28輪 甘い試練

 ケイレブは腰の位置に構えた剣を大きく振り上げた。同時に素早く一歩踏み込み、勢いを殺さぬまま目の高さで刃を返して振り下ろす。白刃はひょうと音をたてて空を切り、銀のきらめきが夜闇を裂いた。


 皇都のユーゴニス伯爵邸の庭はよくある邸宅と同様に芝が敷かれ、季節毎に彩りの変わる花壇と彫像で飾られていた。


 その庭の隅にある用具入れの建屋の前には、茶色い地面の露出した一画が設けられている。障害物をとり払って開けたその中心で、ケイレブは刃引きした長剣を黙々と振っていた。


 療養の名目で言い渡された休暇といえども、動ける以上はそうそう体力を落とすわけにはいかなかった。


 しかもケイレブは休暇でなくても、椅子に座って事務的な仕事をしている時間が長い。気をつけなければ、剣を振る筋力さえすぐに落ちてしまう。銃が輸入されるようになって久しく、武器として剣の意義は薄れつつはあるが、近衛府に騎士として籍を置いている以上はおろそかにはできない――と、いうのは、今のケイレブにとって真実であると共に言いわけだった。


 一度はベッドに入ったものの、気が立って就寝どころではなかったのだった。仕方なく起き出して気を紛らわせることを考えた結果、剣を持って庭に出た。


 日々の体力維持が欠かせないのは確かだが、普通ならば夜間訓練でもなしに、わざわざ使用人も寝静まった夜半におこなうものではない。庭にはいくつかの電灯が立てられているし、屋敷のポーチの灯りがわずかながら届くので完全な暗闇ではないものの、やはり剣先の動きが視覚でとらえづらかった。それでも、刃に滲む反射光や手足の感覚を頼りにケイレブは剣を振り続けた。


 とにかく、今は一つのことに意識を集中させることが重要だった。雑念さえ振り払えればなんでもよかった。無心になるには、体を動かすのが一番手っとり早い。

 だが、いくら日頃から鍛えていようと、体力は無尽蔵ではない。ケイレブはついに剣を地面に突いて、長躯を屈めた。


 顔を伝った汗が鼻先と顎からしたたった。髪とシャツは肌に貼りつき、肺が酸素を求めて喘ぐ。

 呼吸を落ち着かせるため、ケイレブは深く深く息を吐き出した。空になった肺へ今度は新鮮な空気が流れ込み、無心になっていた思考が急激に働き始める。


 途端に、眼裏まなうらに浮かぶ面影がある。朧気なそれが鮮明になる前に、ケイレブはさらに体を折って剣の柄頭に額を当てた。


「はあ……」


 息と一緒に声も出して意識を逸らそうとした。だがその甲斐なく、眼裏の幻影がはっきりとした像を結ぶ。それは、よく知る女性の姿をしていた。


 女性の幻影は澄ましバターのような艶の髪を波打たせ、ふちの濃い葡萄酒色の瞳でケイレブを見上げる。そつなく整えられた彼女の姿は、美しい以外に形容する言葉が見つからない。その完璧さが不意にほどけて、笑顔が灯る。


 昼間にロザリーに会ってから、その一連の映像が何度再生されたことか。ケイレブが意識を向けなくても、脳が勝手にその幻影を見せつけてくる。そのたびに心臓は痛いほど心拍数を上げ、喉が詰まるような息苦しさを感じた。


「まずいなぁ……」


 ぼやく声音でケイレブは独りごちた。

 過去にこのような経験はなかった。それでも、おおむね自身の状態は把握できていた。この心身の反応は、他に説明がつけられない。


 つまり、ケイレブはロザリーに恋をしている。たいへん信じがたいことに。


 しばらくロザリーのことを考える機会が多かったのは事実だが、それはジェイデンのためだった。

 ロザリーから皇太子への信頼を少しでも挽回しようと、彼女の好みそうなもの、喜びそうなものに、思い巡らせ続けてきた。女性関連、それも色恋への自身の不慣れさと不適格さをひしひしと実感したが、ゆえになおさら必死にとり組んだ。


 ケイレブがロザリーへの贈りものに耳飾りを選んだのも、ジェイデンへの配慮を含んでいた。

 お詫びの品として最初は、花を考えた。しかしジェイデンの名義で薔薇を贈ったばかりだ。ケイレブからも花を渡したのでは、まるで皇太子に対抗しているようにも見える。真っ先に除外した。


 菓子も考えた。けれどロザリーの製菓の腕は職人に劣らない。その彼女に半端な菓子を贈るのはかえって失礼な気がして、選びきれなかった。


 そうした消去法の末、女性への贈りものとして頭の抽斗ひきだしに唯一残ったのが装飾品だった――この発想の貧弱さは、ケイレブ自身でも認めるところである。


 乏しい経験の中で、ケイレブなりに必死に考えたのだ。贈りものといえお詫びの品であるので、あまり高価なものや華美なものは相応しくない。指輪のような、意味を持ちやすいものも避けるべきだ。極力シンプルで使いやすく、たとえ落としても惜しくないくらい、相手の負担になりにくいものを。


 苦心の末にどうにか選んだのが、飾り気のない小粒な耳飾りだった――それがこんな結果を招くなど、思いもせずに。

 耳飾りを受けとったロザリーの喜んだ顔が、また脳裏をよぎる。


 ロザリーは明敏さからか、実年齢よりもずっと大人びた印象のある女性だ。その彼女が、昼間に見せた笑顔。それは十代らしい、年相応の素直な華やぎがあるものだった。頬を薔薇色に染めた表情に、ケイレブはなぜか強く胸を打たれた。


 ロザリーのような女性でも、こんなにも少女じみた顔をすることがあるのか、と。

 笑った彼女の周りに光が舞って見えた。乱視のせいだと思おうとしたが、そうではないことは自分が一番分かっていた。


 ケイレブは長々とため息をついた。もう回数を数える気にもならない。

 夜が明ければ勤めへ戻るというのに、このままではなにをするにも集中力を欠いて身が入りそうにない。今のケイレブの感情をジェイデンに打ち明けるべきか否かの問題が、目の前に大きく横たわっている。


 ロザリーへの恋心は、ジェイデンに対する明確な不義理だ。それを理由に皇太子の近侍から外される可能性は、かなり高いと言っていい。それは、ケイレブの望むところではない。


 ケイレブは剣の柄をつかんだまま、ついに地面にへたり込んだ。剣を杖にして上体だけは支え、地面に向かって苦しく息を吐き出す。


「……これは、一体なんの試練だ」


 発した本人ですら嫌になるほど、情けない声だった。




 ❃




 鏡台前に座ったミンディは、目の前の鏡でなく、手の中の髪飾りに見入っていた。

 等間隔にプラチナの櫛歯が並ぶ髪飾りの胴には、白薔薇が可憐に咲いている。鏡台に置いた小さなランプに照らされ、乳白色の花弁が黄色っぽく光った。


 屋敷内で立ち働く人の気配はとっくに絶えていた。扉の向こうの廊下も、窓の外の庭も、夜闇に浸されてしんと寝静まっている。


 いつもであればとっくに夢の中にいる時分だ。けれど今日は寝支度が済んだあとにふと思いついて、ミンディは髪飾りを手にした。手入れ後の潤った髪へ、試しに挿してみようと思ったのだ。

 ところが、いざとなると急に躊躇いが生まれて、鏡の前で身動きできなくなった。


 ジェイデンから髪飾りを渡されたとき、戸惑いとおののきとが先にたって、まともな反応を返せなかった。


 もちろん一番には心躍る嬉しさがあった。彼には迷惑ばかりかけて嫌われていてもおかしくないと思っていたのに、むしろミンディのことを気にかけてくれていたと分かって有頂天になった。しかしそれを表に出すのは、感情が溢れるまま礼を失してしまいそうで、できなかった。


 ミンディはそっと白薔薇の花弁を撫でた。ジェイデンのハンカチにも、同じ白薔薇が刺繍されていたのを思い出す。


 皇太子の肩書きを持つジェイデンは、ミンディにはずっと縁遠い人だった。ヘルツアス侯爵家にきてから拝謁する機会は生じたが、それは常にロザリーを間に挟んでのことだ。ミンディが直接関わりを持つような相手ではなかった。


 憧れの女性の、完璧な婚約者。

 ミンディにとってのジェイデンは、そういう位置づけの男性だ。

 そんな彼の非の打ちどころのなさに、いつからか少しずつほころびが生じ始めていた。


 新春の宴では、皇太子でも感情的に声を荒らげることがあるのだと驚いた。

 焼き菓子店では、にも躊躇なく助けの手を伸べてくれた機転と行動力に感動を覚えた。


 通りで声をかけられたときには、上に立つものらしい居丈高さがあった。けれどすぐに、その傲慢さを上回るほど懐深く根気強い優しさに救われた。

 そして今日の昼間に会ったジェイデンは、これまでの彼とはまた違っていた。


 常にそつない皇太子が、力の抜けた姿勢で軽口や冗談を楽しんでいる姿は新鮮だった。ケーキの残りを自分の皿に確保する姿は、びっくりするほど子供っぽかった。婚約者だった頃のロザリーと話しているときにも、今日ほど寛いでいることはなかった気がする。


 それがいいことかは分からない。ただこれまでになくジェイデンを近くに感じ、親しみを覚えた。それがミンディに、皇太子への畏怖とは別種の落ち着かなさも感じさせた。


 ミンディはゆっくり顔を上げた。楕円の鏡に、自身の強張った白い顔がぼんやりと浮かび上がる。青い夜闇を背景に、わずかな灯りに照らされた髪がいつも以上に赤く見えた。


 意を決して、ミンディはすくうように自身の髪を持ち上げ、高い位置でねじってまとめた。そこへ髪飾りの櫛歯を挿し、捻るように押し込んでしっかり留める。


 そっと手を離せば、落ち葉色の髪に、白薔薇が鮮やかに咲いた。

 赤い髪に白い薔薇はよく映える――ジェイデンの言った通りだ。そして白薔薇の花弁は、彼の髪と同じ色をしている。


 ミンディは胸を押さえた。息苦しいほど早く、心臓が拍動している。鏡に映る髪飾りと、それを身に着けた自分から目を離せない。弱々しい呟きが口をつく。


「どうしよう……」


 髪飾りを貰ったことを、ロザリーには言っていなかった。皇太子からのお詫びの品でしかないのに、受けとったことがとても後ろめたく、罪深いことのように思われたからだ。なぜそこまで後ろ暗い気持ちになってしまったのか。今となっては自明だった。


 ミンディはジェイデンが好きなのだ。一人の男性として。

 あまりの身のほど知らずさに、ひどい自己嫌悪にかられる。


 もっと彼を見ていたい。もっと彼の声を聞きいていたい。彼がミンディに向けてくれた優しいほほ笑みと、分け隔てない言葉の一つ一つが、体の深くまで甘く甘く染みこんでいる。それはまるで、焼きたてケーキに塗る砂糖と果汁のシロップのように。


「どうしよう……」


 声になるのは同じ言葉ばかりだった。

 ジェイデンが好きなのはロザリーだ。だから、その侍女であるミンディにも親しくしてくれている。そしてロザリーも、婚約が破談になった今でもジェイデンを思っている。そのはずだ。


 ジェイデンが好きだ。ロザリーが好きだ。ミンディにとってこれ以上大切な人はいないという二人が結ばれることを、心から願っている。そこにミンディの入り込む余地はない。その考えは一貫して変わってはいない。


 それなのに、こんなにも苦しい。ジェイデンを好きになることは、すなわちロザリーへの裏切りだ。罪悪感で、胸が軋みをあげる。


 鏡に映るミンディの顔は、泣き出しそうに歪んでいた。

 今が深夜でよかった。醜い顔を、誰かに見られる恐れがない。これほど苦しい思いは、生家で虐げられていたときでさえなかったように思う。

 ミンディは鏡を見詰めて、唇を噛んだ。


 ロザリーに今の感情を打ち明けて、相談すべきだろうか。彼女ならば、ミンディを責めることはないだろう。そう思いたい。けれどそれで、ロザリーと引き離されるようなことになれば、それこそミンディは耐えられる気がしなかった。


 ジェイデンのことも、ロザリーのことも、諦めたくない。あまりにも我が儘なのは重々承知だが、それが今のミンディのありのままの感情だった。


 震える手で髪飾りを抜いた。ほどけた赤毛が、肩へと流れ落ちる。濡れたように光る白薔薇を両手で強く握り締め、ミンディは体を丸めた。


「……これは、なんの試練なの」


 悲痛な呟きは、夜闇に漂って消えた。

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