盗だろうか、とミンディは真っ先に思った。
今日のロザリーは大金や目立つ宝飾の類いは所持していなかったはずだ。けれども皇都に住む多くの庶民からしてみれば、侯爵令嬢の身に着けているものならばハンカチ一枚やボタン一つにしても高級品には違いない。
だとしても、荒天とはいえ真昼の
起きたことへの衝撃で、ミンディの肺は今にも呼吸を止めてしまいそうだった。息を吸うほど喉が鳴り、視界が白く飛びそうになる。それでも思考だけは維持しなければと、ミンディは恐慌する心を必死でなだめ、意識的に息を吐いて肩を上下させた。
「ミンディ様。警察から連絡があるまで、少しお休みになりますか? お顔色があまりにも……」
ミンディの尋常でないようすを見て、メイドは気づかって言う。ミンディはかぶりを振り、メイドの手を借りてゆるゆると立ち上がった。
「当家の者は、捜索に協力していますか」
「従僕が何名か、警察に同行しております」
メイドの答えにミンディは深く頷き、顔を持ち上げた。
「屋敷に残っている者を、全員ここへ呼んでください」
「……大丈夫なのですか」
不安げにメイドから問われ、ミンディはもう一度頷く。今にも萎えそうな脚と背筋にぐっと力を入れ、メイドに縋る手を離した。
「わたくしは大丈夫です。一刻も早くお願いします」
「……かしこまりました」
メイドは心配から後ろ髪引かれるようすを見せたが、振り切るように急ぎ足で食堂から出ていった。
一人になると、ミンディはすぐにテーブルへ両手をついて体を支えた。
心臓は軋むほど強く打っているのに、額と背筋は寒いほど血の気が引いていた。耳の奥でざわざわと雑音がしていて、それが外の雨音なのか、身の内の血流音なのかも判然としない。吐き気を堪えるように深呼吸を繰り返し、叫んで泣き出したい衝動をただ必死に抑え込む。
今、この屋敷で使用人たちを仕切るべき立場にいるのはミンディだ。とり乱して倒れるわけにはいかなかった。
ロザリーの安否は不明だが、だからこそ必ず無事だとミンディは信じた。ロザリーが帰宅したとき、ミンディが屋敷の差配をしっかりできていればきっと喜んでくれる。そのために、ロザリーはたくさんの教えを授けてくれているのだから。
教えを無駄にしてはいけない、とミンディは自身を強く奮い立たせた。
ほどなく、メイドに呼ばれた使用人たちが一人二人と食堂に集まり始めた。誰もが怯えたように顔を青ざめさせている。現在の侯爵邸はそれほど人が多くない。なにが起きたのか、すでにくまなく伝わっているのだ。
全員が揃うのを待つ間、ミンディはじっと背筋を伸ばして立ち、なにをするべきかを目まぐるしく考え続ける――絶えず頭を使っていなければ、恐慌する感情に呑み込まれてしまいそうだった。
こういうとき、ロザリーならばどうするだろう。屋敷の中でできること。外に出ねばできないこと。ミンディだからこそ、とれる手立て。思いつく限りすべてを、頭の中に並べていく。ロザリーの無事な姿を見るためならば、講じられる手段はなんでも使うつもりだ。
ミンディは腰のポケットを左手で軽く押さえた。そこにいつも忍ばせている髪飾りの硬質な感触が、スカートの
「これで全員です」
使用人たちを呼びに走り回ってくれた黒髪のメイドが、食堂の扉を閉めながらよく通る声で言った。ミンディは短くお礼を言い、不安げに身を寄せ合っている一同を見渡した。
人数は、ミンディを入れて十人に満たない。警察に同行している者を含めれば十を超えるが、名のある侯爵家の屋敷の人員としてはたいへんに少なかった。
「なにがあったか、もう聞いていますね」
ミンディが確認すると、使用人たちは隣り合った者と顔を見合わせてから、ばらばらと頷く。ミンディは一人一人の顔を見て頷き返し、深く息を吸った。
「警察の方々がこの大雨の中、ロザリー様の捜索をしてくださっています。ロザリー様は必ずご無事です。ここに残っているわたくしたちがすべきことは、無事にお戻りになったロザリー様が安心して心地よく体を休められるよう、お屋敷を整えることです。ご協力をお願いします」
一語も漏らさず伝えるように、ミンディは声を張った。これは、自身に対する言葉でもある。
怯えたようだった使用人たちの目にも、わずかながら力が宿った。共にロザリーに仕えてきた彼らが、与えられた役割を誠実に果たせる精鋭であることを、ミンディはよく知っている。仲間の死によって追い詰められている今の彼らの精神的な支柱となるのは、ロザリーが必ず帰ってくるという、希望だ。
「ロザリー様がすぐにお休みいただけるようにお部屋を暖めて、お着替えの用意を。雨でお体を冷やしていらっしゃるかもしれませんから、お湯をたくさん沸かしておいてください。温め直して食べられるようなお食事の用意もお願いします。時間的に、昼食を召し上がっておられないでしょうから」
息を詰めてこちらを見る使用人たちに、ミンディはよどみなく指示を出す。指示を受けた者は、役目を果たすために次々と持ち場へと駆けていく。最後にミンディは、ずっと近くで手伝ってくれている黒髪のメイドの前に立った。
「あなたに、ここを任せてよいでしょうか。わたくしはすぐに出かけます」
メイドは目を
「どちらへ行かれるのですか」
「皇宮へ行って、皇太子殿下にお会いしてきます」
ミンディの即答に、メイドの目がさらに大きくなった。
皇宮へ行き、皇太子にロザリーの危機を報せる。それが、いち早くロザリーを見つけるための最善手だとミンディは考えていた。
今日ロザリーが皇太子を訪ねただろうことは分かっている。いずれ警察から伝わることではあるだろう。しかし、それを待ったのでは遅過ぎる。
皇太子は以前、ミンディが行けば手続きの段階を踏まずに会ってくれると言っていた。それを信じるならば、ミンディ自ら皇宮へ出向くのが、彼に助けを求めるもっとも早い手段のはずだ。
そこまでのミンディの意図を、黒髪のメイドが察したかは分からない。それでもメイドは一瞬の躊躇いの表情のあとで唇を湿らせ、意思の強い眼差しで頷いた。
「承りました」
メイドが引き受けてくれたことがミンディは嬉しく、衝動的に彼女の手を握った。
「ありがとう。あとをよろしくお願いします」
「はい。ミンディ様はどうか道中、十分にお気をつけください」
やや頬を染めて手を握り返すメイドに、ミンディはほほ笑んで頷きを返した。
信頼できるメイドにその場を任せたミンディは、馬車を操れる者に自ら声をかけた。身支度もそこそこに馬車へ飛び乗り、
雨はまるでやむ気配がなかった。真昼にもかかわらず、ラガーフェルド全体が陰鬱な灰色に沈んでいる。普段の市街地であれば満ちている音も匂いもすべて豪雨に掻き消され、皇都と思えぬほどひっそりした空気が漂っていた。
石畳の水溜まりを車輪が跳ね上げる音と、雨が馬車を打つ音だけを聞きながら、ミンディは手の中の髪飾りを見詰めた。薄暗い馬車の中であっても、髪飾りの白薔薇はおぼろな光源だけで鮮やかに艶めく。
正直に言えば、皇太子に会って自分が励まされたいという個人的な感情を否定できない。しかしそれを抜きにしても、皇太子ジェイデンは元婚約者ロザリーを今でも大切に思っているのだから、必ずや手を貸してくれると信じられた。警察に加えて近衛府まで動員して貰えたならば、ロザリーの発見もより早まるに違いない。
ミンディは顔を上げると、赤い髪をまとめ上げて白薔薇の髪飾りを挿した。
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