22輪 母の幻影Ⅱ

 紺碧のダイヤは、五歳の小さな片手には余るほど大きかった。プラチナの鎖が垂れ下がるそれをジェイデンは両手でつかみ、輝きに魅入られたように眺めている。

 ケイレブは目を丸くした。


「綺麗だね。それ、どうしたの?」

「母上だよ」


 ジェイデンがやっと発した言葉に、ケイレブはさらにびっくりして従弟の横顔を見た。


「ジェイの母上のってこと?」


 この問いには返事がない。皇后が亡くなってからの数日、ずっとこの調子でジェイデンの反応は乏しく、ひどく気まぐれだ。以前まで普通に交わしていた程度の会話すらも、いまいち成立しなくなっている。


 それでも見放す気にはなれず、ケイレブは困惑のまま、ダイヤの首飾りと従弟の顔との間で視線を往復させた。


「それ、どこにあったの?」


 質問を変えてみた。しかしジェイデンはやはり無反応だ。不満と不安で、ケイレブは唇を曲げる。


「もしかして、勝手に持ってきたの?」


 これにも返事はない。それはジェイデンが悪いことをしたからに違いないと、幼いケイレブは判断した。


 ブルーダイヤの首飾りなど、これまで皇太子の部屋で見た覚えがないし、持ち歩いているところも見たことがない。忙しくしている大人たちの目を盗んで持ち出し、部屋のどこかに隠していたのだろう。ケイレブが気づかなかっただけで、これまでにも隙を見つけては今のように眺めていたのかもしれない。


「ジェイ、よくないよ。元の場所に返さないと」


 自分の正義感に従い、ケイレブはジェイデンの持つ首飾りへと手を伸ばした。すると途端に、ジェイデンは驚くべき早さで手を引っ込めた。


「駄目!」


 ジェイデンが急に声を張り上げ、ケイレブは仰天した。しかし直後には、正しいはずの自分が怒鳴られたことに憤りを覚えた。大人たちが叱るときの表情を真似て、ぐっと眉間に力を入れた。


「勝手に持ってきたら泥棒なんだぞ」

「いやだ! 泥棒じゃない!」


 ジェイデンはまるで言うことを聞かずにわめき立てる。ケイレブはますます腹が立って、首飾りをとり上げようと躍起になった。


 ケイレブがのしかかると、ジェイデンは首飾りを腹に抱え込んで虫のように丸まった。二の腕を引っ張って無理に体をこじ開けようとすれば、ジェイデンは背中を揺すってケイレブを振り落とそうとする。二人はもつれ合うように、長椅子から転げ落ちた。


 この年齢での一歳の体力差は大きい。ケイレブはあっという間にジェイデンの腹に馬乗りになって、首飾りを持っている手をつかまえた。

 ジェイデンが、鼓膜に突き刺さるほど甲高い悲鳴をあげた。


「ケイレブ! なにをしているの!」


 母の叫び声が響き、ケイレブは反射的に飛びのいた。解放されたジェイデンは絨毯から跳ね起き、駆け寄ってきたエラのスカートへとしがみついた。小さな手には首飾りの鎖が握られたままで、そこから垂れ下がるブルーダイヤがスカートのひだの間へ滑り込んだ。


 エラの後ろへ身を隠すように、ジェイデンはしきりに彼女の腰のあたりに顔をすり寄せた。エラは軽く背を曲げて皇太子の髪を撫でてやってから、我が子へと視線を移す。見下ろしてくる母の眼差しに厳しさがあり、ケイレブは長椅子の前に座り込んだまま身をすくませた。


「ケイレブ、一体なにがあったの。ジェイデン殿下に乱暴するなんて」

「ジェイが首飾りを盗んだんだ。ぼくはそれを元の場所に戻そうとしたのに、ジェイが邪魔するから」


 自分が叱られるのが納得いかず、ケイレブは咄嗟に反論した。


 一方でジェイデンは相変わらずエラに甘え、服をつかんで体をくっつけている。常ならなんとも思わないその光景が、今は母親をとられたようで気に食わない。ケイレブが口を尖らせて睨みつけると、ジェイデンは体を半分隠しながら負けじと鼻に皺を寄せた。


 二人の表情を交互に見やったエラは長くため息をつき、ジェイデンの手をとって目線に合わせるように膝をついた。皇太子の手から垂れた鎖の先で、紺碧のダイヤが揺れる。その輝きを見て、エラが目をみはった。


「殿下、これは――」

「盗んでない!」


 問い質そうとそしたエラを、ジェイデンが叫んで遮った。


「これは母上だから、盗んでない」

「黙ってとったなら泥棒だ」

「違う!」


 ここぞとばかりに割り込んだケイレブの指摘にも、ジェイデンは間髪入れずわめき返す。


「これは母上が、だから……泥棒じゃないっ」


 ジェイデンは必死の形相でなにかを訴えようとするが、同じことを繰り返すばかりで一つ一つの言葉が繋がらない。そのさまが後ろめたさの表れとしか思えず、ケイレブは苛立った。


「泥棒じゃないなら、なんでどこにあったのか言えないんだ。やっぱり勝手に――」

「ケイレブ、少し黙っていて」


 母に遮られ、ケイレブは口をつぐんだ。鋭く放たれた母の声には、逆らいがたい独特の迫力があった。

 エラは改めてジェイデンに向き直り、鎖にさがるダイヤをすくい上げながら彼の手を両手で包んだ。


「これは、お母君のものなのですね」


 一語一語を丁寧に発するようにエラが言うと、ジェイデンは頷いた。

 かすかな恐れを覗かせるジェイデンの瞳からエラは視線を外し、握った手を緩めて首飾りを確認する。小さな手の平に載った紺碧の輝きを、彼女はつかの間、見入るように眺めた。


 ケイレブは、母がジェイデンを叱るだろうと思った。しかし、そうならなかった。

 幾ばくかの沈黙のあと、エラは首飾りを皇太子に握らせ、小さな手を上下から押さえるように再び包んだ。


「でしたら、これは大切にお持ちください」


 母の発言にケイレブはびっくりし、ジェイデンも目を見開いた。エラは子供らの驚きには頓着せず、手の力を強めた。その眼差しは、口答えを躊躇させるほどほど真剣だった。


「なくさないよう、肌身離さずお持ちください。そして絶対に、他の誰かに見せてはいけません。殿下が持っているところを見つかれば、ケイレブがしたようにとり上げられてしまいます――分かりましたね?」


 ジェイデンはエラの話を黙って聞きながら、顔を青ざめさせて頷いた。エラが手を放すと、皇太子はこれまでよりも慎重に両手を使って首飾りを握り締める。


 思いもかけなかった展開に、ケイレブは呆然とした。母がなぜ悪事を容認したのか。ケイレブは咄嗟に理解できなかった。

 エラがケイレブの方を向いた。その口元には淡い微笑があったが、そこから彼女の感情が読みとれなかった。


「ケイレブも聞いていたわね。あなたも、殿下からこれをとり上げようとしたり、誰かに言いつけようと考えては駄目よ」

「でも――」

「ケイレブ。分かるわよね」


 エラの声は穏やかだったが、有無を言わせぬものだった。反論を押さえ込まれてしまえば、ケイレブは母に従う以外ない。


「さあ殿下。これ以上の夜更かしはいけません。お休みください。ケイレブも」


 ジェイデンに向き直って、エラは就寝をうながす。ケイレブはまだ胸の内にわだかまるものを感じたが、機嫌をとり戻したジェイデンがベッドへ駆けていったので仕方なく続いた。


 ここ数日、ケイレブはジェイデンと添い寝していた。皇后が亡くなられてからというもの、ジェイデン一人では夜泣きするようになっていたためだ。


 寝具に潜り込んで枕に頭を乗せたところで、ケイレブは先にベッドに入ったジェイデンが首飾りを持ったままなのに気づいた。


「それ、持ったまま寝るの?」

「うん。エラが離すなって言ったもの」


 自分に都合がよい状況になって、ジェイデンは少し言葉が戻ったようだった。それでもケイレブとしては複雑な心境で、母の表情を窺う。寝かしつけのためにベッドへ腰かけたエラは、首飾りに関してなにも述べなかった。


 隣へと目を戻したケイレブは、しっかりと首飾りを握っている従弟の手に自分の手を乗せた。


「なくさないようにね」

「うん」


 ジェイデンが力強く頷く。

 広過ぎるベッドの真ん中で、幼い少年らは向かい合って身を寄せ合い、一緒に目を閉じた。




 その翌々日の朝のことだった。

 エラが皇宮から姿を消した――紺碧のダイヤと共に。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る