さよなら、ひーちゃん
伊藤祐真
さよなら、ひーちゃん
「そろそろ吹奏楽部が終わります」
音楽室と繋がっている楽器倉庫室では、着替えとメイクを終えたバンドメンバーが緊張をほぐすように思い思いの行動をしていた。
倉庫を行ったり来たりしながら、器用にこれからコピーする曲のギターフレーズを軽快に弾いている葵さん。ぼんやりとパイプ椅子に腰掛けてスマートフォンでSNSを観ているの穂花さんは、葵さんと違ってまだギターをケースから取り出してもいない。流石にエフェクターの準備は……それすらしてない!
「穂花さん、そろそろ準備してください」
「う〜ん。……え!? 次!?」
「いや、次は合唱部です。その次」
「あぁ、なんだ。まぁわかった」
まだ始めない。でも、まぁ穂花さんは大丈夫。
ドラムでリーダーの瑞希さんは、彼女の幼馴染でヴォーカルの凛さんの発声練習に付き合っている。ウォーミングアップというより、筋トレ系のトレーニングに見えるのは私だけだろうか。首周り、喉周辺をマッサージしている。さっきは背中周りのストレッチに付き合っていた。凛さんは先ほどから「もう大丈夫」と言い続けているが、瑞希さんが「そんなんじゃダメ」と聞く耳を持たず、凛さんは本番を前に疲弊しそうだった。まぁあれはあれで戯れあっている様なものだとわかっているからそれでいい。瑞希さんによる凛の追い込みが強くなりすぎると、必ず葵さんが止めてくれる。当事者三人を含め、メンバー全員がわかっている。
私はメンバーの準備の状態を確認すると、部屋の隅に置かれた自分のベースの確認に入る。といってもすでにこれでもかと言うほど準備は済ませてあるので、そのベースをただ見つめているだけのように見えるだろうな。
ベースという楽器と奏者を生まれて始めて生で観た、その時みたいに。
ただ、見つめているだけ。
今、私が所属している高校の軽音楽部は女子生徒が五人しか所属しておらず、それが一つのバンドだ。バンド名は特にない。私だけが一年後輩。先輩達が作った部活だから、その上もいない。当時は穂花さんがベースをやっていたそうだけど、一年前―――つまり私の入学時、の新入生歓迎会で瑞希さんが「どうしてもギターが二本必要な曲」を書いてきてしまって、穂花さんがギターに転向。ベースが不在になった。
私が初めてベースを観たのが、そのステージだ。
講堂のステージでセッティングをする五人のメンバーに、ずいぶん大人びた人がいると思った。
「続いて、今日のために急遽メンバーになってくれました! オンベース! ひーちゃん先生!」
一曲目が終わり、新入生がそのバンドが鳴らした激しい音楽の余韻に浸っている時、凛さんによるMCで、その大人びた人が先生だと知らされた。
「本田さん! ひーちゃん先生って呼ばないの! あ、はい。音楽の教員をしています。濱口仁美です。新入生の皆さん、決してひーちゃん先生と呼ばないでくださいね。この学校は芸術科目が音楽・美術・書道からの選択なので―――」
「えー、続いての曲は」
「ちょっと! この宣伝が参加条件でしょ!? 皆さん、ぜひ音楽とってもらって、私と授業しましょう!」
凛さんとの軽快な掛け合いは新入生の笑いを取り、当たり前のように新入生も彼女をひーちゃん先生と呼ぶようになったし、「友達みたいな距離感の若い先生」として認知されるようになった。
しかし、私だけは違った。そんな可愛らしいポジションに彼女を置いておける学校中の生徒が信じられなかった。
肩まで伸びたサラリとした黒髪。凛さんと掛け合いをして笑っている時は可愛らしいが、ベースを弾いている時の鋭い眼光。黒いベースのネックを上下に行き来する手つき。客席から見ていてもわかる長い指。照明と激しい動きによって、汗ばんだ肌。黒一色で決めたドレッシーな衣装。
そのどれをとっても、美しかった。見惚れてしまった。胸が踊った。
私はすぐに軽音楽部に入った。しかし、入ってから知ったがひーちゃん先生は軽音楽部ではなく吹奏楽部の顧問で、趣味でベースをやっていたから参加しただけだという。しかも歓迎会での宣伝効果は軽音楽部ではなく、ひーちゃん先生に集まったようで、新入部員は私だけ。さらに希望者が多かった選択音楽は抽選に漏れて、美術を取る羽目になった。
それでも出来るだけひーちゃん先生に近付きたくて必死にベースを練習した。教員というのは様々なメディアで言われている通り忙しいらしく、放課後や昼休みに図々しく「ベース教えてください」とは言い出しづらかった。
それでも軽音楽部の活動は楽しかったし、たまに機材のやり取りのために音楽室に行けるだけでもいいやと思い始めた頃、ひーちゃん先生の方から話しかけられた。
「ベース、頑張ってるよね。あの日、頑張った甲斐があったなぁ。もし良かったら練習、見させてくれない?」
あいさつ程度しかしてこなかった憧れの相手に話しかけられただけでも心臓が暴れ回ってしかたないのに、練習を見てくれるって? そんな嬉しい事があっていいの?
「で、でも仁美先生、吹部で忙しいですよね?」
「そんな感じで、いつも気ぃ使ってくれてたよね。あいさつの度に向けられるあなたの熱視線に気付いてないと思ったぁ?」
今度は暴れ回っていた心臓をハンマーで叩かれたような衝撃が走る。バレてた? というか、そんな視線送ってた?
「それに、女子で仁美先生って呼んでくれるのあなただけ。みーんな、ひーちゃん先生なんだもん。そんな風に新歓の話をちゃんと聞いてくれて軽音楽部に入った生徒、ほっとけないよ?」
ごめんなさい、心の中ではひーちゃん先生って呼んでます。なんというかその、ステージのあなたに憧れすぎて、そんな風に呼びかけるのはおこがましいというか。
「あ、ありがとうございます。じゃあ、さっそく軽音の部室にベース取りに―――」
「あ、ごめんなさい。今から職員会議なの。そういう意味じゃなくて、毎週木曜の放課後なら吹部は合奏ないし、私の身体が開くからどう? もし塾とか行ってたら残念だけど―――」
「毎週!? ですか!?」
「そりゃそうでしょう。一日でどうこうなんて話じゃないよ、楽器は」
ハンマーで殴られた心臓は、とうとうふわふわと空に舞い上がっていきそうだった。
「よ、よろしくお願いします!」
ひーちゃん先生は安心したように「よかった」と笑った。私がそのリアクションに不思議がってるとわかると、クスクスと笑って、実はね、と付け足し始める。
「新歓以降、ちょっとベース触りたくなってたんだ」
ニッと笑った彼女の笑顔は、みんなから愛される先生の表情であり、その奥には私が憧れた美しいベーシストの表情を隠し持っていた。
そこからほぼ毎週、音楽準備室に通ってひーちゃん先生のベースレッスンが始まった。軽音楽部の先輩達に事情を話すと「よかったね! ひーちゃん先生がウチの顧問じゃないって知った時の落ち込みようったらなかったもんね!」と自分のことのように喜んでくれた。瑞穂さんだけはリーダー然として「巧くなってこいよ」としっかりとつけたしてくれた。
レッスンを通して、変わったことがふたつあった。
一つ目は、ベースがはっきりと楽しく、そして上達していったこと。
今までは部活は楽しかったが、先輩達と遊んでいるという感覚が強く、ベースが上手くなったから楽しいという感覚は―――そりゃ出来なかったことが出来るようになる人並みの楽しさはあったが、さほど感じられていなかった。
だけどひーちゃん先生は、指の動かし方やリズムキープの基礎練習をしながら、雑談まじりにベースの役割、様々なバンドのベーシストの特徴、引いてはロック史まで広げて話してくれて、その時間が本当に楽しかった。その先達のベーシストの背中に、自分の指が、四本の弦を通じて触れる瞬間、私は言いようもない快感に打ちひしがれる。もちろん、その先達のベーシストの中には有名ロックスター以外にも、ひーちゃん先生が含まれるのは言うまでもない。
二つ目は、心の中でもひーちゃん先生と呼ばなくなった事だ。
「ステージでの彼女に強く憧れ、おこがましくて呼べない」。私はそう思っていたはずだった。しかし、その憧れの形が変化していると気付いたのは、彼女が私の背中に回ってバックハグのような形で運指の説明をしている時だった。
「そう、人差し指がフレットに対して出来るだけ水平になるように。わかる? 見てて?」
彼女の髪から漂う蜂蜜とミルクが混ざったようなシャンプーの匂いが鼻先を撫で、解説が届くようにゆっくりとトーンを落とした柔らかな声が耳元をかすめる。
「こう。……うーん、まだ指が広がらないかな? ちょっと指、引っ張るよ?」
指先から伝わる体温と、私の指の股をグイと伸ばす心地よい痛み。
「ちょっとでも暇な時は指の柔軟をするといいよ。あ、授業中はダメだよ?」
笑いかけてきてくれた彼女の顔を直視することが出来なかった。
私の憧れは、尊敬とか、推しとか、そういうのではなくなってしまった。だからひーちゃん先生なんていう、ちょっとからかった名前は、心の中ですら呼べない。
私は、仁美先生に恋をしていた。
「次の一曲で合唱部も終わりです。皆さん、準備を」
私がメンバーに声をかける。葵さんは「いつでも行けるよーん」と気の抜けた返事をしながらも、普段から最終調整で行っているペンタトニックのスケール練習に切り替える。穂花さんは全く慌てずにチューニングをしている。
瑞希さんは、凛さんの喉がギリギリになるまで本調子にならなかった事を責めている。
「私、加湿器も貸して、のど飴も渡してるよね? 間に合ったから良いようなものの」
「間に合ったんだからいいじゃん。大体、部屋に加湿器二台も三台も置いたら教科書カビちゃうよ」
幼馴染同士の二人がヒートアップしそうになっているのを見て、私が仲裁に入れないものかとオロオロとしていると、葵さんが私の頭をポンと撫でてから二人に近付いていた。
その後、葵さんの口から何かを伝えられた二人は、互いに口を尖らせて納得したように小さく頷き合っていた。あの二人の喧嘩は葵さんしか止められない。あるいは葵さんがいなかったとしても、どちらかの頭に「葵がいたら」という考えが過ぎると、どちらからともなく謝る。よかった。こんな日に喧嘩した状態でステージに上がる事なんて出来るわけがない。もちろん、そんな事は起きないとわかっていたが。
スタンドからベースを取り、ストラップを肩に通す。
メンバーは最終チェックと言わんばかりに互いの衣装の装飾の位置の調整を始める。
「ネクタイ、曲がってる」
穂花さんが、寄ってきて私の真っ黒いナロータイを直してくれた。
「この結び目のところのチョーカー、カッコいいね。シャツのレースもさりげなくて良い」
「ありがとうございます。穂花さんもハット、最高に決まってますよ」
私たちは皆、光沢のあるブラックスーツで決めていた。これからコピーするバンドは、デビュー当時はドレッシーで女性的な装いをする事が多かった。グラマラスロックやヘビーメタルの日本での再発展系。だったら私達は男装にしようじゃないか、という瑞穂さんの意見で、こうなった。
「喪服っぽくならないようにね」とメンバー一のオシャレさんである葵さんが言い続けたので、それぞれが思い思いに装飾品に気を遣っている。
瑞穂さんが「さぁ」と声をかけたので、彼女を中心にメンバーが集まる。
「今日は、ひーちゃん先生が好きな曲で、ちゃんとひーちゃん先生を送ってあげよう」
リーダーとしての瑞穂さんの言葉に、それぞれが力強く頷く。
「だいぶ上達してきたよね」
そう言って、私に笑顔を向けてきてくれた仁美先生を思い出す。あれはクリスマスを目の前にした週のことだった。
私はその言葉をきっかけに、このレッスンが突然終わってしまうような雰囲気に怯えながら、そんなことにはならないように「まだまだですよ」と返し、帰り支度を進めていた。
「そう言えるってことはまだまだ上達するってことだ。軽音楽部もきっとまだまだ伸びる」
「私、裏方でもいいんで、また先生と先輩達の演奏聴きたいな」
「とりあえず瑞穂ちゃんと凛ちゃん、なんとかしなって」
私はそれもそうですね、と笑った。現在、幼馴染コンビは長い喧嘩中。葵さんが取り持とうにも、そもそも凛さんが部室に来ないほどこじれているので、それも叶わない。
「さぁ、帰ろっか。もう暗くなっちゃったね。あ、雪降ってる! やだぁ、タイヤ変えてない。電車で帰るかぁ」
「危なーい。ウチの親、秋には変えてましたよ? ……あ、じゃ、じゃあ! 駅まで、駅まで一緒に帰りませんか?」
私はふってわいたようなチャンスを、必死に掴みにいった。ベースの練習は楽しい。仁美先生と一緒にいる時間は嬉しい。歳の差とか、立場とか、性別とか、別に告白するんじゃないんだから関係ない。別に自分をアピールするチャンスだなんて思っていない。嬉しい時間を延ばすチャンスだ。
「うん、いいよ」
私の気持ちを知る由もない仁美先生は通勤カバンを肩にかけて、マフラーを首に巻き付けて笑いかけてくれた。
隣に並んだ時、そのちょっと派手すぎるくらいな紅に染まったマフラーからはオリエンタルなお香の匂いがした。
どこか遠くの、私の知らない場所。
そんな場所に仁美先生がいってしまうと知っていたら、もっとなりふり構わず先生と一緒にいようとしたのかな?
結局、先輩達と仁美先生のステージは二度と観る事はできなくなってしまった。
私はネガティヴな思いを振り払って音楽室へと繋がる敷居を、メンバーの最後尾で跨ぐ。
拍手で迎えられ、私達は教室前方のステージへと上がる。凛さんは楽器を持たないヴォーカリストなので、私達がセッティングをしている間、軽いMCをする。私は肩にかけたベースと、ステージに置かれたアンプを手に持ったシールドケーブルで繋ぎ、セッティングに集中する。集中するふりをして、客席を見ないようにしていた。
「私達はひーちゃん先生に大変お世話になりました。新入生歓迎会、ここにいる一年は観てくれたよね。あれで新入生が入ったし、その子のベースのレッスンもしてくれたお陰で、私達は成長しました。―――ね?」
MCが不自然な途切れ方をして、話が私に振られていると気付く。え、私、喋るの? と思いながらも、コーラスマイクに顔を近づける。
「はい。私のベースは仁美先生のレッスンの賜物です」
節目がちにしようとしたが、客席の方を見る羽目になった。
穏やかな表情の仁美先生が私に向けてサムズアップをしてくる。
あぁ、やっぱり大好きだなと思う。リズムキープが出来ていない鼓動が、ライブ直前の緊張なのか、別れへの悲哀なのか、片思いのピークなのか、わからなくなるくらいに大好きだと、改めて思う。
仁美先生が学校から去ると知らされたのは、三学期の終業式。
異動になる先生が壇上に上がり、校長先生が一人一人の紹介をしていくワンシーン。
壇上に登る仁美先生を見つけた時点で私の目の前は真っ白になって、涙を堪えるのに必死だった。結束の強い女子バレー部の顧問もそこにいたので、啜り泣く音も聞こえていた。
もしかしたらそこに私の音も混ざっていたかもしれないけど、今となってはわからない。
「―――藤本先生は南高への転任なので、練習試合とかで会う人もいるかも知れませんね。えー、最後に音楽の濱口先生。濱口先生は、残念なが―――いや、そんな言い方はよくないか。と言うのもご結婚されて、教職をお辞めになります。……濱口先生、あれも言っていいんだよね? うん。えー、退職後はサイパンに移住されて、ご主じ、いや、配偶者の方とレストランをやられるそうです」
校長先生の紹介が、無神経にも次々と鼓膜に突き刺さってくる。このたった数秒の間にインフルエンザにでも罹ったんじゃないかと思うくらい、頭に熱が帯びていくのが実感できた。
そうなんだ。そうだよね。公立高校の先生なんだから、私が卒業するまで在籍しているかなんてわかんなかったし、私も卒業しちゃうわけで。その別れが早まっただけ。先生が登壇した時はそう思おうとしていた。けど校長の説明を聞いたら、もう無理だった。
先生を辞めちゃう。結婚しちゃう。どこか遠くへ行ってしまう。
仁美先生は音楽にまつわる全ての部活と交流があった。顧問をしている吹奏楽部はもちろん、合唱部、ギターマンドリン部、クラブミュージック研究会、そして私たち軽音楽部。その代表達が集まって、『ひーちゃん先生お見送り会』をしようと決まったのは、なんと終業式終了から、わずか四分後の事だった。
それだけ先生は皆に慕われている。
私達は先生の好きなバンドの楽曲を二曲仕上げる事にした。退廃的な世界観の多いヴィジュアル系と呼ばれるジャンル。その祖となる伝説的なバンド。それは結婚祝いを兼ねる会ではどうだろうという話も出たが、やっぱり先生のために彼らの曲をやる事にした。
先生が選んだ人は、先生の隣の特等席に座って、まるで自分の子供の発表会を観に来ているみたいにニコニコと笑っていた。学校という場に相応わしく、それでいてオシャレな細身のジャケットの胸には来客用のネームホルダーがある。なんだかそれが、仁美先生に認められた人に送られる、特別な招待状みたいに見えた。
「ひーちゃん先生、大志さん、ご結婚おめでとうございます。ご結婚される二人に贈るには、ずいぶん悲しい曲ですが聴いてください」
凛さんはMCを区切ると共に、原曲のバンドの名と、「憧れ」を意味するタイトルを言った。
はっきり言って結婚とは真反対にある曲だが、先生はそんな事は気にしていないみたい。待ってました! みたいに、社交辞令を通り越した興奮した様子の拍手を送ってくれた。
この曲は今の私の気持ちを綺麗に歌い切ってくれていて、曲を作ったロックスターに心から感謝した。この曲も、このバンドも、そして仁美先生がこの曲が好きだと言うことも、私が毎週のレッスンで教わったことだった。
もう一曲は同じバンドのすっごい激しい曲をやった。耽美的なバラードと、破滅的なロック。このバンドの真骨頂を、一曲ずつ。
激しい曲の間はベースのネックを見るのに必死で、客席を見る余裕なんてなかった。けど後に凛さんから聞いた話がとっても誇らしくて、くすぐったくて―――。
「ひーちゃん先生、ずっとベース見てたよ! もう、エアで同じフレーズ弾いちゃってさ」
そして、やっぱり悲しかった。
会が終わっても先生と二人で喋れる瞬間なんてこなかった。出来ることなら参加者全員がそうしたいと思っているはずなのだから、しょうがない。
というか、それでだらだらと長いお別れをしないように、生徒全員で先生と大志さんを音楽室から見送って、あとは片付けに入る。
廊下を曲がり切るまで手を振り続けてくれたのが、私の網膜に映る先生の最後の姿だろう。そう思って、しっかりと見送った。涙を流している場合じゃない、と必死で我慢した。
片付けをしていると男装ジャケットの胸ポケットに入れていたスマホが震えた。画面を見ると先生からのラインだった。
『皆に内緒で来客用駐車場に来て』。
部室に行ってくると言って音楽室を抜け出し、駐車場に行くと、先生と大志さんが待っていた。先生の車は見た事があるが、違う車種の前で談笑していたので、おそらく大志さんの車だろう。
「ごめんね。呼び出しちゃって」
階段を駆け降りて、廊下を走って、大急ぎでやってきた。まだ春は遠く、風は冷たいが、皮膚は汗ばんでいた。これは身体を動かしたからか、それとも最後の最後に先生に会えた喜びからかはわからない。
息を整えながらも、まっすぐ先生を見つめる。最後に「何か」を伝えるチャンスが巡ってきた。
「これ、あなたにあげようと思って」と言って、車のトランクからベースのケースを取り出す。中を確認しなくたってわかる。レッスンをつけてもらっていた時、先生が大事そうに、愛おしそうに抱えていた真っ黒いボディに二本のラインが入ったエレキベースだ。先生が高校の頃、見様見真似でラッカー塗装したと、笑いながら話してくれた事がある。
「ちょ、これは……受け取れませんよ」
「ううん。使って。使ってほしいの」
先生は真っ直ぐ私の目を見て、グイとケースを渡してくる。その勢いに押されて、思わず受け取ってしまう。
「……ありがとうございます。……あの、仁美先生。私、ずっと仁美先生に言いたかった事が―――!」
もう最後。最後なんだ。退職? 結婚? サイパン? そのどの要素をとっても、高校生の私にとっては、途方もなく遠い場所であるのは揺るがない。だから、勢いをつけて言葉を絞り出す。
「ちょっと待って。……たいちゃん。これ」
グシャグシャのくちゃくちゃになった私の目をみた先生は何かを察したらしく、大志さんに車の鍵を渡した。大志さんも何も言わず、うやうやしくイヤホンを装着しながら運転席へと向かった。
「……どうぞ。なに? 言いたかった事って」
風になびいた長い髪を耳にかけながら、私の言葉をじっと待ってくれている。
なに? 言いたかった事って。
わからない。ベースを教えてくれてありがとう。軽音メンバーに気遣ってくれてありがとう。大好きでした。大志さんの元へ行かないで。お幸せに。ゆっくりしてください。実は好きになる前は一度でいいからひーちゃんって呼んでみたかった。
でも絶対に言わなきゃいけないこともある。さよなら、だ。
全部伝えてたら、きっとグダグダになっちゃう。それはわかってる。
「ひーちゃん先生、って呼んでいいですか?」
そんなこと? という表情で、くすぐったそうに笑う。
「いいよ。でももう先生じゃなくなっちゃった」
「じゃあ。ひーちゃん」
私は全てが始まったあの日の事を思い出す。あの日がなければ、ベースも、バンドも、恋心も、失恋も、何も知れないままだった。
「ひーちゃん。―――ステージで輝いててくれて、ありがとうございました」
さよなら、ひーちゃん。
―――了
さよなら、ひーちゃん 伊藤祐真 @ito_lily_yuma
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