26輪 ジンジャーブレッド

 午後の執務室。ジェイデンは一人で机に向かっていた。

 彼から見て右手に置かれたもう一つ机に、普段ならば侍衛のケイレブが座っているが、今は休暇中で不在だ。整頓された無人の机上に、処理前の書類だけがいくらか積み上がっている。


 皇太子の執務室は、ケイレブがいない数日間で雑然とし始めていた。書類が応接テーブルの上にまで積まれ、処理が遅れ気味なのが一見して分かる。


 ケイレブは膨大な事務作業をこなしながら、室内の掃除や整理までまめにしてくれていたのだから、当たり前ではあった。通常なら使用人に掃除をさせるところだが、ジェイデンはあまり他人に自分のものを触らせたくなかった。


 ジェイデン自身もまったく片づけないわけではない。さりとてケイレブがいるときと同じ感覚では手の数が違うのだから、ものが増えるのは道理だ。


 だがジェイデンはあまり気にしていなかった。逃亡中の盗品仲買人の捜索について現状は動きが見られないし、その他で優先順位の高い最低限の業務もひとまず回っている。それに、ケイレブの休暇は今日までだ。明日になればすぐに片づく――などと考えていると、またロザリーから苦情がきそうであるが。


 ケイレブがいない間、手紙や書類は可能な限り仕分けた状態で持ってくるよう頼んではいた。が、やはりケイレブほど行き届いたものは期待できない。一からすべてやるよりましとはいえ、受けとったものを再度細かく仕分け直す必要がある。皇宮の事務官が無能だと言うつもりはないが、信用しきるにはジェイデンの求める水準にもう一歩届かないと感じる。


 ケイレブは本来なら机に座らせておく人材ではないが、正確で細やかな事務処理能力はやはり秘書として適性が高い。そして字に癖がなく読みやすい――一方ザックに同じ仕事をさせると字の解読作業が必要になる――少しばかり思考の柔軟さに欠ける面については、ジェイデン自身で補えるので問題ない。


 ただ、一度信用した相手には油断して騙されやすい傾向があるのは、やはり指導が必要だ――侯爵令嬢に皇太子の公務日程を漏らしている件だ。違反行為なのでなにもなしとはいかない。しかしそれは、すべてが終わったあとでいい。


 いっそのこと、罰の代わりにケイレブを事務官らのところへ講師として派遣して研修でも命じようか。だが近衛騎士から仕事の指導を受けるなど、彼らの矜持きょうじとして反発しか起こるまい。それでは誰への罰か分かったものではない。この案はすぐに思考の外へ追いやった。


 皇太子の身では皇宮内で大した人事権を持たない。とりあえず自分が実権を継承するまでにできるだけ好ましい方法を見つけておこうとだけ、ジェイデンは気長に考えた。


 執務室の扉が叩かれた。叩き方だけで、侍衛のザックと分かる。

 ジェイデンは、検問所から届いた報告書に目を通しながら返事をした。


「どうした」

「殿下にお客様です」


 扉越しの声に軽く眉をひそめて、ジェイデンは書類から顔を上げる。今日は誰とも会う約束はしていなかったはずだ。


「誰だ?」

「ヘルツアス侯爵令嬢の侍女殿です」

「通せ」


 ジェイデンは即答して書類を机に放り、素早く立ち上がった――応接テーブルの上くらいは片づけなくては。


 約束もとりつけずに皇太子のもとへ侍女をやるとは、ロザリーは相変わらずどうかしている。ジェイデンが無視できないと確信してやっているのだろうし、実際その通りなのだからますますたちが悪い。


 応接テーブルの上の書類を急いで移動させた。ついでに自身の机も見苦しくない程度に整えたところで、出入り口の扉が開く。先にザックが姿を見せ、その後ろに続いて侯爵令嬢の侍女ミンディが入室してきた。


 この日の彼女は、深緑の落ち着いたドレスに髪の赤が冴え、庭園に佇む薔薇の立木を想起させた。体の前に見覚えのあるバスケットを提げており、緊張からか持ち手を握る指先が白くなっている。

 ミンディは蒼天の瞳でジェイデンの姿を認めると、気後れの表情をとり繕うように膝を曲げて淑女の礼をした。


「皇太子殿下に拝謁いたします。突然お伺いした無礼をお詫び申し上げます」


 お手本のように慇懃な挨拶に、ジェイデンの口角が緩む。ロザリーのいない場所では、やはりまだ表情も動きも少々の固さがある。けれど、舗道でこちらから声をかけたときほど縮こまったようすはなかった。


「君ならいつでも歓迎する。かけたまえ」


 にこやかに言いながらジェイデンは応接テーブルの長椅子を彼女に示し、自身はその隣の肘かけ椅子へと腰を下ろした。ミンディはひと呼吸遅れて、すすめられた席へと身を収めた。

 ミンディの手荷物をテーブルに置かせて話す体勢ができたところで、ジェイデンから口火を切った。


「今日はどんな要件かな。ロザリーからなにか?」

「いいえ。本日はロザリー様のご用ではなく――」


 言葉を途切れさせて、ミンディはドレスの隠しを探った。とり出されたのは、青の地に白薔薇の刺繍されたハンカチだった。


「これを返しに参りました。お貸しくださり、ありがとうございました」


 真っ直ぐに差し出されたハンカチを、ジェイデンは受けとった。几帳面に角を揃えて、渡したときよりも綺麗にアイロンが当てられている。指先で刺繍の糸目をなぞり、ジェイデンは眉尻を下げた。


「急ぐことはなかったのに、律儀だな君は」

「殿下のものを、いつまでもお借りしているわけには参りません。それから――」


 ミンディはさらに続けて、テーブルに置いたバスケットへと両手を伸ばした。蓋を開き、ジェイデンの方へと軽く押しやるように差し出す。


「生姜ケーキを作りましたので、よろしければ皆様で召し上がってください。先日ご迷惑をおかけしたお詫びになるか、分からないのですが……」


 言葉の後半にいくほど、ミンディの声が自信なさげなものになっていく。ジェイデンはちょっと笑って、バスケットの中を覗き込んだ。キャラメル色に焼かれた長方形のケーキが、甘みと辛みがまろく溶け合う香りを漂わせていた。


「君が作ったのかい?」


 ジェイデンのなにげない問いかけに、ミンディは頬に朱をのぼらせた。


「はい。とは言っても、ロザリー様に教えていただきながら、なのですけれど」

「実際に手を動かしたのが君なら、自分が作ったものだと胸を張ればいい。美味しそうだ。さっそくいただこう。ザック」


 二人が話す間に執務室の外へ出ていた侍衛を、ジェイデンは呼んだ。すぐに姿を見せたザックへ、素早く指示を出す。


「厨房で食器とお茶を頼んできてくれ。三人分な」

「三人分、ですか」


 つい、といったようすでザックは目をみはって鸚鵡返しをした。ジェイデンは物静かな侍衛の面食らった顔を愉快に見た。


「ミンディに生姜ケーキをいただいた。君も食べるだろう」


 問われて、ザックは表情を固定したまま戸惑いの雰囲気を醸す。オリーブの瞳で一瞬だけミンディの方を窺い、すぐにジェイデンへと視線を戻した。


「……よろしいのですか?」

「皆様で、と言ってくれたんだ。構わないだろう?」


 最後の一言だけミンディの方を見て、ジェイデンは言った。ミンディは頷いてから、ザックの方へと顔を向ける。


「生姜ケーキがお嫌いでないのでしたら」


 控えめに言われ、ザックは少し考えるような間を置いてから「かしこまりました」とだけ言って執務室を出ていった。

 さほど待つことなく、執務室の応接テーブルに三人分の食器が並んだ。ミンディが率先してナイフを持って生姜ケーキを切り、その間にザックがティーカップへお茶を注いで各々の前へ置いていく。


 切ったケーキがとり分けられると、ジェイデンは真っ先に手を伸ばして一口目を食べた。


「殿下」


 ザックがたしなめる声で呼んだ。ジェイデンは気にも留めずケーキを咀嚼する。飲み込む瞬間、生姜と糖蜜のまったりとした風味が舌の奥を撫でていった。


「うむ。美味しいな」


 呟いて、ジェイデンはすぐさま二口目を含む。ケーキを機嫌よく食べ進める皇太子に、ザックが呆れ含みな眼差しを向けた。


「殿下……さすがにまずいです」

「口に合わないなら、わたしが貰おう」

「そういう意味ではありません」


 ザックは伸びてきたジェイデンの手から、素早く自分の皿を引き離した。さらに大きく一歩距離をとった彼は、皇太子らとは応接テーブルの対角に位置する席に腰を落ち着けた。

 わざわざ一番遠い席に陣どったザックにジェイデンは思わず噴き出したが、彼の主張したいことは理解していた。


「これくらいで怒るな。ミンディが作ってくれたものに毒見はいらない。ロザリーが作ったものだったら分からないがな」


 皇太子が食事をとるとき、近侍するものが必ず先に一口食べる。毒や異物の混入がないことを確認するだけでなく、傷んだものが皇太子の口に入る可能性も減らすためでもある。


 そんなしきたりより、ジェイデンは誰よりも先にミンディの手製ケーキを味わうことを優先した。些細でごく個人的なことではあるが、自分でない男に彼女のケーキを先に食べられるのは少しばかり癪だったのだ。


「あの……」


 男性二人の会話に、恐る恐るといった声音でミンディが割り込んだ。ジェイデンは、ザックに対するよりもいくぶん目元をなごませて振り向いた。


「ああ、申しわけなかった。作ってくれたものに対して、毒だなんだと言っては気分を悪くさせてしまうね」

「いいえ、そういうことではなく」


 慌てたようにミンディは首を横に振ってから、表情を改めて続けた。


「その、ロザリー様が作ったものだったらというのは、どういう意味なのかと思いまして」


 ミンディの口調は戸惑いげだったが、大きな瞳は真っ直ぐにジェイデンへ向いていた。その眼差しに浮かぶ批難の色を見てとり、ジェイデンは自分が迂闊な発言をしたのだと気づいた。

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