27輪 ミルクホワイト

 近頃、勘が鈍っているだろうかとジェイデンは考えた。なにげない会話の中で、致命的とはならないまでも失策や失言が続いている。


 ミンディの前でロザリーの名前を出すときには、慎重になるべきと分かっていたはずだ。にもかかわらず、気分が浮ついて意識から抜け落ちたのでは世話がない。皮肉な物言いは悪い癖だと自覚しているし、行き過ぎれば自分に返ってくるともよく理解している。その自制が少しばかりうまく働いていないかもしれない。


 ジェイデンはミンディから批難を感じとったことで、やっと内省した。


「わたしの言い方はよくなかったな。申しわけない。ロザリーを中傷する意図はない」


 真っ直ぐに見詰めてくるミンディの瞳を、ジェイデンも正面から見詰め返す。反省を表すように、続く語調をよりゆっくりとさせた。


「ロザリーがわたしを加害するような女性でないことは、よく分かっている。つき合いが長い気安さのせいか、すぐに軽率なことを言ってしまうのはわたしの至らないところだ。今後はもう少し発言に気をつけよう」


 誠実に言ってから、ジェイデンは口元に少しだけ苦笑を滲ませた。


「またロザリーに叱られてしまうな。これでは彼女に嫌われるのもやむなしか」

「ロザリー様は、殿下を嫌ってはいらっしゃらないと思います」


 思いがけない反論をされ、ジェイデンは目をみはった。ミンディは強い輝きを宿した瞳を少しも揺るがせずに言う。


「ロザリー様が殿下を悪く言われるのを聞いたことはありません――元々、他人の悪口を言われるような方ではありませんけれど――殿下のお話をされるときのロザリー様は、普段とは雰囲気が少し変わります。わたくしがそう思うだけで、他の方から見てもそうかは分からないのですが……それでも違うと感じます。それも悪い印象ではなくて、よりも親しみやすさが増すといいますか、寛いだ感じといいますか」


 ミンディは見てきたものを思い返すように、ときおり考え込む仕草をした。声にはこれまでになく自信が満ちているようで、彼女が嘘を言ってはいないと分かる。


 言葉にする内により確信を得たのか、ジェイデンを見詰めるミンディの眼差しが力強さを増した。隣にロザリーがいるときのような凜然とした雰囲気に、自然と視線を惹きつけられる。


「ロザリー様が殿下を特別に思っていらっしゃるのは確かです。ロザリー様はとても知性的な方ですから、色々なことを考えられて、今は不安が大きくなられているだけで。決して、殿下のことをお嫌いになったわけではないのです。ですから――」


 ミンディは一度、深呼吸をした。


「ロザリー様のことを、あまり否定的に思わないのでいただきたいのです。殿下はお優しい方ですし、ロザリー様のこともわたくしよりよく知っていらっしゃいます。まだ少し時間はかかるかもしれませんが、殿下がそのまま向き合ってくだされば、以前のように仲のよいお二人に戻れるはず――わたくしは、そう思っています」


 最後まで言い切り、ミンディは息をついた。凜とした空気が緩み、瞳と口元にどことなく満足げな表情が浮かぶ。

 どうやら彼女は、この話を皇太子にしたいと思いながら、長く腹の内に抱えていたらしい。


 ミンディの真摯な思いに触れ、ジェイデンはあまり覚えることのない切なさのようなものが込み上げるのを感じた。その感情を、そのまま表情として唇に乗せる。


「ありがとう」


 それ以上の言葉は、今のジェイデンには用意ができなかった。


 ジェイデンとロザリーの関係が、一般的な男女とは違った特別なものなのは確かだ。同志というべきか、犬猿の仲と言うべきか。当人らでも適切な表現は分からない。

 ジェイデンとしては、ロザリーの聡明さには一目置いているし、打てば響く会話を楽しんでいる節もある。


 一方で、どちらも他者に主導権を握られるのを嫌う気質ゆえに、距離感を見誤れば途端に衝突を起こしてしまう。その危うさから、恋愛対象にはあまりに適さない相手だ――見目麗しい皇太子の権威と遺伝子を目当てに文字通り擦り寄ってくる女性よりはずっとまし、という見方もあるが。


 対外的なメリットから、相思相愛を長く演じてきたのはジェイデンとロザリー自身だ。それによってミンディの中に深く刻み込まれているだろう婚約者らの偶像を、つき崩す段階がいずれ必要になる。


 できれば彼女を傷つけない方法で。その準備は、まだできていない。

 言葉の代わりにジェイデンがほほ笑むと、見詰めるミンディの頬に朱が差した。金の虹彩の瞳がかすかに揺れる。


「その……差し出がましいことを申し上げました」


 焦った動きで顔を伏せたミンディは、ケーキを軽く引き寄せてナイフを持ち直した。


「もう一切れいかがですか。ケーキはまだありますので」


 ミンディが早口に言うので、ジェイデンはわずかだけ残っていた分を口に放り込んで、空いた皿を差し出した。


「貰おう。せっかくだから、君も食べていったらいい」

「いいえ、これは殿下と皆様にのために作ったものですので。残ってしまっても、明日までは大丈夫ですから、ゆっくり召し上がってください。ザック様も、おかわりはいかがですか」


 隅の席で黙していたザックの皿は、とっくに空になっていた。呼ばれて振り向いた寡黙な侍衛は少しだけ目を大きくして、空の皿とミンディの手元の間で視線を往復させた。どこか迷うような侍衛の視線は、そのままジェイデンへと移っていく。


「ケイレブの分は、どうしますか。明日までもつなら、残しておいてもよいかと思いますが」


 相変わらずザックは、声音も表情も変化に乏しいながらよく気が回る。二切れ目を食べ始めていたジェイデンは、苦笑して軽くフォークを振った。


「わざわざ残す必要もない。今いない方が悪い。味が落ちる前に全部食べてしまおう――あ、その最後の一切れはわたしが食べるからな」


 ジェイデンが手を伸ばして少し大きめな一切れを確保すると、ケーキをとり分けていたミンディが少し笑った。


 ミンディのごく自然な笑顔に、ジェイデンは壁を一つ越えたと感じた。先日に泣かせてしまったのはジェイデンの手抜かりだったが、それによって彼女の中でなにかが吹っ切れたように見える。


 皇太子の肩書きを持つ以上、ジェイデンが他者と対等に話すのは困難だ。自身にその気はなくとも、権威は周囲を畏怖させ、深く関わり過ぎれば無用な欲を駆り立てる。それをジェイデンは、幼くして思い知った。


 そんな彼がおのずから距離を詰めたいと願った相手は、記憶にある限りミンディが初めてだった。


 ジェイデンの目を引き寄せて放さない、誰よりも鮮やかな色彩――その蒼天の太陽のような瞳は、いつもロザリーを見ていた。そのことに、最初にささやかな対抗心を抱いた。常にロザリーに向いている憧憬の眼差しを、自分の方へ向けさせてみたかった。

 冷静に思い返せば、子供っぽい矜持きょうじを刺激されていたのだと分かる。


 ジェイデンはどんな場面でも、視線を集める側に立ってきたのだ。眼前に立ちながらかえりみられなかったと同時に、ロザリーに負けているという事実が、彼を意地にさせた。


 さりとて結局は、ミンディが女性としてみるみる磨き上げられるさまを目の当たりにして逆に心奪われるに至ったのだから、ロザリーの方が一枚上手うわてなのを否定できない。ジェイデンなどいまだに、当初の願望さえ本当の意味で果たせないままだ。


 それでもようやく、ミンディと同じ空間に身を置き、気どらずに会話をできる距離まできた。これで満足するほどジェイデンは無欲な人間ではないが、確かに距離が縮まっているという実感には素直に喜びを覚えた。


 応接テーブルに広げられた食器すべてが空になったところで、ミンディがちらと窓の方を窺った。外はまだまだ明るいが、彼女が執務室へ訪れたときより日はいくぶん低くなっている。時間の経過に気づいて、ミンディが腰を浮かせた。


「申しわけありません。すっかり長居してしまったようです」


 応接テーブルの上を、ミンディは手早く片づけ始めた。厨房で借りた食器を積み上げ、それ以外で持ち込んだものはバスケットへと放り込んでいく。積み上がった食器はミンディが持ち上げる前に、ザックが素早く運んでいった。


 応接テーブルの上は瞬く間に片づけられた。使用前より綺麗なほどだ。その手際のよさに彼女の普段の仕事ぶりが垣間見えて、ジェイデンは感心した。

 軽く身なりを整えたミンディは、仕上げにざっとテーブル周りを確認してバスケットを持った。


「これで、おいとまさせていただきます。ご公務中に失礼をいたしました」

「いい息抜きになって楽しかった。また、いつでもくるといい。次に君がきたときには、手続きなしにここへ通すように伝えておこう。事前に知らせをくれたら、わたしの方でも必ず予定を開けておく」


 ジェイデンの断言に、ミンディは少しだけびっくりしたような表情をした。直後には、はにかむ笑顔で頬を染める。


「ありがとうございます。今日は、わたくしも楽しかったです。またお菓子がうまくできたらお持ちいたします」


 体の前にバスケットを提げて、ミンディは深くお辞儀した。


「それでは、これで――」

「待ちたまえ」


 ミンディが帰ろうとする直前で、ジェイデンは呼び止めた。急いで自身の机へと赴いて抽斗ひきだしから目的のものをつかみ出し、ミンディの傍へとって返す。


「君に渡すつもりで用意していた。危うく忘れるところだった」


 ジェイデンは不思議そうにこちらを見るミンディの左手をとり、とってきたものをその上へと置いた。


 それは、薔薇をかたどった髪飾りだった。プラチナの櫛の根元に乳白色の花弁が可憐に円を描き、たっぷりとした塗料の厚みで濡れたように光っている。清らかな白薔薇の隣には、瑞々しい葉が一枚寄り添っていた。


 ミンディは目を丸くした。


「こんなにいいもの、いただけません」


 慌てて返そうとするミンディの手を、ジェイデンは片手で押し返した。


「この前のお詫びだと思ってくれたらいい。君はわたしに迷惑をかけたと思っているようだが、そもそも君を急に連れていったのも泣かせてしまったのもわたしだ」

「ですが――」

「わたしはすでに君からのお詫びを受けとった。しかしわたしにも非があった以上、わたしからもなにかお詫びはしなくては公平ではない」


 ジェイデンは包み込むようにミンディに髪飾りを握らせた。


「それにこれは、君に似合うと思って選んだものだ。赤い髪に白い薔薇はよく映える。受けとってくれるね」


 ミンディはジェイデンの顔と、髪飾りの間で視線を何往復もさせた。困惑と混乱が前面に出たなんとも情けない表情で、先ほど侯爵令嬢のために皇太子へ凜然と言い返した人物と同一とは思えないほどだ。


 そのまま長い時間ミンディは悩んでいたが、ジェイデンが笑顔のまま引かずにいると、ようやくおずおずと手を引っ込めた。


「……ありがとう存じます」


 儀礼的な感謝を呟きながら、ミンディは確かめるように自身の手を覗き込んだ。淡く紅の刷いた唇の端が真横に引き結ばれる。その表情がどういう感情によるものかまでは、ジェイデンにも見てとれなかった。


 ミンディは髪飾りを慎重な手つきで握り直して深くお辞儀すると、逃げるように皇太子の執務室を出ていった。


 ミンディの後ろ姿を見送ったジェイデンは長髪を翻し、軽い足どりで机へ戻った。椅子に座ってもすぐに書類には向かわず、脚を組んでゆったりと背もたれに身を預ける。肩から落ちるホワイトブロンドを摘まみ上げ、目の前にかざして軽く弄んだ。


 めたような乳白色の髪をさほどいいとは思ったことはなかったが、今は悪くなく映った。


 実を言えば泣かせてしまった件で、ミンディから避けられるのではと考えていた。しかし彼女は自らの意思でここへきた。ロザリーの指示ではなく――これはたいへん重要なことだ。


 ミンディは髪飾りを使ってくれるだろうか。胸躍るような期待の中に、一筋だけ淡い不安が落ちている。

 そんな感情すべてをひっくるめて、ジェイデンは心浮き立つような愉悦を感じていた。

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