18輪 皇太子の憂鬱

 皇太子らがホテルのティールームを出てヘルツアス侯爵邸へ馬車で乗りつけた頃には、夕闇が迫る暮れ方だった。侯爵邸のポーチにはすでに電灯がともされており、待ちかねたロザリーが彼らを出迎えに立っていた。


 皇太子の手を借りて馬車を降りたミンディは、真っ先に主人たる侯爵令嬢へ駆け寄って頭を下げた。


「帰りが遅くなり、申しわけありません」

「謝らなくていいわよ、ミンディ。どなたのせいかは、分かっているから」


 ロザリーは柔らかな声色で言いながら侍女の手をとり、顔を上げさせる。侍女の後ろにはつき添うように皇太子が立っていたが、ロザリーの視線はいっさいそちらに向かない。


 元婚約者の静かなる怒りを察し、ジェイデンはこっそり肩をすくめた。

 ミンディの顔を見たロザリーの目が、わずかに見開かれた。


 赤く泣き腫らしたミンディの目は、ティールームで冷水を貰って冷やしたが、やはり完全に腫れを引かせるには時間が足りなかった。その上、きっちりとなされていた化粧も落ちてしまっている。黄昏の薄暗がりといえど、侯爵令嬢がそれらに気づかないはずもない。


 ロザリーはみはった目をすぐさま笑みの形に細めて、ミンディの頬を撫でた。


「あなたは中に入って休む支度をなさい」

「ですが、これからご夕食の支度が……」

「気にしなくていいわ。今日は疲れたでしょう。あとで夜食を持っていくから、もうゆっくりなさい」


 やんわりと、それでも有無言わさぬ口調でロザリーは言う。ミンディはやや躊躇いを見せたが、主人の笑顔に気圧される形で頷いた。


「……はい。ありがとうございます」


 軽く礼をしたミンディは室内へと向かう前に体を反転させて、今度はジェイデンへと頭を下げた。


「今日は、たいへんご迷惑をおかけいたしました」


 律儀な侍女に、ジェイデンの口元には自然と笑みが浮かぶ。


「強引に誘ってしまったのはこちらだ。ロザリーの言う通り、今日はゆっくりするといい」

「ありがとう存じます。失礼申し上げました」


 ミンディはもう一度、慇懃過ぎるほどに頭を下げて、屋敷へと入っていった。


 赤毛の侍女がいなくなれば、この場で向き合うことになるのは美しき元婚約者の二人だった。馬車のすぐ前には夕闇に隠れるように皇太子の侍衛が立っているが、彼が二人の間に入ることはありえない。


 先手を打ったのはロザリーだった。皇太子の美貌を真正面から見上げ、不自然なまでに満面の笑みを浮かべる。


「どんな言いわけを、お聞かせいただけますかしら」


 ジェイデンははぐらかすことなく、降参の意味で両手を肩の位置に上げた。


「今回に関してはわたしが悪かった。言いわけはしない」

「このようなことでは困りますわね。彼女はわたくしの大事な侍女なのですから。ただでさえ皆無な信用が、さらに地に落ちましてよ」


 聞きようによっては上機嫌とも聞こえるあでやかな声色で、ロザリーは皇太子を責め立てる。


 皇太子のもとへミンディを差し向けたのはロザリー自身だろう、とジェイデンは内心でぼやいた。だが今の状況で言い返せば彼女の逆鱗に触れるだけで、あまり得策ではないことは明白だ。


 ジェイデンはちょっと息を吐いてから、珍しく素直に謝罪を口にした。


「申しわけなかった。ただ、念のため弁明させて貰うならば、彼女に無理を強いたり傷つけたりはしていない」

「そんなことは当然です」


 ぴしゃりと言い放ち、侯爵令嬢は眼差しを厳しくした。


「今は時間もありませんから、追及は次の機会にいたしますけれど。また彼女を泣かせることがあれば、わたくしにも考えがありましてよ」

「そうならないよう、肝に銘じておこう」


 侍女一人のためだけに目上へ手厳しくなれるロザリーに、ジェイデンは舌を巻きつつ両手を下ろした。


 また同じようなことがあればロザリーは、ミンディとジェイデンの接触を徹底的に断つ立ち回りをするだろう。ジェイデン自身もミンディを泣かせたい気持ちは欠片もないが、本人の口から生い立ちを探るのはもう少し慎重にすべきだったと自戒した。


 黄昏れていた空には、いつの間にか星が輝き始めていた。ポーチの照明が届かぬ柱の陰や芝の庭園にも、夜闇がわだかまっている。さすがにジェイデンも、用もないままいつまでも皇宮を離れているわけにはいかない。


 侯爵令嬢の怒りをこれ以上あおらぬよう、ジェイデンは最大限の優雅さと慇懃さで別れの礼をした。


「それでは、わたしはこれで失礼申し上げよう。ごきげんよう、ロザリー。また、水晶宮で」

「ごきげんよう。次のお呼びを、心よりお待ちしておりますわ」


 どうあってもロザリーは、今日の件を追及する気でいるらしい。

 ジェイデンは苦笑いを押し殺し、にこやかな侯爵令嬢に端麗な微笑を返して帰りの馬車に乗り込んだ。


 蔓延はびこり始めた夜の中へと馬車が走り出す。ヘルツアス侯爵邸の門を出てロザリーの姿が見えなくなったあたりで、ジェイデンはやっと肩の力を抜いた。


「ケイレブの件といい、今日といい、ロザリーに睨まれてばかりだな」

「殿下を叱れる方は少ないですから、よい傾向かと」


 向かいの席から返ってきた呟きに、ジェイデンは目を眇めた。


「今日はやけによく喋るな。君も近頃、言葉に棘があるんではないか」

「わたしは元々こうです。強いて言うなら――」


 あくまで平板な低音のまま、ザックは言葉を区切る。すると、無表情が常の彼の口元に、薄らとした笑みが浮かんだ。あまりに珍しいことにジェイデンは面食らって、ザックの精悍な顔を凝視した。物静かな侍衛は視線に構わず、続きを口にする。


「殿下にも純情なところがおありだと分かって、安堵しています」


 言葉の終わりと共に、ザックの口元から幻のように笑みが消えた。

 呆然とした心地でそれを見たジェイデンは、聡い侍衛を改めて睨めつけた。


「安堵と言いながら、面白がっている顔だろう、それは」

「いいえ。殿下が早く素直な行動をなされれば、とは思っていますが」

「君といいロザリーといい、目上への容赦がまるでないな」


 ジェイデンは長々とため息を吐き出した。


 ザックの言う通り、ジェイデンの恋を成就させるだけならば、秘めた感情を素直に表すのが一番の早道ではあるだろう。その後でも、ミンディの好意を自分に向けさせる自信はある――ロザリーへの崇拝を超えるのはかなり困難ではあるが。


 けれども、ジェイデンの望みはそればかりではない。


 ロザリーの協力をえられたことによって、彼女も知らぬもう一つの目論見にわずかながら光明が見えてきた。だから、そちらに明らかな進展があるまでは、できればミンディについては他の異性に目が向かぬよう気を引くにとどめるつもりでいた。


 もちろん事がうまく運べば、多少ロザリーに恨まれようと遠慮をする気はさらさらない。ただ、今はまだそのときではなかった。


「わたしに殿下のお考えまでは分かりかねますが――」


 ジェイデンの物思いに、ザックの声が入り込んできた。物静かな侍衛は、車窓の夜闇が映り込む瞳で皇太子を見据えていた。


「ケイレブになにかをさせたいのなら、遠回りさせず伝えるべきではありませんか。彼ならば、殿下の言葉には間違いなく従います」


 ザックの本当に言いたかったことはこちらか、と。ジェイデンは気づいて、悩ましく腕を組んだ。


「君の察しのよさは、たまに少しばかり心配になるな。わたしの下にいてくれてよかった」


 このぼやきには、ザックは無言を通した。従順だがときに扱いにくい侍衛に、ジェイデンは肩をすくめて観念した。


「確かに君の言うことはもっともだが、この件ばかりはそういうわけにもいかない。ケイレブにはわたしの指示でなく、自分の意思で動いて貰わなくては意味がない」


 ザックの眉間がにわかにひそめられた。それが、皇太子の言う意味が伝わったためなのか否かは、黙っているので判然としない。ただ彼の発した不満げな空気に、ジェイデンは少しだけ口角を上げた。


 ロザリーとの協定にまつわる一連の件で、今日も含めてザックにも負担がいっている。それが不満というわけではなさそうではあるが、できれば早めに片をつけられればと彼が考ええていることは、乏しい表情の中にもおおよそ見てとれた。


「申しわけないが、もう少しだけ堪えて黙っていて貰えると助かる。これはわたし自身はもとより、ケイレブのために始めたことでもあるのでね。君ならば、彼の問題にも多少は気づいているだろう」


 ザックが答えるまで、少しだけ間があった。それが呆れか諦めか、あるいは両方かまでは分からない。だが、まばたきしたオリーブの実のような瞳には、皇太子への揺るがぬ忠誠があった。


「かしこまりました。わたしはこれ以上、なにも申しません――ケイレブを、あまりいじめないようにだけしてやってください」


 物静かな侍衛が見せた同僚への気づかいに、ジェイデンは噴き出した。


 ザックは感情表現に乏しくても冷血ではない。むしろ情に深い人物であることをジェイデンは承知している。そんな彼だからこそ、やはり同じ任務についている同僚のことはより気にかかるのだろう。


 ケイレブとて真っ当な成人男性であるし、策謀には向かなくとも信頼して傍に置ける、近侍として申し分ない人物だ。騎士としての身体能力はもちろんのこと、どんなに地味な仕事でも堅実にこなす根気と忍耐強さがある。


 でありながら、身近な同世代から子供のように心配されているのが、なにやらおかしかった。彼の素直過ぎる性分が、周りをそうさせるのだろう。


 笑いを収めたジェイデンは、軽く身を反らせてやおら脚を組んだ。


「善処はするが、多少の荒療治は必要になるかもしれない。なにせ、頑固な男だからな」


 ふっと、笑いの余韻が鼻から抜けた。


「彼はもう、わたしへのこだわりを捨てるべきだ」


 そのためならば自分のことが多少あと回しになるくらい、大した問題ではない。


 そう考える皇太子を乗せた馬車はすっかり日の落ちたラガーフェルドを駆り、あかりの絶やされることのない蒼の皇宮ブルーシャトーへと帰り着いた。

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