第3話 お使い
それはトールがショールームの床で「落とし物」を拾った日からひと月以上経った日のことだった。
彼は小さなアクセサリーのことを忘れていなかった。当然だ。彼は「忘れる」などしない。データが消失すれば別だが、それはもはや重大なアクシデントだ。
だが、「忘れたふり」ならできる。
そう、彼は移転の忙しさに紛れて忘れたふりをしていた。
マスターに尋ねることもしなければ、アカシやライオットにも話さなかった。ポケットから取り出すことさえしなかった。
そう、トールは店主に尋ねなかった。つまり、落とし物のことも話さなかった。店主も訊かなかった。たとえば「落とし物の問い合わせがあったが見なかったか」というような嘘もないまま、月日は過ぎた。
よって、かのピアスの片割れは、そのままトールの手元にあった。
どうしてマスターに言わなかったのか。おそらく、「マスターが知られたくない来客について自分が気づいた」ことをマスターに知らせるべきではないと判断したのだろう、と考えた。
数日の間に「そう言えば、こんなものが落ちていました」と、いつ落ちていたか判らないふりで渡せば、問題はなかったかもしれない。だがタイミングを逸した。
もとより、マスターが「いつ見つけたの?」と彼に問えば、ごまかすことは難しかったかもしれない。このまま、忘れたふりをするのがいちばんだ。
彼はそう考えていた。
だから弟たちにも、何も。
「トール、ちょっといいかな」
「マスター」
奥から現れた店主の声に、トールはそちらを向いた。
「何か依頼はあった?」
「ミスタ・ローランドがステッパーの配合を変えてみたいと。〈リリー〉の仕様書ともども、データを送ってくださいました」
「そうか。見ておこう」
「それから、初めてのお客様で、ニューエイジロイドの修理依頼です。パターンAの基本的な不具合のようでしたので、ライオットに回しました」
「うん、有難う」
「今日はいまのところ、それだけです」
「いまは空いているということだね」
「ええ、幸か不幸か」
トールは肩をすくめた。
「じゃあ、お使いをしてくれるかな」
「お使いですって?」
「〈レッド・パープル〉のサラに届け物」
店主は手にしていたペンのような形状の記憶媒体をトールに差し出した。
「住所は判るね」
「はい」
うなずいてトールはそれを受け取り、首をかしげた。
「何ですか?」
「彼女に頼まれたプログラムだ。ネットワークで本体を送るのは怖いからね、解除のキーだけ送る。中身は君が届けてくれ。必ず彼女に手渡しを」
「判りました」
重要な仕事だ、とトールは姿勢を正した。内容は判らないが、ネットワークに載せる危険を冒したくないということなのだから、一般的なものではないのだろう。
個人のプライベートが堅く守られる一方、ネットワーク・スパイも数多く存在した。〈クレイフィザ〉を狙うスパイもいないだろうが〈レッド・パープル〉は有り得ることだし、たまたまランダムにのぞかれて、ということも絶対にないとは言えない。
本体データと解除キーを異なる通信手段で送る方法も充分な警戒になる。だが、敢えて人手を使うというのも、強い防衛手段のひとつだった。
「何時頃という約束はありますか?」
「いや、特にない。慌てなくていいよ」
「判りました」
トールは繰り返し、こくりとうなずいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます