23輪 母の幻影Ⅲ

 ケイレブが目を覚ましたのは、ジェイデンの声とベッドの揺れのせいだった。

 隣で眠っていたはずの従弟が、しきりに大声をあげてベッドの上をせわしなく動き回っている。ついには掛布を跳ね上げ、枕まで放り上げられ、ケイレブはたまらず起き上がった。


「ジェイ、どうしたの」

「ない!」


 目をこするケイレブに向かって、ジェイデンが声を張り上げた。


「首飾りがない!」


 ケイレブは驚いて眠気が吹き飛んだ。


「寝るときにはちゃんと持っていたよね。枕の下は? ベッドの下に落ちてない?」


 就寝時には確かにジェイデンが首飾りを握っていたのを、ケイレブは覚えていた。眠っている間にどこかへいったとすれば、寝具の隙間に入り込んだか、寝ぼけてベッドの外に放ってしまったかだ。


 見渡したベッドの上は、荒れ果てていた。枕はカバーを引き剥がされてベッドの外に落ち、シーツの端も引っ張り出されてめくり上がっている。ジェイデンが首飾りを必死に探し回った跡だろう。一歳違いの従弟は混乱からべそをかき、掛布を引きずってそれらの上を懲りずにぐるぐると這い回っている。


 日はすでに高かった。窓から伸びる光が、いつもの起床時よりも白くて短い。普段ならもう朝食を終えているくらいだろうか。

 寝過ごしたらしいことに気がついて、ケイレブは跳ね起きた。


「ジェイ、エラ母上はどこ?」


 朝はいつも、エラが朝食の時間に合わせて二人を起こし、身支度を世話していた。それがどうやら、今朝に限ってなかった。

 ケイレブの問いかけに、ジェイデンは掛布を蹴り落としてベッドの上で立ち上がった。


「知らない! 見てない! それよりも首飾りがどこにもないんだ。ケイレブも探して」


 今にも泣きそうに顔を真っ赤にして、ジェイデンはベッドの上のものをどんどん蹴散らしていく。ジェイデンのせいで揺れるベッドの上で、ケイレブも慎重に立ち上がった。けれど母の姿が見えない不安の方が大きく、首飾り捜索を手伝うどころではない。


 部屋の扉を叩く音がした。少年らは同時に振り向いた。


 「失礼しいたします」という声と共に入ってきたのはエラではなく、前かけをしたメイドだった。

 寝具が剥がされてぐちゃぐちゃなベッドの上に、寝間着のままの二人がいるのを見て、メイドは目を剥いた。


「まだ支度ができていらっしゃらなかったのですか」

エラ母上がいないんだ!」


 眉をそびやかすメイドへ、ケイレブは咄嗟に訴えた。メイドは顔をしかめたまま、扉の前から室内を見渡す。本当にエラの姿がどこにもないと分かると、メイドは途端に表情を怪訝なものにして、困ったように頬へ手を当てた。


「確認して参ります。お部屋を出ずにお待ちください。お片づけができそうでしたら、してくださいね」


 ようすを見にきただけだったらしいメイドは、素早く言い置いてすぐに出ていってしまった。メイドにも母の行方が分からないことが判明し、ケイレブはベッドの上で呆然と立ち尽くした。


 不意に、体の横に垂れていた手をつかまれて、ケイレブは振り返った。身を寄せてきたジェイデンが、心細げな半泣きでこちらを見上げていた。胸がつぶれそうなほどの不安と嫌な予感を無理に押し殺し、ケイレブは自分より小さな従弟の手を握り返した。


 この日は、皇后追悼式典の当日だった。

 エラも、首飾りも、見つからなかった。


 ただでさえ今の皇宮は働き手の数が絞られている上、午後から始まる式典に人員の多くが充てられている。乳母一人の捜索へ即座に割ける余力はない。幼い皇太子の世話には、子供慣れしていない若いメイドが急遽あてがわれた。


 式典そのものはつつがなかった。ケイレブとジェイデンは、自身になにが降りかかったのかも、目の前でなにがおこなわれているかも分からないままだった。厳粛な大人たちの隙間に立って、礼拝堂の祭壇と献花の彩りを居心地悪く眺めている内に、すべて終わっていた。


 ケイレブは時間と共に、母と首飾りが同時に消えた理由を幼いなりに頭で理解し始めていた。それを心が受け入れられるかは別であるが。


 喪服のまま放り出すように、ケイレブとジェイデンは部屋に戻された。


 午前中には荒れていた部屋は、すっかり元通りに整えられていた。シーツや枕カバーのよれ一つさえもない。そしてやはり、エラの姿もない。


 外から戻ればいつも、エラが部屋着を用意していてくれた。だから二人はコートを脱いだら、すぐに寛ぐことができた。

 けれど今日は、整然とした部屋のどこにも着替えが出ていない。コートを脱いでも受けとってくれる人がいない。部屋まで送ってくれたメイドは、二人を残してどこかへいってしまった。


 少年らはどうしたらいいか分からず、なにもできず。ただ窓の外が茜色に暮れていくのを、部屋の真ん中で並んで見ていた。

 室外の喧噪さえ遠い静寂しじまに、ケイレブが先に耐えられなくなった。


「……ごめんなさい」


 他の言葉が浮かばなかった。謝らなければ、という感情だけがケイレブの口を開かせていた。


 ジェイデンは心に大きな傷を負ったばかりだったのに、さらに上から新たな傷を負わせてしまった。そのことを謝れるのは、今この場にはケイレブしかいなかった。


 ゆっくり首を回して、ケイレブは隣に立つジェイデンを見た。従弟は鳩羽はとば色の瞳をまん丸にして、こちらを見ていた。

 ケイレブは腕を伸ばし、ジェイデンと手を繋いだ。


「ごめん……ごめんなさい……ジェイのことは、ぼくがなんとかするから。ぼくがずっと、ジェイといるから。だから……エラ母上を許して」


 見開かれたジェイデンの目がかすかに揺れた。しかし色の薄い唇から言葉は出なかった。

 ケイレブは生涯をかけてこの皇太子を支えようと幼い心に誓い、繋いだ手に力を込めた。


 しかし、ケイレブの誓いはすぐに破られることになった。


 父・ユーゴニス伯爵によって、すぐさま領地へ連れ戻されてしまったからだ。たった六歳の子供に、父に抗う力があるはずもない。そのままケイレブは、ジェイデンとの交流までも絶たれてしまった。


 一年のほとんどをユーゴニス領の屋敷で暮らし、ラガーフェルドにくることがあっても皇宮の門はくぐらせて貰えなかった。そうして何年もが過ぎ、ようやく再びジェイデンとの繋がりを持つことができたのは、寄宿学校へ同期生として入学したあとだった。


 寄宿学校は試験さえ通れば、入学や卒業の年齢について明確な決まりはない。おおよそ十二か十三歳での入学が多いが、進級試験の落第者も珍しくないので同学年で一、二歳程度の年齢の違いは誤差だ。

 かつては甘えたがりだったジェイデンは、大人顔負けの皮肉屋な口達者に成長していた。誰に対してもにこやかで友好的であるように振る舞うが、よく観察していれば特定の誰かとつるまないようにしていると分かる。


 皇太子にとり入ろうする生徒はあとを絶たなかったが、六年間の在学中に彼のテリトリーへ入り込めた者は片手指でも余るほどしかいない。それくらいジェイデンの警戒心は強く、容易に他者を寄せつけなかった。それは、従兄であるケイレブが相手でも例外ではなかった。


 最上級学年で生徒を束ねる監督生へ揃って指名されたのをきっかけに、ケイレブはやっとジェイデンと並ぶことを許された。


 幼き日の誓いがようやく果たせる。執念で戻ったその場所から、ケイレブは二度と離れる気はなかった。寄宿学校および士官学校卒業後も、近衛府に入り皇太子の侍衛になってからも、その気持ちは少しも揺るがない。


 ジェイデンに呆れられている節はあるが、それでも構わなかった。皇太子を直接支えられる場所にいることが、ケイレブにはなにより重要なのだ。






 ベージュのスーツジャケットを羽織って姿見の前に立ったケイレブは、額にかかる髪を軽く撫でつけた。焦茶色の髪は緩くうねりながら耳元へと垂れ落ちる。


 ケイレブは私事の外出であっても、皇太子の近侍として見苦しくない程度に身なりに気をつかうようにしていた。とはいえ人並みより抜き出た背丈があるので、清潔にして体に合ったものを着れば、手をかけずともそれなりの見栄えになる。


 癖のある髪だけは少々扱いに困りがちだった。短く刈り過ぎても癖のせいでかえってみっともない立ち上がり方をしてしまうし、練り油で固めるのは頭が重くなる感じがあまり好きではない。毎日の身支度となると、目立つ跳ねや寝癖を香油で軽く押さえるのが精一杯だ。


 ケイレブが今、鏡と睨み合っている部屋は、ユーゴニス伯爵の街屋敷の私室だった。伯爵邸も例に漏れず、ランブラー河畔に並ぶ貴族の邸宅の一つだ。


 皇都ラガーフェルドの伯爵邸には現在、建物と庭を維持する管理人と、料理人が一人いる他は使用人を置いていない。しかし寄宿学校出身の公子であれば、自分の身の回りのことは自力でできるよう寮生活で仕込まれている。ゆえにケイレブは不便は感じていなかった。


 療養の名目とはいえ、久しぶりのまとまった休暇である。父の領地へ帰る選択肢もあった。だがあえて、ケイレブはラガーフェルドにいることを選んだ。ユーゴニス領の屋敷には父の後妻と、その子である年の離れた弟がいるからだ。


 継母や異母弟と不和なわけではない。継母は控えめな性格だが血の繋がらないケイレブをよく気づかってくれるし、異母弟も兄として懐いてくれている。おおむね良好な関係と言っていい。


 ただ、継母らと空間を共有していると、ケイレブの気持ちが休まらない。

 皇太子から休暇を言い渡されることにまでなった不調の根は、消えた生母に由来する。継母と顔を合わせるのは気まずかった。


 幼き日にケイレブの中に生じてしまった、母という存在に対する違和は、きっと二度と消えることはないだろう。


 与えられた休暇は今日までなので、明日には皇宮での勤めに戻る予定だ。十六年前の一件以来、人間不信の気のある皇太子の周囲は、ただでさえ人が少ない。同僚のザックにかなりの皺寄せがいってしまっている。今回の件では、あまりにも各方面に迷惑をかけ過ぎた。


 謝罪すべき相手は何人もいるが、その内の一人を今日中に尋ねるつもりだった。

 とりあえず見苦しくはないだろうという妥協点でケイレブは鏡の前を離れ、その足で屋敷を出た。

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