第12話 アクシデントと必然と
カヤックが終わる頃、川のほとりでヨシトが待っていた。あの黒い人じゃなくヨシトが待っていた。
「じゃあ、お願いします。私は船に帰るかな」
「え、一緒に行くんじゃないの?」
「馬鹿な…何が悲しくてデートの邪魔が出来るのよ」
「デ、デートって違うでしょ。それじゃ…私も行けないよ」
依子が駄々をこねる。
「行けるわけがないじゃない。私は人見知りだよ。人間が苦手だよ。初めて会った人に何話すんだよ」
「人間って…」
矢継ぎ早に、依子にしては俊敏に、佐和子に詰め寄る。依子が困って焦っている。それに手ごたえを感じて益々佐和子はワクワクする。
「あのね。私は満天の星には興味がないの。ここは先に帰って一っ風呂浴びてビールでも飲んで午後の時間を楽しむのよ。あなたには船に帰っても予定は無いでしょ。なら有意義な時間をここで過ごしなさい」
「大丈夫、僕、後で船まで送るから」
「え?」
色白の好青年が清々しい顔でそう言う。まさか下心なんて無いだろう。そう考える自分の不純さに後ろめたさを感じて断れない。待って待ってと心で叫びながら車に乗ってしまった。
「店に母親がいるから安心して、そんなに不安がることもないと思うよ」
そう言って爽やかに笑った。馬鹿にしている?慣れてるんだろうか?こうなると小娘みたいに騒いで拒むのも恥ずかしい。
観光客相手に…よくあるシチュエーションなのか?依子の頭の中にはわかんない周波数の小さな音が繰り返し鳴って、判断するとか、理解するとか、そう言う機能がどこかに飛んでしまった。
「あの、満天の星って…」
ようやく、初期設定に戻る。そう、そういう話だった。
「僕、小さなプラネタリウム持ってるんだ。家の一部を改造して」
「小さなプラネタリウム…。え!偽物」
ギョッとした顔をしてヨシトが振り向く、
「確かに…それはそうだよね。偽物だよね。でも努力のたまものの偽物だよ。かなり精巧な…簡単に満天の星空は手に入らないから」
そう冷静に真面目に答えるヨシトに、結局素直になれた。我ながら失礼な事を言ったと反省もした。
「お邪魔します。すみません」
「いらっしゃい。サンダルのお買い上げありがとうございます。船の見送りに行っていてね。留守にしてました。これ家で作ったレモネード、一息入れてね」
ヨシトのお母さんが、離れまで飲み物を届けてくれた。
「ありがとうございます」
「ゆっくりね。ヨシトのプラネタリウム、子どもたちに評判いいんですよ。楽しんでね」
笑顔の素敵なお母さんだった。島総出で小笠原丸を見送るという温かい風習…日頃の依子には響かないはずなのに、胸がジワッと温かくなる不思議なエモーションを感じた。
ヨシトの小さなプラネタリウムは簡単に偽物と言ってしまうにはとても失礼な複雑で、高性能なものだった。星が大好きな依子にはこの上ない。たとえ偽物だとしても…
でも、部屋を真っ暗にしないと見えないことや、そのために部屋を締め切って暗幕を張り巡らすことまでは範疇になかった。昼間に夜空を再現するんだから…仕方ない。
恥ずかしながら小娘の依子は…やはり抵抗を感じずにはいられない。
新手のナンパか?でも、よりによって依子を?この世で一番ナンパからほど遠い依子を選んだマニアックさが理解できない。そんな不安をよそにヨシトは懐中電灯でピンポイントに光を当てて一つ一つの星を説明し始めた。
「あれが夏の大三角形。まだ少し早いけど、もう少ししたら本格的な夏になる。琴座のベガと鷲座のアルタイルと白鳥座のデネブ。その間に流れる天の川が綺麗だろ」
詳しい。かなりな天体オタク…?
「よくご存知なんですね」
美しい星たちが依子に、会話という奇跡を与えた。
「ほんとは天体観測の仕事したかったんだよね。今は趣味で良かったと思ってるんだけど…まあ、仕事に生かせるしね」
「仕事に?」
「細かい仕事に、集中力だけは必要。何にもない島だから他ごとに時間とられることは無いけど…」
「集中力は必要。なんでも作り出すには」
「だよね。その点ここは最高!」
「……」
「東京じゃ、気が散らない誘惑が多くて」
「そうでも…ない…」
その後、沈黙が続いてさすがの依子も耐えられなくなった。
「私、去年リミットを超えたんです。病院の先生から子供産んじゃいけないって言われてて、もう…25までに生み上げろって、リミットがあったわけね。去年超えたからもう駄目だって、仕事に生きてる。
佐和子は今年の冬に失恋して、凄い落ち込んで、二人ともかなり参ってたんだよね。…それで二人で旅行。こんな遠い島まで来たよって…」
言ってしまった後、なんでこんな話しちゃったんだろうと、しまったと思った。
「なんで子供産んじゃいけないの?」
「ああ、足が悪いの。負担がかかるから早いとこ、成長期の間に生まないといけないって言われてて、リミットが25」
「じゃあ26になるんだね」
「そうそう…」
「子供欲しいの?25と26の間に何が有るんだ?」
「いや、欲しいとか、考えてないんだけど、結婚って子供のこと考えないで出来ないって思ってる。子供を産める可能性は必要よ。だからタイムリミット超えたなって」
「結婚の?」
「いや、出産の…あ〜まずい。こんな話しなくて良かった」
「はは、もう遅いよ。聞いちゃったよ。もういっぱい飲む」
「いいです。もう…船に帰らないと」
「まだ大丈夫だよ。便あるし、無くなったら家の船で送れるし」
「うちの船?」
「親父は漁師だから」
「あら、お父さん漁師さん?だっけ」
「うん継いで欲しかったと思うよ。一人息子だから…でも船に酔うの。致命的でしょ」
「へ~小笠原に住んでて船に酔うんだ」
依子が遠慮なくカラカラ笑った。
「そんなに可笑しい?」
「だって~私も酔ったんです。往きの船で何回も生死の境を彷徨って、もう二度と乗りたくない。でも、乗らないと帰れないから…またあの悪夢が繰り返されたらどうなるかって…そのくらいの地獄を見た船酔いでした」
「じゃあ、帰らないで此処にいれば良い」
「はあ~また冗談ばっかり」
そう言った瞬間、二人は見つめ合って。依子はヨシトに抱きすくめられて…何が何だか分からなくなった。
そういう…奇跡に近い間違いが起こるなんて予想できるはずもなく、依子は呆然と何も考えられなくなって、ショックが大き過ぎて、ヨシトの満天の星の下で動けず、引きこもり状態になった。
『名前もろくに知らない人とこんなことになるなんて…』
涙が滲んで、さめざめと泣いた。無くしかない。不可抗力とはいえもう26の大人だ。不甲斐ない自分が悲しかった。
声を殺して落ち込んで泣く依子に声をかけることもできず。ヨシトは手を離して途方に暮れた。
「ごめん。ゲンちゃんまずいことになった」
と、真壁に電話した。
「まずいことって、まさかお前、彼女に…おいおい。どうする。あのお姉さんにどやされるぞ」
「でも、部屋から引きずり出すわけにもいかないから。ほんとごめん」
「明日一日だろここにいられるの。どうするんだよ」
「帰らなくてもいいって言ったんだ。本気で、ずっと居て良いって思ってる」
「まさか…なにそれ」
「一目惚れってやつかな…よくわからないけど、そんなこと現実にあるのかな」
と、好人は途方に暮れた。
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