20輪 咲く薔薇の密談
硝子張りの天井から降り注ぐ陽光はいっとう明るく、翡翠の
その
ヘルツアス侯爵令嬢ロザリーはお茶で喉を潤すと、薔薇の柄のティーカップを静かにソーサーへ戻した。
「それで――」
ロザリーはもったいぶって、ゆっくりと葡萄酒色の瞳を上げた。正面に座る美貌の皇太子に、あでやかに笑いかける。
「今日までのお時間で、どのような言いわけをご用意されましたかしら」
彼女を深く知らない者が聞けば、いかにも上機嫌と思うだろう艶のある声だった。けれども話しかけられた当人であるジェイデン皇太子は、その条件には当てはまらない。
ロザリーの声から怒りと不機嫌さを受けとったジェイデンは、さして気にすることなく薔薇のジャムが挟まれたケーキにフォークを立てた。
「彼女からは聞かなかったのかい?」
「もちろん聞きましてよ」
「ならば、それがすべてだ」
ロザリーは笑みを消した。眇めた目で皇太子の輝く容貌を見据え、眉をそびやかす。
「彼女がよく、あなたに家の話をしましたわね」
今度はジェイデンが笑みを浮かべ、ケーキを口へと運んだ。舌の上で溶けるスポンジ生地とジャムの、甘い
「彼女がわたしを信用してのことだとは、考えないのかい?」
「でしたら、なぜ彼女が泣くようなことがありまして?」
あくまでロザリーは、追及の手を緩めない。ジェイデンは不敵に息を漏らして、ミルク色の前髪を掻き上げた。
「君はどうあっても、わたしを悪者にしたいらしい。勘違いがないように伝えさせて貰うが、彼女が泣いたのは家の話だけでなく、君の話をしたからだ」
「わたくしの?」
訝しんで、ロザリーは眉をひそめた。
ジェイデンとミンディに共通する話題として、ロザリーの名が出るのは決して不思議ではない。けれどもそれによって泣くような事態というのは、ロザリー自身には心当たりがなかった。
表情から侯爵令嬢の内心を察して、ジェイデンは不敵な笑みをわずかに柔らかなものに変えた。
「君は、彼女になにをしたのか無自覚なようだ」
「わたくしのせいで泣いたとでもおっしゃりたそうですわね」
ロザリーが睨みつけると、ジェイデンはおかしそうに喉をくつくつと鳴らした。
「そうは言っていない。ただ、彼女から君への全幅の信頼は、少しばかり羨ましくはある――よく、グンマイ子爵から彼女をとり上げられたものだ」
ジェイデンの声色が変わった。その響きに、
ロザリーは睨む眼差しを緩め、扇で口元を覆って声を低めた。
「あの家は、彼女には似つかわしくありませんもの」
「君なら、彼女に似つかわしい場所が用意できると?」
探る眼差しで、ジェイデンは問う。ロザリーはただ意味深に目を細めた。
「本人に責のないことで子を
「なるほど」と、ジェイデンは鼻を鳴らした。
「それで、彼女を完全にグンマイから引き離す手段になるのが、わたしということか。そこまで計算ずくで利用されていたとは、まったく恐れ入る」
ジェイデンの
ロザリーは扇を閉じ、挑発に応えて微笑した。
ジェイデンは、ミンディがロザリーを崇拝する理由以上に、ロザリーがミンディに肩入れする背景に興味を持っている。しかしそこへ彼を踏み込ませるつもりは、ロザリーにはなかった。
とはいえ、実を言えばミンディをグンマイ子爵からとり上げる計画だけならば、ジェイデンへ前もって知らせても構わなかった。けれどもミンディの過去については、彼に自ずから知って貰う必要があった。険悪な仲であるロザリーの口から伝えたのでは、彼は同情はしても今ほど感情移入しなかっただろう。
誰の口を経るかで物事の印象は簡単に変わる。そんなことで、ミンディが身に受けてきたものを矮小化したくはなかった。だからあえて、最初に共有をしなかった。
もしもジェイデンが、ロザリーの思惑に辿り着く課程でミンディを傷つけたならば、計画をとりやめることも考えていた。だが反応を見るに、どうやらそういうわけでもなさそうだ。
そしてやはり、思惑通りに事が運ぶのは気持ちがいいものである。
「人聞きの悪い言い方ですこと。わたくしの手の内に転がり込んできたのはご自分ですのに。お嫌でしたら、それでも構いませんわ。別の手立てを考えます」
小癪な元婚約者に、ジェイデンは少し眉を持ち上げた。
「ここで降りるのならとっくに降りている。彼女をグンマイ家に戻したくないのは、わたしも同意だ」
「さすがは殿下。話が早くて助かりますわ」
明るい声音で言いながら、ロザリーはフォークを摘まんだ。
「でしたらお分かりかと存じますけれど、皇太子が彼女を妃に考えていると知られて、グンマイに彼女をとり返すような行動を起こされては面倒です。必要以上に目立つことはお慎みあそばせ」
ロザリーの持つフォークが柔らかなケーキの端に抵抗なく突き立った。スポンジ生地の間から押し出された薔薇ジャムが皿にこぼれ落ちるのを観察しながら、ジェイデンはティーカップへと手を伸ばした。
「彼女に注目が集まらぬように、新聞社にまで手を回してこの件に関する噂を操作しているのはそういう事情か」
「あら、お気づきでしたの」
意外そうに言うも、表情は冷静なままで、ロザリーはケーキを口に含んだ。
ジェイデンは苦笑して、ティーカップを口元へと寄せる。
「君自身だけでなく、配下にいる女性も優秀なようだ」
「殿下にお褒めいただいたと伝えておきますわ。あなたの熱心なファンですのよ」
冗談めかしたロザリーの言い方に、軽く笑ってからジェイデンはお茶を一口飲んだ。カップをソーサーに戻しながら、お茶の熱で温まった息をゆっくりと吐き出す。
「正直、君に転がされる状況はすこぶる面白くない。だが、彼女のためになるならば、手の平の上でも踊りきろう」
ロザリーはうっとりして、フォークを持つ手を頬に添えた。
「素敵ですこと。愛のために身を削るあなたは、いつもよりずっと魅力的でしてよ」
「わたしが思い通りに動くのが楽しいだけだろう、君は」
皇太子が目を眇めて睨めつけても、ロザリーの恍惚とした笑顔は崩れない。
ジェイデンは肩をすくめて脚を組んだ。
「わたしも、君に聞いておきたいことがある――彼がヘルツアス侯爵邸で倒れた件だ」
ジェイデンが話題を変えたので、ロザリーも表情を改めた。フォークを置いて扇を開き、口元に当てる。
「わたくしがなにかしたなどと言い出さないのでしたら、よろしくてよ」
ロザリーの牽制を、ジェイデンは鼻で笑う。
「君に責任を問おうなどとは思っていない。君と彼の間でどういう会話があったかは、おおよそ聞いている――皇后の話をしたそうだな」
皇后、という言葉に反応してロザリーの眉がかすかに跳ねた。
「それに、なにか問題がございまして」
「なぜ君がその話を持ち出したのかが気になってね」
「おかしなことをおっしゃりますのね」
ロザリーは扇の位置を少し高くして、探る眼差しでジェイデンを見据えた。
「浅はかな我が儘で強情を張っているだけでは、彼からの印象もよろしくありませんでしょう。となれば復縁しない理由の補強が必要です。わたくしたちの関係破綻のきっかけは、皇后陛下の首飾りということになっているのですから、そこから理由を持ってくるのは当然だと思いませんこと」
少し考えるように軽く目を伏せ、ジェイデンは腕を組んだ。
「そうだな。しかし、わたしが母親依存であるかのように広められては困る。これでも、体面が重要な立場にあるのでね」
「男性が配偶者に自身の母親と同じものを求めたことで、関係が破綻する夫婦はそれほど珍しくありませんわ。わたくしは、その事例を少し参考にしただけです」
あまり感情を込めずにロザリーがありのままを告げれば、ジェイデンの口角がうっすら上がった。
「それを聞いて、ますます君が恐ろしくなったよ。君の、もっともらしい筋書きをでっち上げる能力と演技力には本当に舌を巻く」
愉快げな声音でジェイデンは言い、腕を伸ばして改めてティーカップをつかむ。ロザリーは冷めた眼差しで、彼の喉仏が上下するのを見届けた。
「殿下」
ジェイデンが口からティーカップを離すのを待って呼びかければ、彼はやや上目にロザリーを見やった。
「なんだい」
「それで話題を逸らせたおつもりですかしら」
「なんのことかな」
「追及されたくないのでしたら、始めからわたくしに問うべきではありませんでしたわね」
ジェイデンは答えず、黙ったまま侯爵令嬢を見詰め返す。ロザリーは、持ち上げた扇に向かって囁くような声で言った。
「以前におっしゃっていた、彼とあなたの間にある事情というのは、亡き皇后陛下に関わる事柄ですかしら」
刹那の沈黙。ふと、ジェイデンが吐息で笑った。
「君の言う通り、今たずねたのはわたしの失策だな」
「いずれにせよ、わたくしもこのお話はするつもりでしたから、同じことです」
扇の後ろで、ロザリーは一笑した。
ジェイデンはティーカップを揺すって茶香を楽しみながら、窺うようにわずかに首を傾けた。
「君はどこまで知っている?」
「まだなにも。これから調べるべきか検討している段階でしたけれど、くまなく調べ上げて尋問されるのをご希望でしたかしら」
ロザリーの答えで、ジェイデンは破顔して目を大きくした。
「まったく。わたしは本当に墓穴を掘ったようだ」
「わたくしへの信頼が厚過ぎましたわね」
皇太子の反応に、ロザリーは遠慮なく笑い声をたてた。
ジェイデンは、彼とケイレブとの間にあるものについて、ロザリーが多少はなにかをつかんでいると考えていたらしい。が、残念ながらロザリーはまだなにもしていなかった。しかも当てが外れただけでなく、ロザリーの推測に確信を与えることになったのだから滑稽というしかない。
いつものジェイデンであれば、もう少し慎重な探りを入れただろう。しかし彼にその冷静さを欠かせるものが、やはりこの話題にはあるのだ。
ジェイデンは自嘲の表情で額を撫でた。ティーカップを置き、負けを認めたように居住まいと表情を正す。
「皇后に関連してはいるが、直接的な問題は別だ。君が本当にまだなにも知らないのであれば、この件を掘り返すのをわたしは推奨しない。個人的な感情の問題ではなく、皇室の人間であるわたしの口からは伝えかねる内容だ」
「もみ消された醜聞ということですかしら」
笑みを収めたロザリーは、素早く思考を巡らせて言った。
ジェイデンは鷹揚に頷き、膝の上で指を組む。
「そんなところだ。とはいえ、当時を知る者から探り出すのはさほど難しくはないだろう。気になるなら独自に調べる分には止めない。しかし――君はそういう女性ではないと思ってはいるが――それでどうにかしようとは考えないことだ」
明らかな警告だった。もしも醜聞をネタに脅すようなことをすれば、ロザリーであっても皇室の力で握りつぶされるのだろう。けれどその可能性を示唆されたことが、ロザリーにとってはむしろ愉快だった。
「あなたがそう言うということは、相当なものが出てきそうですわね」
愉快さを隠しきれず、ロザリーの声が弾んだ。ジェイデンは呆れて髪を掻き、息と一緒に言葉を吐く。
「さて。なにせ昔の話だ。今の君から見れば、大したことではない可能性もある」
「あなたや彼を弱気にさせるだけのものがある、と分かっただけでも、わたくしには十分ですわ」
音をたてて、ロザリーは扇を閉じた。現れた唇には、満面の笑み。
「以後、よほど必要に迫られない限り、この話について、わたくしからは尋ねないことにいたします。彼を傷つけるのは、わたくしの望むことではありませんもの」
ロザリーの表明を聞き、ジェイデンは椅子の背に深くもたれた。
「それは、彼女を泣かせたわたしへの嫌みか」
「心当たりがおありなら、そうかもしれませんわね」
ロザリーは扇をフォークに持ち替え、銀の先端を柔らかなケーキへと突き立てる。
「過去がどうあれ、わたくしが心を寄せるのは今の彼しかいませんわ」
ケーキから
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