第13話 タイムリミット
駆け付けた佐和子がヨシトに殴り掛かりそうになった。日頃何かに付けて面白がってるけど本気で頼りないなりに、自分の事を世間知らずの依子の保護者だと思っている。こんなところで依子に悲しい思いをさせる男がいたなんて、佐和子にも想像できないことだった。
「なに、それ、見抜けなかった私が馬鹿だったってこと。どうしてくれるのよ」
「馬鹿って、こいつ一目惚れしたんだって、このままここに居て欲しいって思ってるって」
「何言ってるのよ。そんな訳にいかないでしょ。血迷ってないで帰らないと、明日は船が出るのよ」
「すみません。でも、こんなことでも無いと依子さん引き留められないから」
「引き止める?馬鹿じゃないの。私達は旅行で来てるのよ。引き止めるなんて簡単に言わないでよ。そうよ馬鹿はそっちよ。
依子、依子、早く出てきなさい。思う壺にはまってここから帰れなくなるよ。あんたは私の大事な人なんだから置いていけないんだからね」
部屋の中からはすすり泣く声も途絶えて、依子の気配も感じられなかった。
「まったく、源氏物語の世界か…わけがわからない」
真壁さんはバカバカしくなってお手上げだよとソファーに座り込んだ。
「大人なんだから、僕一人が悪いってことはないと思う」
「好人」
不安そうに好人をたしなめるお母さんの声が聞こえる。
「盗人猛々しい。黙ってて、依子、依子、あんたは悪くない。絶対悪くない。私が軽率だったんだ。こんな目に合わせるなんて」
「それは可笑しくない。僕一人が悪いって無いなそれ」
「おい黙れ、ここはお前が悪いって事にしないと収まらないだろう」
「先輩までそんなこと言うんですか。同意とは言わない。それこそ事故だとしても、逃げることはできたと思う」
「逃げる。こんな狭い空間で締め切って暗幕引いて拘束したわけでしょ。あんたね、ほんと信じられない。
依子、依子、帰ろう。馬鹿相手にしないで毅然としなさい。毅然と」
「拘束って…可笑しいだろう」
ヨシトが頭を抱えた。自分が起こしたであろうバタバタ劇に耐えられなくなって息を潜めていた依子が顔を上げた。そしてスクっと立ち上がった。
「別に…誰が悪いって思ってない。動けなかっただけ」
「大丈夫。大したことじゃないって思いなさい。とにかく帰ろう」
「送るよ。もう船無いし」
「結構です。こっちで何とかします」
「すみません。ごめんなさい大騒ぎになって…」
依子がそばでオロオロしていたヨシトの母親らしき人に挨拶した。
「依子さん。僕、真面目に本気で此処にいればって言ったんだから、いい加減な気持ちじゃないからね」
「…」
「うるさい。その言葉が救いになるとでも思ってるの」
睨みつける佐和子の勢いに誰も手を出すことはできなかった。
佐和子に抱えられてヨシトの家を出る。
「大丈夫。今日はどっかに泊まるか…とんだことになって、はあ~」
「…曇ってるね」
「はあ?」
「空、雲ってるね」
「あんたの心も曇ってる?」
「ううん、びっくりしただけ、初めてだったから、あんな近い距離で男の人と居たの。憧れの満天の星の下だったのに…凄い手の混んだ偽物だったけど」
「悪かったね。偽物にひょいひょいと乗っかってさ。真っ昼間に見られる満天の星に釣られるなんて、私も見る目がなかったのさ」
「ううん、良い人だった。ヨシトって良い人って書くのかな」
「なに言ってるの。馬鹿な奴の話は止めて」
「馬鹿じゃないって、びっくりしただけ。免疫無いから」
「わかる、わかる。依子じゃナンパされた経験もないだろうしね」
「此処に残ってもいいかな~って思ったのも本当。一瞬、事実が、わけわかんなくなってね」
曇った空を見上げて二人はため息をついた。
夢のような小笠原の旅が、現実味が濃すぎてため息しか出なかった。
「さ、旅館探そ!」
「うん…」
佐和子は多くを聞かなかった。依子を傷つけたくなかった。せっかくの小笠原旅行を残念なものにしたくなかった。
夕暮れ迫ってからの旅館探しはどうしたもんかと焦りはあったが、船着き場のそばのマーケットで話をしたら簡単に見つかった。取るものもとりあえず旅館に入って、汗ばんだ体を湯船に沈めた。
小さなペンション。家風呂みたいな小さな湯船。和室を洋間に改装したみたいな梁の跡が、ペンキの刷毛跡が依子の情けない気持ちとリンクして、しみじみ情けないなと落ち込ませる。でも、それでも、思い出すのは優しいヨシトの顔ばかりだった。
「そんなに悪い奴じゃない。良いとこいっぱいある気がしたんだ」
小笠原の夜はそのまま雨になった。シトシトと瓦を濡らす音がする。肝心な日なのに雨続き。私かな依子かな、どっちかが雨女だなと佐和子はそう思った。
夜がまだ明けやらぬ時刻に旅館にヨシトがやってきた。朝を待って居られない程悩んだ末に出かけてきたらしい。
「へ?何で此処が解ったの?」
「マーケットのおばさんが教えてくれた」
顔は優しいが、逃さない決意のようなものが漲っていた。
口止めしとくんだったと自分の配慮の足り無さにがっかりした佐和子は、顔も見ず、そそくさとヨシトをかわして依子を隠そうとした。
「これ、忘れ物」
ヨシトの差し出したトロピカルなイラストが描かれた袋には、あの、サンダルが入っていた。
「少し話したいんだけど」
ヨシトの弱々しい声に佐和子がキッと反応する。
「…」
「話すことなんて何もないわよ!ねえ」
「…」
頼りない依子が優柔不断な顔を佐和子に向ける。
「なによ…その顔、ええ、私が悪者じゃない。それじゃあ。なにも邪魔する気は無いわよ。話があるならどうぞ」
半分怒った顔で佐和子が顔をそむける。
先に向きを変えて歩き出したヨシトから二、三歩遅れて依子がついて行く。
「…」
保護者づらした自分が馬鹿だったかもと反省し、佐和子はうつむいて、焦る気持ちを抑えて黙った。
「曇ってるけど海まで行く。帰るにしてももう少し話しがしたかった」
「…」
依子は戸惑っていた。自分がどうしたいのか見つけるすべもない。今まで一度も味わったことのない感情に面食らって消極的な自分が怯えていた。
「昨日はごめん。どう考えてもあれは、焦って、なんでああなったのかよくわからないんだ。わからないなんて失礼だけど、なんかな、衝動的過ぎて説明ができない」
「ご、ごめんなさい。思わせぶりなことしたんだったらあやまります。満天の星がみたいなんて言って、初めから、なんか申し訳なかった」
どう話せば良いのか依子にもわからなかった。
「いや、それは今回の旅の唯一の動機だった訳だし悪いことじゃないし、あやまらなくても…」
埒のあかない話が続く…
「海が真っ暗だな。ここは近くに明かりもなくて静かで、仕事に息詰まった時によく来る秘密の海なんだ」
「東京にこんなところは無いよね」
「ここも東京だよ」
「そうか…東京なのか…」
言葉の少ない依子の精一杯の会話だった。
「あ、あそこ雲が少し割れてきた」
二人で見上げる空が一箇所だけひらけて星空が見える。
「星だ…たくさん…」
「あれがこの空の全部になるよ」
「本物だ。怖いくらいの星空だね」
「そうだな、怖いかもな…」
と言って笑う瞳は無邪気すぎて吸い込まれそうだった。この島には美しいものが限りなくある。優しかったお母さんの心配そうな顔もとても美しかった。
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