19輪 パイと葡萄酒

 部屋着に着替えたミンディは、花柄の寝具へと背中から倒れ込んだ。両手で顔を覆い、皇太子の前での醜態を思い出して、羞恥心と自己嫌悪に身もだえる。


 グンマイ子爵家で自分がどのように育ったかを、明確に言葉にして誰かに話したのは初めてだった。ロザリーは承知のことではあるが、それは彼女がミンディを侍女に迎えるにあたって、独自に証言を集めて知りえたものだ。ミンディ自身の口から直接、詳細までは語ったことはない。


 生家にいたときには、親からミンディへの仕打ちは当たり前のものだと思っていた。しかしどうやらそうではない、と気づいたのは、フレディーコ家へ奉公にきてからだ。


 もしかしたら子爵家での自分の扱われ方は、あまり他人に言うべきではないのかもしれない。そう肌で感じていたから、ミンディは少しばかり語る相手をはばかった。


 話し始めは、気は重くてもどうということはなかった。ただ事実を並べて、皇太子の疑問に答えただけなのだから、なにも問題ないはずだった。


 ところが、それは軟禁だと皇太子に指摘され、ミンディはたいへんな衝撃を受けた。これまで自分が見ていた世界に突然、亀裂が走ったような気がした。妹を羨み、思い通りにならないことに苦しむことはあっても、不当とまでは考えたことがなかったからだ。


 目が覚めた心地だった。途端に、生家での記憶と、フレディーコ家にきてからの記憶が交互に駆け巡り、ロザリーがしてくれたことに思い及ぶと共に感情が決壊してしまった。


 焼き菓子店でのことといい、今日の大泣きといい。皇太子に迷惑をかけてばかりの自分がいたたまれなかった。侍女の教育もできないのかと、ロザリーの評判まで下げかねない。どうしたものかと、ミンディは頭を抱えた。


 ミンディが自己嫌悪からベッドの上でジタバタしていると、不意に部屋の扉が叩かれた。


「はいっ」


 慌てて返事をして飛び起き、扉へと駆け寄る。


 案の定、扉の外にはロザリーが巻毛のメイドを連れて立っていた。メイドの手には葡萄酒と軽食の乗った銀のトレイがあった。


「遅くなってごめんなさい。入って構わない?」

「はい。どうぞ」


 ミンディが大きく扉を開けば、ロザリーは優雅な足どりで室内へと入ってくる。メイドは部屋中央の丸テーブルに軽食を置き、二つのグラスへ葡萄酒を注ぐとすぐに下がっていった。


「お腹が空いているでしょう。さあ、食べて。あなたの好きなきのこフィリングのパイを焼いて貰ったの」


 丸テーブルの隣り合う席に座るなり、ロザリーはミンディの方へと皿を押しやった。白い皿には、手の平ほどの大きさの丸いパイが、狐色の表面からほんのりと熱を立ち上らせていた。


 その香りで、ずっとざわついていた胸が緩やかに落ち着くのをミンディは感じた。すると、胃袋も急に空腹を思い出したようだった。今にも鳴り出しそうなお腹をさりげなくさすって、ミンディは皿に添えられたカトラリーへと手を伸ばした。


「ありがとうございます。いただきます」


 ナイフで切った断面からフィリングが落ちないよう、ミンディは慎重にパイを口へ運んだ。それを見て満足したようすで、ロザリーも葡萄酒を口に含んだ。


「よかったわ。思っていたより元気なようで」


 グラスから唇を離すと同時に、ロザリーが呟いた。厚みのあるパイのふちを咀嚼していたミンディは、声を出さないまま目をみはって侯爵令嬢の笑顔に見入った。ロザリーは葡萄酒のグラスを揺すりながら、侍女の瞳を見詰め返す。


「あなた、さっきひどい顔をしていたのよ。気づいていなかった?」


 ミンディは口の中のものを葡萄酒で流し込み、かっと熱くなった頬に両手を当てた。


「……そんなにひどかったでしょうか」

「そうね。だから部屋へ下がらせたのよ」


 ロザリーに呆れ口調で言われ、ミンディは恥ずかしさのあまり背中を丸めた。泣き腫らした目はしっかり冷やしたつもりだったが、不十分だったようだ。皇太子の前で指摘されなかったのは、ロザリーの優しさだろう。


 穴があったら入りたい心地でミンディが俯いていると、テーブルにグラスを置く音が小さくした。


「ねえ、ミンディ。なにがあったのか、聞いてもいいかしら」


 ミンディがそろそろと顔を上げて目を向けると、ロザリーは笑うでも怒るでもなく、静かな眼差しでこちらを見ていた。


 つかの間、ミンディはロザリーの瞳に見入った。葡萄酒と同じ色をした瞳はふちが濃く、奥まったような深さを感じさせる。深い色合いだからこそ電灯の光がはっきりと映り込み、たゆたうきらめきをも宿していた。


 ロザリーの瞳に映る光の揺らめきを見詰めながら、ミンディはゆっくりと背筋を伸ばして居住まいを正した。ロザリーの前でまで、醜態はさらせない。


「特別なにかがあったわけではありません。ただ、皇太子殿下とお話している途中で、わたくしが泣いてしまって――」

「殿下に、なにかひどいことを言われたのではなくて?」

「違います!」


 思わず声を大きくしてしまってから、ミンディは慌てて自分の口を押さえた。


「申しわけありません」

「いいのよ。遮ってしまったのはわたくしだもの。続けてちょうだい」


 優しく慰めるように言われ、ミンディは手を膝に置いて息を整えた。


「殿下にひどいことを言われたり、されたりということではないのです――お茶への誘われ方は、少しだけ強引ではあったかもしれませんが――殿下に問われて、実家でのことを少しお話ししたのです。それで話している内に、わたくしが勝手につらくなってしまって」


 ミンディは自虐的に苦笑いした。


「殿下にはすっかりご迷惑をおかけしてしまいました。わたくしが泣いたりしなければ、もっと早く帰れるはずでしたのに。お手まで、わずらわせてしまいました」


 改めて状況を思い返してみると、侯爵家の侍女にすぎないミンディに皇太子はよくつき合ってくれたものだと思う。ロザリーへの名誉挽回のためとも考えられるが、それにしても辛抱強く親身だった。生地から刺繍糸まで上質で高価そうなハンカチまで貸してくれたのだから。


 皇太子のハンカチが、脱いだ服のポケットに入れっぱなしであることをミンディは思い出した。汚してしまったものはやはり洗って返さねばと、そのまま持ってきたのだ。


 忘れないよう明日の朝一番にお湯を沸かして洗おう、とミンディはぼんやり考えた。


 ロザリーが少し息を吐きながらほほ笑んだ。目尻をすぼめたその表情は、どうしてか楽しげだった。


「それほど気に病む必要はないわ。殿下が本当に面倒に思われたなら、ご公務でもない限り、時間に遅れてまでつき合うだなんてありえないもの。ご公務でも、気分によって早く切り上げることがおありなのだから」

「そうなのですか」

「ええ。外からはあまりそう見えないように振る舞われているけれど、他人や事物への好悪がはっきりしてらっしゃる方よ。だから、悪いようにはならないから安心して」


 完璧に見える皇太子の知られざる一面を聞かされ、ミンディは目を剥いた。


 ミンディにとって皇太子は見目が麗しいだけでなく、性格も軽妙洒脱けいみょうしゃだつで聡明な男性だという印象が強かった。通りがかりに一介の侍女に声をかけてくるような突飛さはあるが、話すほどに思いやり深い人物だと感じる。


 ミンディは膝の上でこっそり両手を重ねた。泣く彼女にハンカチを握らせ、頬を拭ってくれた手の平を思い返す。ミンディの手をすっぽり覆ってしまう大きさと力強さは彼女を落ち着かない心地にさせたが、血の通う温もりは安堵をもたらすものだった。


 どんなに優しい人であれ、相性の悪い相手というのは必ずいるものだとは思う。だとしてもミンディの思う皇太子と、ロザリーの言う彼の性格がすぐに結びつかなかった。


 ふとミンディは、たった今ロザリーが皇太子について語った内容と、昼間に皇太子がロザリーについて語った内容が、ほとんど同じであることに気づいた。それまでの会話の流れまで、少し似ているかもしれない。とても不思議な心持ちではあったが、やはり似ている二人だからなのだろうという納得感もあった。


「あの、ロザリー様」


 ロザリーは返事の代わりに首を傾けた。ひと呼吸おいて、ミンディは続けた。


「今日は殿下にせっかくお声をかけていただいたのに、たいへんな迷惑をおかけしてしまいました。ですので、やはりなにかお詫びをしたいと思うのですけれど……ロザリー様はどう思われますか」


 どきどきと早鐘を打つ胸を押さえて、ミンディは最後まで言った。

 皇太子から借りたハンカチを返す機会を、どこかで作らなければならない。


 ラガーフェルドで二度も遭遇しているので、持ち歩いていればいずれ会うこともあるやもしれない。が、やはり運を天に任せるよりは、お詫びを口実に訪ねるのが確実だろう。それには、主人たるロザリーの許可が必要だ。


 現状ロザリーは皇太子と距離を置いているが、今なら許して貰えるのでは、という予感がミンディにはあった。だからこの胸の高鳴りの正体は、期待だ。


 ミンディの主張が意外だったのか、ロザリーは少しびっくりした顔をした。やや考えるような間を置いてから、その目元が再び弓なりになる。


「いいわ。また、ゆっくり相談しましょう」


 嬉しさで、ミンディの頬が熱くなった。お詫びの品とはいえ、やはり喜ばれるものを贈りたい。皇太子はなにが好きだったろうかと、気がはやって考え始める。


 だがその前に、と慌てて気持ちを引き戻し、ミンディは立ち上がってロザリーに頭を下げた。


「ありがとうございます」


 ミンディが感情のまま大げさに感謝を示すと、ロザリーは笑いながら肩を押して座らせた。


「ミンディが自分からなにかをしたいと言うなんて、侯爵家うちにきて初めてだもの。反対する理由がないわ。さあ、パイを食べてしまいなさいな。そうしたら今日はもう寝支度をして、話の続きはまた明日にしましょう」


 ミンディは頷き、ナイフとフォークを改めて持った。


 ジェイデン皇太子とロザリーはどちらもミンディに優しく、おそらく思考もよく似ている。ならばいずれ、こうしてロザリーと語らうように、皇太子と話すこともできるのではないか。


 身の程を弁えない理想かもしれない。けれど、聡明な二人の会話に少しでも加われるようになれたら、さぞ誇らしく素敵なことだろう。


 ミンディはそんな憧れを思い浮かべて、密かに胸をときめかせた。

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