一章:北に心残りあり

第1話 奈良岡寿

 二〇二〇年八月。


 僕は、自室で大学生向けの求人サイトを見ていた。

 東京は今日で二十二日連続の熱帯夜だが、エアコンをよく効かせた室内なら関係ない。ベッドに寝転びながらスマホに指を滑らせる。


 営業、販売、事務管理、技術者、IT系、金融、保険、企画、サービス、福祉。こんなにもたくさんの仕事があるのに、何一つピンとこない。

 芸能マネージメント、映像制作アシスタント、演劇スタジオスタッフ、イベントデザイン。東京はこの手の求人も目立つ。

 総合職よりは興味をそそられるけれど、僕にそんな芸術的センスないしな、と詳細を見ることなく流していく。


 同級生の中には大学三年の今のうちから、合同説明会や就活セミナーなどのイベントに積極的に参加している人たちも少なくない。将来のビジョンが具体的に描けている人は、すでにインターンをはじめたり、そうでなくても秋からのインターン先に目星をつけ始めたりしているらしい。

 それなのに僕ときたら、未だにぼんやりとしたままで、完全に就活の波に乗り遅れた。


 やりたいことを仕事に出来る人なんてほんの一握りだろうし、そもそも夢や目標なんてもの自体僕にはない。

 ノルマとかサービス残業がなくて、給料はそんなになくても良いから休日がしっかり取れるところがいいな。出世はしたくないから、あまりガツガツしてなさそうなところで。やりがいのある仕事とかは求めてない。体育会系な感じも苦手だ。年齢層はなるべく若い人が多い会社がいい。五、六十代のひとたちとは感覚のずれが大きいだろうし、話も長そうだからちょっと嫌だな。飲み会とかもない方が良い。

 そんな会社があれば応募してみても良いかな、と思いながらも、そんな会社あるわけないよな、とも思っている。


 やりたいことは見当たらないくせに、やりたくないことは次から次へと出てきてキリがない。

 もはや求人情報は、ただ眺めているだけで何の意味もない文字の羅列になっていた。


 小さくため息を吐き、僕はスマホを枕の横に置いた。

 ……ゲームでもするか? そういえば今日はログインボーナスを受け取っただけで、ミッションを消化していない。特別熱中しているわけではないけれど、暇つぶし程度に続けているスマホゲームがある。

 他にやることもないしな、と再びスマホに手を伸ばしたとき、階段の下から「晋太朗! ちょっといいか?」と僕を呼ぶ父さんの声がした。

 珍しいなと思いながら「ん、今行く」と返し、ベッドから体を起こす。


 部屋のドアを開けると、熱くて湿気のある空気がもわっとまとわりついてくる。ウンザリとするこの空気が部屋に入らないよう、しっかりとドアを閉めて階段を降りリビングへ向かった。

 階段を降りた正面で視界に入る玄関に、じいちゃんの靴があることに気付いた。


 電車で十五分位離れたところに住んでいるじいちゃんは、今年八十二歳とは思えない程元気で若々しい。

 じいちゃんの年齢を知らない人に写真を見せて「いくつに見える?」と尋ねれば、ほとんどの人が七十代と答えるだろう。もしかしたら、六十代後半なんて答える人もいるかもしれない。

 お世辞ではなく、本当に若く見えるのだ。


 白髪の量は年相応に見えるけれど、全体的にふさふさと元気よく生えている豊富な髪の毛が若々しい印象を持たせているのだろうか。

 出歩くときは杖もつかずに、背筋を真っ直ぐに伸ばして歩いている。

 身だしなみにも気を遣っているのか、独り暮らしなのに衣服はきちんと手入れされていて清潔感がある。もちろん家の中もよく整理されている。

 週に一度はヘルパーさんに来てもらっているらしいが頼むことといえば、増えると重くて自分では持てなくなる古新聞や古雑誌の整理、高いところの掃除、米や調味料の買い出しの付き添いなどだという。


 僕は祖父母のことが大好きだったので、小さい頃は週末になるとしょっちゅう遊びに行っていた。

 その頃に比べれば当然耳は遠くなっているし、歩くペースは遅くなっている。体も全体的に小さくなったように思う。

 それでもじいちゃんは今もあの頃と変わらず、優しくて元気でいてくれている。僕はそれが嬉しい。


 ドアを開けリビングに入ると正面にある一人掛けのソファーに座るじいちゃんが「おぉ晋太朗、久しぶりだな! 元気にしてたか?」と、目尻のしわをさらに増やしながら笑顔を見せる。

 年始の挨拶ぶりに会うじいちゃんは変わらず元気だった。会いに行こうと思えばいつでも行ける距離に住んでいるのに、昔に比べて会う頻度はかなり少なくなっていた。

 それでも年に二、三回は必ず会うから、僕はあまり"久しぶり”という感じはしない。


「うん、元気だよ。じいちゃんも変わりない?」

「あぁ。何とか元気でやってるわ」

「そう、良かった」

 僕は、長テーブルを挟んでじいちゃんが座るソファーに向き合う形で置かれている一人掛けのソファーに座った。

 コの字型に配置されたソファーの真ん中は二人掛けで、父さんと母さんが並んで座っている。今から皆で食事という感じでもないし、なぜ呼ばれたのか分からないまま座っていると父さんが早速本題を切り出した。


「晋太朗、突然だが一つ父さんから頼みがあるんだ」

「頼み?」

 父さんが僕に頼み事なんて珍しい。それも、じいちゃんがいる前で? 一体、僕は今から何を頼まれるというんだ? 頼むから面倒なことは頼まないでくれよ、と心の中で頼み込んだ。

 頼みごとをされる側が、心の中では先に頼み込むなんておかしな状況ではあるが。


 父さんは少し困った表情を浮かべながら「じいちゃんが北海道に行くって言うんだ。……来週」と言った。

「来週? 随分急だね」

「前から考えてたんだ。元気なうちに一度北海道に行こうってな」

「そうなんだ。でもなんで北海道なの?」

「なんでって、北海道はじいちゃんの故郷だからな。死ぬ前に生まれた土地を見ておきたいんだ」


 眉をハの字にして聞き手に回る父さんとは対照的に、淡々と答えるじいちゃんからは旅行を楽しみにしている様子がうかがえる。

 そういえば、じいちゃんは北海道で生まれたと聞いたことがある。しかし、三十代の頃東京に来て以降はずっとこっちで暮らしているから、僕の父さんは生まれも育ちも東京だ。もちろん僕も。北海道には一度も行ったことすらない。


「良いじゃん、旅行。夏の北海道は涼しそうだし」

「この歳じゃ、北海道の冬の寒さには耐えられないかもしれないからなぁ。行くなら夏が良い」

 じいちゃんの言っていることはよく分かる。

 北海道の雪の多さや寒さは、きっと僕の想像を凌駕するだろう。そんな環境に、いくら健康体だからと言っても齢八十を超えた老人が行くのは心配だ。

 いくらじいちゃんが若々しいと言っても、老体であることには変わりない。雪道で滑って転んで怪我でもしたら一大事だ。

 だけど、夏ならそれらのリスクを回避できる。問題ないじゃないか。


「父さんは何が心配なの?」

「北海道旅行、じいちゃんって言うんだよ」

「……え?」

 僕はすっかり同行者のことが頭から抜けていた。


 友人の中には、時間がある大学生のうちに日本一周するんだ、と自転車で旅に出たやつがいる。高校を卒業して一年間お金を貯めて、海外でバックパッカーをしているやつだっている。

 彼らがSNSに投稿する旅の様子を定期的に目にしているからか、一人旅というものはごく普通のことのように思えていたのだが、じいちゃんが一人で旅行に行くとなれば話は別だ。父さんが心配するのも無理はない。

 もしも、旅先で何かあったらどうするのか。ツアーコンダクター不在で、慣れない土地を無事に巡れるのか。

 大体僕はスマホなしでの旅行なんて考えられない。不安すぎる。じいちゃんはガラケーだけでどうやって乗り切るつもりなのだろう。


「え、一人? 本当に一人で行くの?」

「そのつもりなんだが、まことが反対するんだ」

「そりゃそうだよ! それは僕も父さんに同意見だね。じいちゃんたった一人で旅行なんて、普通に心配でしょ」

 僕が賛同したことに安心したのか、父さんが小さくうなずく。その隣で母さんも同じようにうなずく。

 どうやら父さんの頼み事は、一緒にじいちゃんを説得することのようだ。

 それならお安い御用だ。じいちゃんには悪いけれど、旅行を諦めてくれるようお願いしてみよう。


 ……そう思っていたのだけれど、じいちゃんの説得は既に父さんが試みたらしく、しかも惨敗を喫したらしい。

 今さら僕が参戦したところで戦力にはならないのは明白だった。

 じいちゃんの意思の硬さにギブアップ寸前の父さんは、ならば、と最後の手段として僕を投入した。説得役ではなく、として。


「晋太朗。お前、じいちゃんの北海道旅行についてってやってくれ」

「……はい?」

「悪いな、晋太朗」

 僕の返事を待たず、僕が旅に同行することが既に決まっていたかのような空気に包まれる。

 いやいやいや! いくらなんでも急すぎる! いきなり北海道に行くって言われても困るよ! 旅費だってそんなに出せないし!

 僕は突然の出来事に驚き、断る理由を急いで探した。

 しかし、それらはどれもうまく機能しなかった。


「旅行は来週の月曜から金曜までの予定なんだが、晋太朗、予定は空いてるか?」

「まぁ、空いてるけど」

 就活もバイトもしていない夏休み中の大学生なんて、退屈を持て余しているに決まっている。趣味も無ければ恋人もいない僕ならなおさらだ。

 いや、一応大学近くの居酒屋でバイトはしているのだが、夏休みは稼ぎたい学生が多いらしくシフトが埋まっていると聞いたので、三週間ほど休みをもらっていたのだ。

 その時は「就活するのにちょうどいいな」なんて思っていたのだが、実際はとくに何もせず、こうして暇を持て余している。


「予定は空いてるけど僕そんな貯金ないよ? 北海道旅行ってどれくらいかかるの?」

「そんな心配はしなくて大丈夫だ! 急に誘っておいて晋太朗にお金を出させる訳ないだろう。じいちゃんに任せなさい」

「えぇ、それは悪いよ」

「孫と旅行なんて、したくてもできない人がほとんどだ。じいちゃんは晋太朗が一緒に来てくれたらそれだけで嬉しいし心強い。喜んでスポンサーになるさ」

 そう言ったじいちゃんは本当に嬉しそうな顔をしていた。

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