8輪 初めてのお使い

 ノヴァーリス皇国の貴族の多くは、皇都ラガーフェルドに街屋敷を持っている。しかし彼らは――皇宮で役職を持つ者をのぞいて――一年の内のほとんどを各々の領地で暮らしている。そういった貴族たちの街屋敷は普段、雇われ管理人に預けられており、当のあるじは皇宮での行事や議会へ参加する際にのみ滞在するものだった。


 ヘルツアス侯爵邸もまた例外ではなく、現在、家長は領地に戻っており不在だ。ただし、長女ロザリーと、その身の回りの世話をする侍女や少数の使用人だけを残して。


 朝日が差す自室の書きもの机に向かい、ロザリーは手紙の封を切った。内容に素早く目を通し、ふと笑みを漏らす。手紙の差出人は、皇太子の侍衛だ。


 彼は、間違いなくロザリーからの願いを実行してくれている。それは胸躍るような愉悦と共に、小さなときめきをロザリーにもたらすものだった。


 ロザリーが街屋敷に残っているのは、新春の宴で所持していた皇后の首飾りに関する聴取や調査への協力のため、というのが元々の名目だ。けれども、首飾りの調査そのものが終わった段階で本来なら領地に戻るところ、父侯爵の指示により引き続きラガーフェルドに滞在していた――侯爵は、皇太子とロザリーの婚約を諦めていないのだ。少しでも復縁の機会を増やすために、二人をできるだけ傍に置こうとしている。


 侯爵の思惑は、ロザリーにとって好都合だった。いずれにせよ、なんらかの理由をつけてラガーフェルド滞在は引き延ばすつもりだったのだから。間違っても、皇太子との復縁のためではないが。


 ロザリーがもう一度、今度はじっくりと筆跡を辿るように手紙を眺めていると、部屋の扉が控えめに叩かれた。手紙を伏せて返事をすれば、「失礼します」という声と共に、赤毛を緩く波打たせた侍女ミンディが一礼をして入ってくる。


「ロザリー様、朝食のご用意ができました」

「ありがとう。今、行くわ」


 ロザリーの答えに、ミンディはもう一度お辞儀をして承知を示し、きびすを返した。


「待って、ミンディ」


 制止の声にミンディが振り返る間に、手紙を机の抽斗ひきだしに仕舞って立ち上がる。扉の前で主人の言葉を待つ侍女に向き直り、こちらを真っ直ぐに見詰める大きな瞳へロザリーはほほ笑みかけた。


「少し、お使いを頼めるかしら」




 ❃




 皇太子ジェイデン・ネムロノーサのこの日の公務は、皇立美術館の企画展の視察だった。


 展示物の多くは、皇室の所蔵品だ。それらの配置や展示方法、とり扱いなどを確認しつつ、館内設備や来館者のようすなどについて館長や学芸員に聴きとりをするのが主な目的だ。状況に応じて、新たな設備投資や収蔵品の購入、修繕、研究費などの予算の上奏もおこなっていく。


 仕事内容だけ見れば、適当な官に任せても問題はない。それをあえて皇太子がおこなうことによって、間違いなく皇室所有の施設であるアピールになる。さらに、皇太子の動向として新聞に記事にさせることで来館者を呼び込む広報活動としても大きく寄与していた。


 長い長い館長との話を適当に切り上げて、ジェイデンはどうにか定刻通りに馬車を出発させた。馬車が美術館の門を出たところで、ようやく息をつく。向かいに座った侍衛のザック・ランザンが、ごく低い声でそれをねぎらう。


「お疲れ様でした」

「まったくだ。あの館長の話は放っておくと永遠に終わらない」


 苦笑する皇太子に対し、ザックはわずかだけ頷いた。


 ザックの表情の乏しさは、刈り上げた暗色の髪と濃いオリーブ色の瞳も相まって、見ようによっては陰気に映る。しかし信を置く侍衛とのやりとりとしては十分であったし、美術館長と長く話したあとのジェイデンにとってはむしろ気楽だった――ちなみにもう一人の侍衛は別の仕事を言いつけて皇宮に残しているので、今回の公務には同行していない。


 規則的な馬車の振動に身を任せるように、ジェイデンは座席の背に深くもたれた。


 そのとき、ふと見やった車窓の向こうに長い人の列を見つけた。

 美術館からほど近い主道沿いに、その列は伸びていた。


 さて、この辺りはなにがあったろうか。


 と、考えて眺めれば、並んでいる顔ぶれは女性が多いようだ。そこは大きな陳列窓に商品を彩りよく飾った店舗が並ぶ一角で、列の先はその内の一店舗に繋がっているようだった。漆喰の壁に掲げられた『ロセ・ベーカリー』の店名を見やり、そういえばつい最近に新しい焼き菓子店が開店した話を聞いたのを、ジェイデンは思い出した。


 確か、ブッシュ地方北部の町で人気を博した焼き菓子店が、ラガーフェルドに出店したのだ。その評判と、新店舗の物珍しさから、人が集まっているのだろう。


 そんなことをぼんやりと考えながら、ロセ・ベーカリーの前を通過したときだった。

 列の前の方に並ぶ者の中に赤い色彩を見つけて、ジェイデンは座席から背を浮かせた。


「馬車を止めろ」


 無意識に呟く声音で言ったジェイデンに、ザックが怪訝な顔をした。


「どうかなさいましたか」

「いいから止めろ」


 素早く繰り返した皇太子に気圧され、ザックは小窓から御者へ声をかけた。路肩に寄った馬車が完全に動きを止める。ジェイデンは侍衛の手を待つことなく、自ら扉を開いて馬車から滑り出た。


 突然の皇太子の登場に仰天する人々の視線を気にもかけず、ジェイデンは長髪を翻して白い舗道を歩き出す。その後を、慌てて馬車から飛び降りたザックが追いかけた。


「どうなさったんですか、急に」


 ザックが珍しく焦りを見せて声を大きくしたが、ジェイデンは答えなかった。ただ目的地に向けて、優雅さを失わないまま大股に歩みを進める。つい先ほど馬車で通り過ぎたロセ・ベーカリーまで引き返したところで、足を止めた。


 颯爽と現れた美貌の皇太子に、店先に並んでいた女性たちが驚きと歓喜の黄色い叫声をあげた。興奮を見せる彼女らを前に、侍衛がすかさず皇太子を守れる位置へ立つ。


 その合間を縫ってジェイデンは視線を巡らせた。列の中に目的の人物が見当たらないと分かると、対外用の甘い笑顔の威力によって女性たちに列の先頭を譲らせる。


 よろめくように退いた女性と入れ替わりに入口扉の前へ立ったジェイデンは、そこにとりつけられた格子窓から店内を覗き込んだ。


 案の定、中の木製カウンターの前に緩く波打つ赤毛が鮮やかな後ろ姿があった。その髪色と、女性としては一つ抜けた高さのある長身を、見間違えるはずもない――よく知る侯爵令嬢の侍女だ。カウンター越しに、店主と思しき年嵩の女性と向き合い、なにごとが話し込んでいる。


 ジェイデンは踊るような心持ちで、入口扉を引いた。

 すると、焼き菓子の甘い香りと共に、わめくような若い女性の声が外まで漏れてきた。


「売れないって、どういうことですか」


 どこか悲痛さの宿った声に、ジェイデンは笑みを引っ込めた。これは――、と彼が考える間に、続いて別の女性の声が聞こえた。


「売れないものは売れない。それ以上の意味はないわ」


 店主のものと思われる声は、厳しい口調で突っぱねた。それでも若い方の女声は、負けじと食い下がっていく。


「そんなはずありません。クッキーはまだこんなに――」

「あなたに売れるものはない、と言っているの」

「どうしてですか。わたくしはただ、お嬢様のお使いで買いにきただけです。このお店にくるのも、あなたにお会いしたのも初めてです。わたくしがなにをしたと言うのですか」

「それなら、そのお嬢様が直接買いにくるように言うのね。悪いけれど、うちにはに売れるような粗悪なものは扱ってないの。他のお客様をお待たせしてるから、早く出ていって」


 店主の言葉に赤毛の侍女が息をのんだのが、後ろ姿からでも分かった。


 直後、ジェイデンは店内に踏み込んでいた。

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