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はじめに断っておく。
私こと氷上海子は探偵ではない。ましてや「名探偵」など以ての外だ。
私はただの小説家で、ついでに言うと、書いているジャンルも
トリックを考えたことも無ければ、推理をしたことも無いし、もちろん事件を解決したことなんか一度たりとも無いのだ。自発的には。
だが、世間は私のことを「名探偵」などと称して持て囃す。
そんな誤解が生まれたのには理由がある。
自覚していても抗えない理由が。
「さあ氷上先生! 華麗なる推理をお見せしましょう!」
千堂さんが高々に宣言する。全員の視線がこちらに集中する。
「え!? 氷上ってあの静寂探偵氷上海子!?」
「あの小学生みたいなのが?」
「『海鳴荘殺人事件』や『寝台特急はすかっぷ連続殺人事件』『噴火湾クルーズ船殺人事件』を解決したあの氷上海子!?」
「ガチ名探偵じゃん!」
「まさかこのタイミングで現れてくれるとは!」
全員の視線が私に集中する。
首から下のあらゆる汗腺からじんわりと汗が滲むのを感じる。
「どの氷上海子だよ!」とか「せめて中学生にしてくれ」とか「勝手に私が解決したことにするな!」とか「ガチでも名でも探偵でもないです!」とか「現れたんじゃなくてそちらが巻き込んできたんでしょ!」とか反論したい。でも、出来ない。
「あれ? でも今日の予約に『氷上海子』なんて名前は無かったけど……『本郷海子』さんじゃないのその人?」
このペンションのオーナー——下山さんが首を傾げる。
「……そうか、偽名か! 普段から正体を隠しているとはさすが名探偵!」
下山さんはぽんと手を叩いた。
ただの本名である。
『氷上海子』が結婚して『本郷海子』になっただけの話だ。
ペンネームは旧姓のままにしているだけだ。
誤解がより一層深まるのを私は暗澹たる思いで眺めていた。どれもこれも私が一言添えれば簡単にわかってもらえるのに。
しかし私はそれをしない。出来ないのだ。
私は何故か2人以上の視線を感じると声が出なくなるのだ。
こうなったのには何かきっかけがあったわけじゃない。物心ついたときからこうなのだ。
「静寂探偵」なんてよくわからない異名が付いてしまったのも、この体質が原因だ。
「さあ先生! 今日もバシッと事件を解決しましょう!」
千堂さんが喜色満面の笑みで私を半ば強引に部屋の中へ連れて行く。
彼女とは、彼女が入社して以来、つまり2年くらいの付き合いになる。彼女は私の体質について認知しているはずだが、いまだに私のことを名探偵だと誤解している。何回も説明してるのだが。
部屋に入ると死体が目に入った。ひいっ、と声が出せるなら出していたであろう。私は反射的に顔を両手で覆う。
両手の隙間を少しずつ開いて、ゆっくりと視界に部屋の様子を入れる。小太りの男——雨沢が、右手だけ挙手しているような格好でうつ伏せに倒れていた。
死体はいつまで経っても見慣れない。不気味の谷を転げ落ちた元・生命体はただただ恐怖感だけを掻き立ててくる。
後ろをちらりと見る。全員の視線がこちらに集まっている。息が、苦しい。このまま逃げたいが、探偵っぽいことをしないと怒られそうな気がするので、部屋を一通り調べるっぽい動きをする。
まず部屋全体を見回した。部屋の半分を占めるベッドと小さなデスクが置かれている。そんなに広くはない。私が借りている居室に比べると一回り小さい。一般的なビジネスホテルの最安価の部屋と同じくらいのランクだろうか。
部屋に荒らされた形跡は無かった。
誰もいない部屋との違いは、死体が転がってること、デスクの上にノートパソコン——推理小説と思われるものを入力している画面が見える——が置いてあること、カバンが部屋の角に置いてあることくらいだろうか。
それにしてもこの被害者は随分と変な格好で死んでいる。何故右手を挙げているのだろうか。よく見ると右手の下に何か記号のようなものが見える。確認したいのだが、それをするためには死体に触れなくてはならない。流石にそれは嫌だ。私は千堂さんの目を見る。どうにか察してはくれないか——
「どうしました先生? もしかして雨沢さんの死体から何かを発見したのですか? ……ん? なんですかあの記号は?」
察しが良くて助かる。
千堂さんはカバンからニトリル手袋を取り出して手にはめる。静かな手つきで雨沢の右手をそっと浮かせた。
「これはなんですかね……?」
『▲』
雨沢の右手の下には血で描かれたと思われる三角形が描かれていた。
出たよ、ダイイングメッセージだ。
私は思う、「直接犯人の名前を書いちゃいけないのだろうか」、と。
私はこの場にいる面子の名前を思い出す。
相川、田浦、包下、英……オーナーも含めると下山さんもか。
▲、三角、さんかく、トライアングル。
勿論、そこから犯人の名前を導き出せるわけはない(何故なら私は探偵ではないからだ)。
「先生、雨沢さんの死因はおそらく頭部への打撃です。後頭部に殴打痕がありました。死亡推定時刻はおそらく21時から21時30分の間かと」
「おいおい、なんであんたが勝手に検死してるんだよ」
相川が千堂さんに詰め寄る。
「なんでって……私にはアリバイがありますし、医学部卒だからですよ」
「え……医師免許持ちの癖に出版社に就職したのか……?」
それは私もずっと疑問である。
「医師になる以上に出版に携わる仕事が魅力的だと思ったからですよ。そんなことより、相川さんは死亡推定時刻に何をなさっていたのですか?」
「俺はその時間はずっとあかりと陽菜と部屋にいたっつーの! それを言ったら21時から風呂に入りに行った陽菜だって怪しいんじゃねえのか!」
田浦の語気が尻上がりに強くなる。
陽菜……包下はわざとらしく肩を竦める。
「私は1階の浴場に入る前に下山さんと田浦くんと顔を合わせてるわ。それに、食堂の位置からだと1階の廊下が丸見えだから、もし私が雨沢くんの部屋に入ったら2人のうちどちらかは気がつくんじゃないかしら?」
下山さんはおもむろに頷く。
「確かに、私達がチェスをしている間、雨沢くんの部屋には誰も出入りしていないし、雨沢さんと包下さんと氷上先生以外は誰も廊下を歩いていなかったよ」
「それは僕からも保証するよ」
田浦も追随する。
「雨沢に関しても、20時50分にここに氷を取りに来たのを最後に、部屋から出入りするところは見ていない」
全員が黙り込んでしまった。推理が、停滞している。
私は原稿のことで頭が一杯だった。被害者には申し訳ないとは思ってはいるが、私の本分はそっちなのだ。
鳩が10回鳴いた。もう10時になってしまったのか。
「ここで一旦状況を整理しましょう」
田浦がカバンからA3サイズほどのホワイトボードを取り出した。いや、そんなもの、何のために持ってきたんだ。
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