9輪 侯爵令嬢の侍女

 カウンターの向こうに立っている女店主が、皇太子に気づいて目をみはった。口を押さえて驚嘆を表す店主を見て、赤毛の侍女も振り返る。髪色と同様に鮮やかな色彩の目が大きく見開かれるのを眺めやり、ジェイデンは口元に得意の微笑を刷いた。


「やはり君だったか」


 ジェイデンが声を発すると、侯爵令嬢の侍女は思い出したように侯爵家仕込みの淑女の礼をとった。


「皇太子殿下に拝謁いたします。それで、あの……なぜこちらに?」


 思いがけない事態への驚きと動揺を隠せない赤毛の侍女に、ジェイデンの中で愉快さが込み上げる。だがそれを面には出さず、優しげに見えるよう目を細めて彼女の隣に立った。


「見覚えのある姿を見つけたから、少し話せないかと思ってね。君はいつもロザリーが連れている侍女殿だろう? 名前は……」

「ミンディです」


 ジェイデンは名前を忘れた振りをして、あえて本人に名乗らせた。それで思い出したという風で、細めていた鳩羽はとば色の目をやや見開く。


「そうだ。ミンディ・グンマイだったね。グンマイ子爵家の。今日は、ロザリーと一緒ではないのかい?」


 本人が口にしなかった情報を添えることで、皇太子が彼女をしっかり記憶していることを周囲へ強調する。名前を呼ばれたことでミンディは頬に朱をのぼらせ、もう一度小さく礼をした。


「わたくしなどを記憶に留めてくださり光栄に存じます。本日は、ロザリーお嬢様のお使いで参りましたので、わたくし一人です」

「そうか。それなら、支払いはわたしがしよう。構わないだろう、店主殿?」


 ジェイデンが人好きする笑顔を振り向ければ、女店主はぎょっとした表情のあとに顔を赤らめて、満面の笑みを返した。


「ええ、ええ! それはもちろん! 皇太子殿下に当店の焼き菓子を買っていただけるなんて、こんなに光栄なことはありません」

「殿下、なりません。ロザリー様に叱られてしまいます」


 あっという間に話が進んだことに焦ったようすで、ミンディがやや身を乗り出して遮った。あたふたとする彼女にジェイデンは視線を戻し、なだめるように軽く肩に手を置いた。


「これくらいで彼女が君を叱りはしない。それで、ロザリーに頼まれているのはどれだい?」


 問いかけに、ミンディが困惑げな眼差しで皇太子を見詰め返す。その大きな瞳は、澄み渡った空色に金の虹彩が輝いていて、まるで蒼天の太陽をそのまま写しとったような鮮麗さだった。


 なんと色彩に愛されている女性かと、ジェイデンは彼女の瞳を見るたび思わずにはいられなかった。


 赤い髪も、青と金の瞳も、純白の額も、ときおり朱に染まる頬も。彼女が生まれながらに持つなにもかもが、まばゆいほど鮮やかな色彩をしている。すべてが褪せたように淡いジェイデンとはまるで対照的なその色合いに、ある種の感嘆を覚える。


 そうして呼び起こされる感情はいつでも、ジェイデンの目を彼女へと引き寄せて放さない効果さえ持っていた。


 蒼天の瞳をジェイデンが正面から見据えると、ミンディは狼狽えたように視線を彷徨わせた。そのまましばらく、当惑と不安で顔を赤くしたり青くしたりせわしなく移ろわせる。やがて彼女は意を決したようにもう一度、瞳にジェイデンを映した。


「薔薇の柄のクッキーを、二箱」


 時間をかけて恐る恐る発せられた答えにジェイデンは満足して相好を崩し、改めて店主へ向き直った。


「では、それと同じものをもう三箱、全部で五箱いただこう。ザック」


 ずっと背後にいたザックが、呼びかけだけで意を察して財布をとり出した。寡黙な侍衛が進み出る間に、店主がカウンター奥の棚から慌ただしく品物を持ってくる。


 手早く会計を済ませて花柄の印刷された箱を五つ抱えたザックは、すぐさまカウンターから離れてジェイデンへ囁いた。


「殿下、人が集まっています。さすがに、これ以上は……」


 言われて振り向けば、店舗正面の陳列窓や入口扉の窓に、びっしりと人の顔がひしめいていた。皇太子が現れた噂を聞きつけた人々が、その姿を少しでも拝もうと押し合いへし合いし、ときに悲鳴まであげている。


 混乱のありさまと滑稽な光景に、ジェイデンは苦笑を堪えられなかった。


「参ったな。ゆっくり話すのは、また機会にお預けのようだ。君の乗ってきた馬車は近くかい?」


 最後の一言はミンディの方を見て言った。殺到する人々へ唖然とした顔を向けていたミンディは、我に返ったように振り向いた。


「はい。馬車は、この一本裏の通りに」

「では、そこまで送ろう。ザック、クッキーをつぶさないようにな」

「……はい」


 あっさりした調子で命じられたザックは、乏しい表情に渋い色を浮かべて箱を持ち直した。


 寡黙な侍衛は先に立って店から出ると、集まる人々に声をかけ、ときに押し分けるようにして人々を下がらせる。そうしてわずかながら道が開かれたと見るや、ジェイデンはミンディの肩に手を添えて足を踏み出した。


「わたしから離れないように」

「えっ、あの――」


 状況に目を白黒させるミンディを引き連れ、ジェイデンは侍衛の背を追うようにロセ・ベーカリーから出た。


 店内からはとんでもなく人が殺到しているように見えたが、ザックの手際もあり、皇太子はどうにか大騒ぎになる前に人混みを抜けることに成功した。集まる視線は変わらず熱いが、人通りの少ない脇道に入ればその熱も少々ましになる。フレディーコ家の馬車も、苦労なく見つけられた。


 馬車に乗り込む際にジェイデンが手を貸せば、ミンディはすっかり恐縮して座席で身を縮めた。背を丸めた彼女の姿が、長身にもかかわらず小動物じみていて、ジェイデンの口角が震える。


 笑いに気づかれぬよう後ろを向いた皇太子は、背後にいたザックの手からクッキーの箱を三つ受けとった――寡黙な侍衛は人混みの中でも、しっかりクッキーを守り抜いていた。


 改めてミンディの方へ体を向けたジェイデンは、半身だけ馬車の中に乗り込むようにして、彼女の手にクッキーの箱を持たせた。膝の上で箱を抱えたミンディは、目をみはって顔を上げた。


「殿下、一つ多いようです」


 ミンディは慌てて一箱を持ち上げて、ジェイデンへと差し出す。けれどジェイデンはそれを彼女の手ごと押し戻し、膝へ置き直させた。


「これは君の分だ」

「わたくしの?」


 困惑するミンディの唇の前に人差し指を立て、ジェイデンは眼差しを細くして笑みにいたずらっぽさを宿した。


「ロザリーには秘密だ」


 さらに目を大きくしたミンディが声を発する前に、ジェイデンは素早く傍を離れた。笑みの種類を爽やかなものへと変え、馬車の外からもう一度ミンディに目を向ける。


「ロザリーに、また会いにきて欲しいと伝えてくれ。それでは、わたしも馬車を待たせているので失礼するよ」

「あ、あの!」


 言葉と共にきびすを返そうとしたジェイデンを、ミンディの慌てた声が呼び止めた。


「――ありがとうございます」


 そう言ったミンディの蒼天の瞳がなぜが泣きそうに潤んでいて、ジェイデンは胸をつかれた。それを今は言葉にはせず、ただ愛しさを込めて目を細める。


 目元を赤く染めるミンディに軽く手を上げて別れの仕草をし、皇太子はその場を離れた。


 急ぎ足で自身の馬車へと戻ったジェイデンは、ロセ・ベーカリーで消費した時間をとり戻すべく、すぐに出発をさせた。


 馬車が動き出し、一息ついたところでふと、向かいに座ったザックの視線に気づく。クッキーの箱を二つ膝に乗せた侍衛は、少し眇めた目でこちらを見ていた。


「なにか言いたそうだな」

「いいえ。ただ――」


 ザックはクッキーの箱へと視線を落とすように、オリーブの瞳を伏せた。


「ケイレブが不憫だな、と」


 ぼそりと呟く声でザックが言い、ジェイデンは噴き出した。


 ジェイデンとロザリーの目論見は、ザックにはいっさい伝えていない。だが、この寡黙な侍衛はおそらく、おおよそのところを感じとっている。


 正直、かなり察しのいいザックに隠しごとをするのは、侯爵令嬢の相手よりも難しい、というのがジェイデンの認識だった。それでも彼がそれを吹聴して回ったり、脅しに使ったりする人物ではないことを承知しているからこそ、傍に置いている。むしろ彼のその聡さが、皇太子の武器として働くことも少なくない。


 もう一人の侍衛にもその半分くらいの聡さがあればと内心で考えつつ、ジェイデンはザックの手から箱を一つとり上げた。


 繊細な小花柄の蓋を開けば、砂糖細工で華やかに飾られたクッキーが数枚入っていた。着色した砂糖で花弁の一枚一枚まで丁寧に描かれた薔薇の柄がたいへんに鮮やかで、確かに女性が好みそうな代物しろものだ。


 ものは試しと一つ摘まみ上げてかじれば、やや固めに焼かれたクッキーの香ばしさのあとに、粉糖のまったりとした甘さが広がった。舌に纏わるようなその甘ったるさに、ジェイデンはちょっと口の端を歪めた。


「味は、ロザリーの方が上だな」


 あの侯爵令嬢の手製菓子を美味しいと感じるのは、味覚の好みを把握されているだけの可能性が非常に高いが。


 どのみち、ロセ・ベーカリーに行くことは二度とあるまい。行く価値もない。ただ、皇太子が気まぐれに一度購入しただけのことを売りに利用される前に、なんらかの手回しはするつもりでいる。営業妨害のようなあくどいことはしないが、皇太子の名前と肩書きをわずかたりとも使わせる気はなかった。


 その程度には、ジェイデンは店主に対して憤りを覚えていた。

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