第3章 わたくしが恋をするのは当然です

21輪 母の幻影Ⅰ

 皇后、崩御。

 そのしらせは、瞬く間にノヴァーリス皇国を駆け巡った。




 皇宮に身を置いていた幼いケイレブのところにも当然、報せはすぐに届いた。


 食堂の長卓で、従弟のジェイデン皇太子と並んで朝食をとっている最中のことだった。やってきた皇室づきの従僕が、食事の見守りをしていたケイレブの母――エラ・シューゲイツに耳打ちした。


 小声でやりとりする大人たちの会話の内容までは聞きとれなかった。けれど従僕のくらい表情と、蒼白になった母の顔色から、よくないことが起きたのだと、六歳のケイレブにもすぐに分かった。


 ケイレブは食事の手を止めて、そっと隣を横目に見た。一つ歳下の従弟が、目玉焼きの黄身にフォークを立てたまま、凍ったように静止していた。丸い頬は強張り、鳩羽はとば色の瞳は揺らぎもせず、扉の前で話し込む大人たちの方をじっと見詰めている。頬にかかるホワイトブロンドは、窓からの朝日で煙るほど真っ白に光っていた。


 従僕が去り、エラが重たい足どりで戻ってきた。二人の背後に立ったエラの顔を、ケイレブは座ったまま身を捻って見上げた。窓を背にした母の表情は、影になって判然としなかった。透明な蜂蜜色の瞳だけが、影の中で潤む艶を放っている。


「……殿下」


 エラは息子のケイレブでなく、ジェイデンに小さく呼びかけた。しかし、いくら待てども返事はない。ケイレブが隣席へと視線を移すと、ジェイデンは先ほどと少しも変わらぬ姿勢で固まったままだった。


「殿下。ジェイデン殿下」


 エラは繰り返して、ジェイデンのかたわらに膝をついた。それでも反応しない皇太子の細い肩をつかみ、やや強引に振り向かせる。

 ジェイデンの小さな手からフォークが滑り落ちた。フォークが床にぶつかる音が高く響き、皇太子はようやく、自身の乳母であるエラに瞳の焦点を合わせた。


 幼い瞳と目を合わせ、エラは皇太子が聞き漏らさぬようごくゆっくりと言う。


「殿下。ご朝食がお済みになりましたら、ケイレブと共にすぐにご支度を」


 やはり、ジェイデンの反応は乏しかった。数度まばたきしただけで、返事をしない。エラは皇太子の肩から手を放し、床のフォークを拾い上げた。布巾で先端をよく拭い、改めてジェイデンの手に持たせる。


「さあ、殿下。ご朝食の続きを――」

「いらない」


 エラの言葉を遮る形で、ジェイデンがやっと声を発した。フォークを食卓へ投げつけて、椅子から飛び降りる。唖然とする乳母に背を向けて、皇太子は早足で食堂を出ていった。


 跪いた体勢から立ち上がったエラが、深くため息をついた。緩慢に我が子の方へ振り向いたその表情には、疲労の色が濃い。一連のできごとを見ていたケイレブが両手にカトラリーを握ったまま呆然としていると、母は二度目のため息をついた。


「ケイレブ。少しだけ一人でも大丈夫ね」


 母の声には、表情と同様に力がなかった。我が子が返事をする前に、彼女は皇太子を追って食堂を出てしまう。

 一人で残されたケイレブは、母と従弟が出ていった扉をしばらく見詰めてから、目の前の朝食へ視線を落とした。


 食欲は失せていた。半熟の目玉焼きも、豆のトマト煮も、羊肉と林檎のソーセージも、まるで魅力的に見えない。先ほどのジェイデンのように、フォークを放り出してしまおうかと考える。けれどもケイレブまで朝食を残せば、母がまた、がっかりした顔をするだろう。


 誰も見ていないのを確認して、ケイレブはソーセージを頬に押し込み、行儀悪く皿を持ち上げて残りの料理を無理やりかきこんだ。頬をぱんぱんに膨らませたまま口の周りのソースを拭い、素早く席を立つ。


 食堂を飛び出したケイレブは満杯の口を両手で押さえて、真っ直ぐに皇太子の部屋へ向かった。えずきそうになりつつも、目的地につく頃には口の中身をすべて飲み込んだ。


 白い壁に囲われた皇太子の部屋は、さらに白い朝日がいくつもの筋になって差し込んでいて、まばゆいほど明るかった。床に敷き詰められた絨毯が深い青をしているお陰で、目が眩むほどではない。

 部屋に入って右手の奥に、子供が一人で眠るには心細いほど大きなベッドがある。青いベッドカバーのかけられたそのふちに、エラが座っていた。


 無音かと思われた室内で、ケイレブはかすかなすすり泣きを聞きつけた。よく見れば、母の膝の上にミルク色の子供の頭があった。膝にしがみつくように体を縮めて顔を伏せたジェイデンが、華奢な肩をしきりに震わせている。何度もしゃくり上げながらも必死に声を殺して泣く少年の髪や背中を、彼女はなにも言わずに撫でていた。


 音をたてないように、ケイレブは二人の方へと歩み寄った。途中でエラと目が合ったがなにも言われなかったので、そのまま触れられる距離まで近づいた。母の膝に手をつき、うつ伏せているジェイデンに顔を寄せる。


「ジェイ」


 恐る恐る、ケイレブは呼びかけた。従弟は泣くばかりで返事をしない。どうしたらいいか分からずエラの顔を仰いだが、彼女も困ったように眉尻を下げただけだった。

 視線をジェイデンへと戻したケイレブは少し考えてから、ミルク色の後頭部にそっと手を置いた。


「ジェイ、大丈夫だよ」


 声をかけながら、母の手つきを真似てそっと従弟の頭を撫でる。


「ジェイには、ぼくとエラ母上がいるから。だから――」


 ケイレブは体を曲げ、従弟と目の高さを揃えるように母の膝に頬を当てた。


「たくさん泣いて、大丈夫だよ」


 ジェイデンの肩が大きく揺れた。声を殺していた喉から、ぐっと唸るような音が漏れる。その嗚咽は少しずつ声へとなり、やがて慟哭へと変わる。


 悲愴に声を張り上げる従弟が泣き疲れるまで、ケイレブはエラと共にただじっと寄り添った。






 皇后が病床についたのは、皇都ラガーフェルドの人々を震えさせた流行病の収束が、ようやく見えたかという頃だった。皇后は即座に離宮へ隔離され、治療にあたる医師と一部の侍女以外は面会すら許されなくなった。実子であるジェイデン皇太子も例外ではない。


 幸運にしてジェイデンは感染を免れたが、病の蔓延防止の観点から人員が減らされていた皇宮で、幼子にかかりきりになれる者がいなかった。そこで、前年まで乳母として皇宮勤めをしていたユーゴニス伯爵夫人エラ・シューゲイツが呼び戻された。ユーゴニス伯爵は皇后の兄なので、エラは皇太子にとって血の繋がらない伯母にあたる。


 エラが息子のケイレブを伴って皇宮に戻り、数日後。皇后は高熱から肺を患い、回復の兆しもなく、瞬く間に儚くなられた。


 皇后の亡骸は簡素な棺へ封じるように収められ、その日の内に火葬された。その間、作業にあたった者の他は、血縁者でさえも皇后の顔を見ることはできなかった。皇族の死にあたって異例の処置であったが、病を広げぬことを第一に考えれば致し方なかった。

 後日改めて、葬儀の代わりの追悼式典が国をあげて厳かに執りおこなわれる予定である。


 皇后の死の悼みと、彼女に相応しき式典に向けての慌ただしさが、皇宮全体を覆った。働き手になりえない幼き皇太子の世話は、これまで以上にエラ一人に任せられるようになった。幸いにしてジェイデンは多少の気難しさはあっても手のかかる子供ではなかったし、ケイレブもエラの言うことをよく聞いて遊び相手を務めたので、問題は生じなかった。


 就寝前の沐浴を終えて、エラが道具を片づけに部屋を出ているときだった。清潔な寝間着に頭を通したケイレブは、先に着替えて長椅子に寝転んだジェイデンの手元でなにかが光ったのに気づいた。


 ジェイデンが丈長い絹の寝間着を着ると、髪色のせいで頭の天辺から足首まで全部が真っ白になる。小さなお化けのような従弟は長椅子の肘かけに顎を乗せて、サイドテーブルのランプの方へ両手をかざしていた。


 ジェイデンが少し手の角度を変えるたび、彼の色白の頬に青い光が散っている。子供らしい好奇心が刺激されたケイレブは、寝間着の袖から素早く手を出しながら長椅子に駆け寄った。


「ジェイ、なにを持ってるの?」


 寝転ぶジェイデンの体を奥へ押し込むようにして、ケイレブは長椅子の隙間に座った。ジェイデンは特に押し返すことはしなかったが、振り返らず返事もしない。仕方なくケイレブは、うつ伏せている背中に軽く乗り上げて従弟の手元を覗き込んだ。


 深い紺碧のダイヤの首飾りが、灯火を浴びてきらめく光を撒いていた。

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