17輪 紅葉の涙

 ミンディは肩から落ちる自身の赤毛を、手櫛でくように撫でつけた。毛先まで潤いを纏った髪はそれだけで、赤金あかがね色に輝いた。一方で、蒼天の太陽のような虹彩が憂いに曇る。


「わたくしはご覧の通りのですから……赤い髪と大きな体が周囲を不快にさせて、わたくしがいるだけで場の空気を乱してしまうそうです。せめて行動の不快感だけでもやわらげられればと、最低限の作法などは学びましたが、やはり外出は許されませんでした。父が外へ連れていくのはいつも妹だけでしたし、それこそ社交界など、わたくしにえんはありません。殿下がわたくしをご存じなくて、当然だと思います」


 訥々と語るミンディの声に不思議と悲壮感はなかった。ただ感情も抑揚もなく、事実を並べていく。


 彼女の生い立ちを聞きながら、なるほど、とジェイデンは口にはせずに思った。


 グンマイ子爵家は下級貴族といえども、シュラブ地方で代を重ねた古い家柄だ。そういう家は血統へのこだわりが強いことも多い。


 ジェイデンの記憶では、現グンマイ子爵夫人がフィーユ民族の血を継いでいるはずだが、夫人自身にはその特徴はなかった。だから大丈夫だろうと踏んで、子爵は彼女をめとったに違いない――しかし、ミンディにフィーユの血が色濃く表れた。


 グンマイ子爵はさぞ衝撃を受けたのだろう。だからと言って、蔑んでいい理由にはならないが。


「つまり君はずっと、グンマイ子爵の屋敷に軟禁されていたのか」


 ジェイデンが要約のつもりで口にすると、ミンディはびっくりしたように目を見開いた。


「そのように思ったことはありませんでした……衣食は与えられていましたし、乱暴なことをされたわけでもありませんでしたので」

「しかし、行動を制限されていたのだろう。体に傷がつくような暴力がなかったとしても、言葉で支配して抑圧していたなら、行為として大差はあるまい」


 言われて初めて気づいたとばかりに、ミンディはぽかんとした表情でジェイデンの顔を見た。


「……確かに、思い返してみると、近い状態ではあったのかもしれません。とにかく屋敷外の人に姿を見られるとひどく叱られたので、自分の部屋で息をひそめるように過ごしていました。母似の妹と違って、わたくしは伝統を重んじる子爵家に相応しくありませんでしたから」


 言葉の終わりで、ミンディは自嘲の笑みのようなものを薄らと浮かべた。


 とても笑って話すような内容ではない。ジェイデンは自身の眉間に触れて、嫌悪感が表情に出ていないことを確認した。


 ミンディの対人不安は外見で差別されてきたゆえかと予想してはいたが、それに実の親が加担していたとなれば、問題は相当に根深い。そして考えるほどに、そんな彼女をロザリーは侍女にとり立て、一人で使いにやれるところまで持ち直させたのだ、という事実に行き当たる。


 ジェイデンはロザリーの発したの意味を知ると共に、彼女への評価を改めた。ミンディに近づく男性の覚悟を測ろうとする心理が、今のジェイデンには理解できる。


「ロザリーは、どうやって君を見つけた?」


 この問いには、ミンディは首を緩く横に振った。


「それはわたくしも存じ上げません。ただ、グンマイ子爵家に娘が二人いることは、元々ご存じのようでした。わたくしは客人への挨拶さえ許されませんでしたから、二人いるはずの娘の内の一人しか顔を見せないことを不思議に思われて、お調べになったのかもしれません」

「確かに、彼女ならその可能性が高いな。それで君を気に入って、引っ張り出したというわけか」


 グンマイ子爵はヘルツアス領内の町の統治をあずかっており、立場的にヘルツアス侯爵の配下にあたる。上役たる侯爵の嫡女、しかも当時はほぼ確実に皇室に入る見込みであったロザリーから強く要求されれば、子爵が拒み続けることは難しかっただろう。


 いみじくも、あの一見して自尊心の塊のような侯爵令嬢は、自身の力の使い方を心得ている。


 長らく下に置いてきた娘を、今をときめく侯爵令嬢から侍女にと求められて、グンマイ子爵は果たしてどんな反応を示したか。想像するだに痛快さを覚えて、ジェイデンは自身の性格の悪さに苦笑をしそうになった。


 ふとジェイデンは、真っ直ぐにこちらを見詰めるミンディの眼差しに気づいた。元々大きな瞳をさらに大きく丸くし、なにか言いたげに皇太子の顔に見入っている。


「どうかしたかい」

「……わたくしは、ロザリー様に気に入っていただけているのでしょうか」


 緊張を含んだ声音で、ミンディが言う。堪えきれず、ジェイデンは破顔した。


「わたしにはそうとしか見えない。哀れんで連れ出したとしても、気に入ったのでなければ、ロザリーが長く傍に置くことはないだろう。彼女は他人に対する好き嫌いが激しいからね。可愛がられている実感はないかい?」


 ミンディは素早く首を左右に振った。


「初めて会ったときから、ロザリー様はわたくしを褒めてくださいました。素敵な髪だと。磨けば誰にも負けない女性になれると。そう言って、わたくしの髪に櫛を入れてくださいました。今も、女性としてたくさんのことを教えてくださっています。ただ、わたくしは……期待するのが、怖くて。ロザリー様がわたくしを可愛がってくださっているなど、一方的な思い込みなのではと」


 一拍置いて、ミンディの表情がほころんだ。


「ロザリー様とおつき合いの長い殿下からもそう見えていると分かって、少し安心しました」


 ミンディがジェイデンの前で見せる、初めての曇りない笑顔だった。彼女の纏う色彩がさらに鮮やかさを増すようで、思いがけず胸を打たれる。


 そしてその笑顔がロザリーへの思慕によって引き出されたものであることに、ジェイデンは淡い嫉妬を抱いた。


「君は本当に、ロザリーが好きなのだね」


 ミンディは頬を染めて頷き、さらに笑顔を輝かせた。その瞳に浮かぶのは、ロザリーに対する崇拝とも呼べる感情だった。


「ロザリー様は、母にもできなかったことをしてくださいました。母はわたくしを生んだことで父から責められて、妹が生まれるまで、家の中で立場を悪くしていましたから……」


 蒼天の瞳に一瞬だけ影がよぎらせるも、すぐに輝きをとり戻し、ミンディはこの場にいないロザリーを見るように目を細くした。


「ロザリー様と出会えなければ、わたくしは今でもきっと、屋敷に閉じこもりきりでした。ロザリー様のお陰で、わたくしは家族以外の方とも話せるようになって、外を歩けるようにもなりました。この髪も、最近では少しは好きになれた気がするのです。隠れなくてもいい。ここにいていい……そう、思えるように、なって……」


 蒼天の瞳に涙の膜が張り、ミンディは声を詰まらせた。急なことにジェイデンが驚いた直後、彼女の睫毛から滴が落ちる。


 ミンディ自身も、自分の涙にぎょっとしたらしかった。焦った手つきで頬を拭い、強く両目を押さえた。


「も、申しわけありません。すぐに、止めます」


 はなをすすり、ミンディはしきりに目元をこすった。しかし涙は容易くは止まらず、大粒の滴が膝へとしたたった。


「申しわけありません……こんな、はずじゃ……」


 泣くのを堪えようとしするあまり、ミンディは苦しげにうめきながら嗚咽する。顔を覆った指の間からも、涙の滴はこぼれ落ちた。


 むせび泣くミンディの姿を見詰め、ジェイデンは深く息を吐き出した。


「……妬けるな」


 相手に聞こえぬよう、ジェイデンは口の中だけで呟いた。


 唇にかすかな苦笑を刷き、皇太子は立ち上がった。フロックコートのポケットからハンカチをとり出し、嗚咽するミンディのかたわらへと膝をつく。俯く彼女の顔を覗き込みながら、ジェイデンは青の布地に白薔薇の刺繍されたハンカチを差し出した。


「君を泣かせたのでは、あとでロザリーに叱られてしまうな」


 皇太子の声に反応して、ミンディは背を丸めたまま小さく振り向いた。涙を止めどなく溢れさせながら、蒼天の瞳は戸惑いがちに皇太子の顔とハンカチの間を往復する。


「申しわけありません……わたくし、本当に、こんなつもりでは……」

「迂闊なことを聞いてしまったのはわたしだ。君が謝ることではない」


 ジェイデンはミンディの手をつかみ、ハンカチを持たせた。そのまま片手でハンカチごと彼女の手を包み、もう一方の手で赤い前髪を払いのける。


「君を見つけたのが、ロザリーでよかった」


 潤む瞳にほほ笑みかけ、ジェイデンはミンディの濡れた頬を親指で拭った。


 ミンディの目がゆっくり見開かれ、頬に朱が差した。目を細くしたジェイデンはなだめるように彼女の頭を数度撫でて、やおら立ち上がった。


「お茶が冷めてしまった。新しいものを頼んでこよう」


 ハンカチを握り締めるミンディをその場に残し、ジェイデンは個室を出た。

 貴婦人たちが談笑するティールームへ出ると、扉のすぐ脇に控えていたザックと目が合った。


「もう皇宮へ戻られますか」


 侍衛の事務的な問いかけに、ジェイデンは扉をきっちり閉めながら首を横に振った。


「いや。とてもすぐに出られる状態ではないな」


 扉の横の壁に軽くもたれかかって、ジェイデンは苦笑する。立ち話の体勢になった皇太子を見て、ザックは精悍な顔を怪訝にしかめた。


「なにをなさったんですか」

「誓って言うが、いかがわしいことはしていない」

「それはそうでしょうが……」


 ザックはそう言いよどむも、オリーブ色の眼差しの中に胡乱げな色が滲む。


 密かにこちらを気にする貴婦人たちへ軽く愛想笑いを振りまいてから、ジェイデンはザックに体ごと向き直って真面目な表情を作った。それが貴婦人らを寄せつけぬための仕草であると、分かっている侍衛の口が引き結ばれる。


 ジェイデンはいかにも難しい話をしているといった顔で、他愛ない雑談に興じる。


「中にいては、わたしが嫉妬で狂いそうだったのでね」

「殿下にも、そういう感情があるのですね」


 声音は平板ながらも意外そうに、ザックは返す。ジェイデンは軽く片眉を上げて、端然と立つ侍衛を睨んだ。


「わたしとて、誰かを羨むことくらいはある」

「誰への嫉妬かは聞かないでおきます」


 ザックが無表情のまましれっと言い、ジェイデンは思わず笑いそうになるのを堪えた。


 もし、ミンディへ最初に手を差し伸べたのが自分であったならば、と。ジェイデンはちらりと考えた。

 ロザリーへ向けられている思慕が、ジェイデンに向けられていただろうか。


 しかし彼は現在のミンディを気に入っているのであり、グンマイ子爵家にいた当時の彼女に心引かれたとは限らない。しかも異性であり皇太子の立場もあったのでは、ロザリーほど寄り添ったきめ細やかな導きはできないだろう。


 だから多少の悔しさは覚えたとしても、彼女を見つけたのがロザリーでよかった、と言った気持ちに嘘はなかった。


 しかしそれゆえか、この恋心も実はあの侯爵令嬢の手で転がされているだけなのでは、という心地もしてしまう。かといって、それで薄らぐような生半可な思いではないが――でなければとっくにロザリーから手を切られて、今の状況もない。


「対抗馬が強力過ぎるのは、やはり考えものだな」


 ジェイデンはぼやき、周囲から表情が見えぬように壁へ顔を向けて失笑した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る