10輪 シュガークッキー
薄手の寝間着の上にガウンを羽織り、ミンディは自室の鏡台の前に座った。楕円の鏡に映った生白い顔を見て、ちょっとだけ眉を持ち上げる。
近頃、外出の機会が増えたからか、化粧を落とすと鼻の周りのソバカスが気になるようになっていた。生家にいた頃はほとんど外に出なかったせいで青白いほどだったので、健康的になったとも言えるかもしれないが。
自分の顔への難癖にひとまず目をつぶり、ミンディは補水用のハーブ水を頬にはたき込んだ。
肌を整えるハーブ水は、仕えているロザリー・フレディーコに分けて貰ったものだった。
ハーブ水だけでなく、目の前の鏡台に並んでいる華やかな化粧品も、髪用の香油も、すべてミンディに合うものをロザリーが選んで、買い与えてくれたものだ。始めは使い方が分からず戸惑うばかりだったが、ロザリーが自ら丁寧に教えてくれたので、今ではすっかり習慣づいている。
傍に置いて貰っている以上は、美しい侯爵令嬢に恥をかかせる自分ではあってはならない。という思いも、ミンディに行動をさせた。だが――
手の平に馴染ませた香油を髪へ塗り込む段になって、ミンディは重たい気持ちでため息をついた。赤い毛先を手櫛で
「
昼間に焼き菓子店で投げかけられた言葉が、ミンディの中で尾を引いていた。裏で囁かれているのは察しているが、真正面から突きつけられたのは久しぶりだった。
現在でこそ同じ国として統一されているものの、本島と離島フィーユとでは元々、根づいていた民族が異なる。
フィーユ民族はその特徴として、大きな体と、鮮やかな赤い髪を持つ。恵まれた体格由来の身体能力の高さを評価される場面もあるが、本島の人間からは野蛮な民族という見方をされるのが常だった。
ゆえにフィーユ民族は、離島自体が大輪ノヴァーリスから落ちた葉のような位置と形であることと、民族特有の赤い髪から、三国統一以降も
ミンディの生家であるグンマイ子爵家は、本島シュラブ地方の古い小貴族なので、彼女自身はフィーユ島出身ではない。けれど、母方の祖母がフィーユ民族の家系だった。
家族の誰よりもフィーユの血が濃く現れたミンディには、生まれた瞬間から
そして母と同じ飴色の髪を持つ妹の誕生によって、家中におけるミンディの扱いの差は歴然としていった。
ロザリーと出会ってフレディーコ家へ奉公にきて以来、蔑称を聞くことがめっきりなくなっていたので油断していた。
差別されたことそのものよりも、これまでロザリーに守られていたのだという事実が明確になったのが、ミンディにはこたえた。今日、偶然にでも皇太子に助けられたのとて、ロザリーの存在があってこそなのだから。
髪をくしけずりながら、ミンディが果てしなく落ち込んでいると、部屋の扉を叩く音が響いた。
「はい」
「ミンディ、わたくしよ」
室外からの声に、ミンディは急いでスツールから立ち上がった。照明を控えているせいで薄暗い部屋を早足に横切り扉を開く。思った通り、そこにロザリーが立っていた。
部屋着に薄いローブを羽織っただけの寛いだ恰好をした侯爵令嬢は、ミンディを見て少しだけ首を傾けた。
「もしかして起こしてしまったかしら」
「いいえ。まだ寝支度をしている途中でした。なにかご用でしたでしょうか」
「用というほどではないのだけれど、少し話せないかと思って。入って構わないかしら」
断る理由はなく、ミンディは扉から一歩ずれてロザリーを部屋へと招き入れた。
扉を閉めたミンディが振り返ると、ロザリーが右手を差し伸べてきた。
「貸してちょうだい。やってあげるわ」
ミンディは一瞬、ロザリーがなんのことを言ったのか分からなかった。しかしすぐに、自分が櫛を持ったまま対応していたことに気づいた。櫛をおずおずと差し出せば、素早くとり上げられると同時に手をつかまれる。ミンディがどきりとしている間に、ロザリーは彼女の手を引いて鏡台の前まで連れていった。
踊りをリードするような動作でミンディを鏡台の前に座らせたロザリーは、波打つ赤毛に撫でる手つきで櫛を入れた。
「相変わらず、柔らかくて気持ちのいい髪ね。傷めないように、普段から丁寧に扱わなくては駄目よ」
久しぶりにロザリーの手で髪を
「はい。教えていただいた通りにしています。本当は、ロザリー様の髪くらい艶があるといいのですけれど」
本心からミンディが言えば、ロザリーは澄ましバターのような艶の髪を揺らして、鏡越しにほほ笑んだ。
「きちんと手入れを続けていれば、じきになるわ。ほら、根元の方は綺麗に艶が出ているでしょう」
櫛を入れながらロザリーがそっと房を持ち上げれば、赤い髪の根元が黄色い照明を浴びて、
出会ったときから、ロザリーはミンディの憧れだった。
だから、侍女にならないかとロザリーから誘われたときには心底驚いたものの、断る選択肢などなかった。反対する父に食い下がり必死で説得したのは、あとにも先にも初めてだった。
ロザリーはミンディに対して甘くはないが、いつでも温かく心を砕いてくれた。肌質や顔立ちに合わせた化粧や、髪の手入れの仕方だけでなく、ちょっとした言葉づかいや作法まで、決して感情的になることなく教え導いてくれる。生家でも最低限の教育は受けていたが、ロザリーが与えてくれるのは、それだけでは得がたいものばかりだ。
ロザリーの方が歳上とはいえ、何歳も違うわけではない自分との器の差に、ミンディの憧憬は募っていた。
「ねえ、ミンディ。昼間、殿下とお会いした以外にもなにかあった?」
不意に切り出すように、ロザリーが抑え気味の声音で言った。予期していなかった問いに、ミンディの心臓が跳ねる。
ロセ・ベーカリーでのできごとについて、皇太子が支払ってくれたことは報告したが、
「――いいえ。なにもありませんでした」
「そう? 帰ってきてから、なんだか少し元気がないように見えたから。殿下から、なにか言われたりもしていない?」
心配してくれるロザリーに申しわけない心地になりながら、ミンディは安心させようと笑顔を作った。
「皇太子殿下はとてもよくしてくださいました。本当に、なんでもありません」
「それならいいのだけれど……」
気づかわしげに言って、ロザリーは櫛を鏡台に置いた。仕上げに、手櫛で全体の毛流れを整える。毛筋の一本一本までむらなく香油のいき渡った赤毛はしっとりとした艶を纏い、ふわりと甘く香った。
「はい、できたわ」
「ありがとうございます」
礼を言いながらミンディは、自分で手入れしたときとはまるで違って見える毛先に触れた。上質な生糸のように滑らかな仕上がりに、感嘆とする。ミンディも日々努力はしているが、こうして差を目の当たりにすると、ロザリーのようになるにはまだまだ時間がかかりそうだという思いが強くなった。
ミンディがうっとりと赤毛を撫でていると、後ろから伸びてきた両腕に肩を包まれた。驚いたミンディのつむじに、ロザリーの吐息が触れる。
「わたくしは、ミンディの髪が好きよ。周りの言葉を気にしないでいるのは、まだ難しいかもしれないけれど、あまり落ち込み過ぎないようにね」
胸の高鳴りと共に、ああ、この人は――とミンディは思った。
どんなに隠そうとも、なにがあったのかをロザリーはとっくに察している。それを咎めるでも責めるでもなく、寄り添ってくれる優しさに胸が熱くなる。同時に、守られてばかりの情けなさでミンディは涙が出そうだった。
俯いたミンディの顔を持ち上げるように、ロザリーの細い指先が顎に触れた。
「よく見て、ミンディ。わたくしはね、あなたもそろそろ、自分の強みに気づいていい頃だと思っているの」
強み、と言われても、ミンディにはぴんとこなかった。ロザリーのように
鏡に映る自分も――赤毛からひとまず目を逸らしたとして――大きな瞳が青と金のまだらで理知的とは言いがたい。
輝く髪と肌に葡萄酒色の瞳が深みを与えているロザリーの貴婦人然とした容姿と見比べると、ミンディの姿は背が高いばかりで幼稚に見えた。
「……ロザリー様の方が綺麗です」
ミンディが率直に言うと、ロザリーは少しの照れもなく相好を崩した。
「ありがとう。でも、わたくしが綺麗に見えるとしたら、それは己の分を知って、見せ方を心得ているからよ。あなたは今、それを学んでいる最中なの。あなたがそれを身に着けたとき、同世代の女性の中に立つだけで、どれほど凜々しく映るか――きっと、わたくしよりも、たくさんの信奉者を集めることになるわね」
声を弾ませてロザリーは言ったが、ミンディにはそんな自分がまるで想像できなかった。赤い髪と高過ぎる身長は確かに目立つが、ロザリーが言っているのはそういう意味ではないだろう。
自信なく鏡を見詰めるミンディの両頬を、ロザリーの手が包んだ。首を反らすように仰向かせられ、鏡越しでなく瞳を覗き込まれる。
「予言だと思ってくれていいわ。そう遠くない内に必ず、皆があなたに憧れるようになるから」
ロザリーはそう断言して、ミンディの目蓋にキスをした。
「お休みなさい。ゆっくり眠るのよ」
「……お休みなさいませ」
就寝の挨拶を囁いて部屋を出ていくロザリーを、ミンディは気後れしたまま見送った。
ややあって、ミンディはもう一度、鏡の方を向いた。何度見ても、そこに映るのは親にさえ踏みにじられてきた
スツールから立ち上がったミンディは、ベッド横のキャビネットへと足を向けた。その一番上の
ミンディは少々の罪悪感と一緒に箱をとり出し、花柄の蓋を開いた。甘い香りと共に現れたクッキーには、赤く着色された砂糖細工で精緻な薔薇が描かれていた。
同じ赤でも、薔薇の
髪色でもそうであればいいと思うが、その難しさはミンディ自身が一番よく分かっている。
このクッキーは、おそらく皇太子からの賄賂――というと大げさかもしれない――のようなものだろう。ロザリーに自分のことをよく言って欲しいという。
だとしても、皇太子がそのような素振りも見せずにミンディを助けてくれたのは事実だ。新春の宴での彼は恐ろしかったが、やはり以前からの印象通り、根は優しい人に違いない。
傍で見ていて、元婚約者同士の二人の美しさと優しさは、どこか似ていると感じる。だからこそ、二人が再び睦まじく寄り添う日がきたらいいと願いながら、ミンディはクッキーを一枚持ち上げた。
そっと歯を立てれば、砂糖の薔薇は驚くほど儚く崩れた。噛み締めるほどに、花弁だった砂糖は溶け広がり、夢のような甘さが舌を包み込んだ。
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