第10話 美しき小笠原に到着

 父島に近づくと港からPILOTと船の横腹に書かれた船がやってくる。小さな船で近づきしばらく並走すると、その船から一人のおじさんが飛び移る。この海を熟知している水先案内人。ここからは船長に替わってこの船の舵を取る。

 父島港の桟橋には、大きな客船は接岸できないので父島二見浦に投錨する。海上にぷかぷか浮かんでいる丸いものにロープをかけて船は無事、片道の航海を終えた。船はここで二日間留まってホテルの役割を果たす。目的を持つ者は、ここからテンダーボートに乗り換えて父島に渡る。食事はその都度用意され島で食べても船で食べても構わない。

 

 それぞれ希望のツアーに間に合うように三々五々島に渡り現地で待つスタッフと合流する。二人の一日目のオプショナルはシュノーケリング。船室で水着に着替えて島に渡りテントで飲み物をもらって順番を待っていた。

「お待たせしました。シュノーケリングの方、この車に乗ってください」

 車はグレイのバンで八人くらい乗り込むことが出来る。依子と佐和子と同じオプショナルを選んだ家族三人と、女性が一人。昨日までの曇りが嘘のように明るい一日だった。

「ここでスエットスーツに着替えて船に乗ってください。シュノーケリングのできる場所まで5分くらいで到着です」

 家族づれは初めての小笠原らしい。女性は旅慣れた様子で前に訪れた何処かの国の港の話をしていた。

「依子、あれ!見て!クジラじゃない」

「どこどこ?え〜あれが尾びれ?ほんとだ~」

 尾びれはテレビ画面で見るような見事なお披露目とはいかない。斜めになったり、十分上がってこなかったりして確認するのは難しい。目を凝らして見つけようとする横で、コクジラがジャンプを始めた。何度も何度も大サービスしてくれる。こっちは、疑いようもなくクジラだ。潮を噴き上げながら悠然と浮かんでいる。

 船では大歓声が上がる。『潮を吹いている。確かにクジラだ』依子の感想はそのくらいだった。

「はい、着きましたよ~。ここでエンジンを止めますので、ゆっくりシュノーケリングしてください」

 船の後ろがそのままゆるい坂になって海へのスロープになる。波もない穏やかな海なのに泳げない依子は流されそうで不安だった。佐和子の姿はすでにその辺にない。顔を上げると海の中からにこやかに手を振っている。

 頼れる者のいない不安な状況の中、スエットスーツに浮力があるから大丈夫と言われても思い切って飛び込むことはできない。もちろん綺麗な海は見たいと思う。けれど…今一歩、決心できないでいた。

「この浮き輪に捕まれば、ひもでつながってるから平気だよ!」

 横から大きな声がした。

「スエットスーツだけでも浮力があるから大丈夫だよ。浮き輪を使うと中に潜れなくてよく見えないけど、流される心配はないから」

 真っ黒に陽に焼けた、あの夜の青年だった。

「ああ、やってみます」

 不安を隠せない依子も、もたもたしていると周りに迷惑をかけそうで決意する。ぎこちなく船端へかがみこみ、これが何時振りの海だろうと思いながら、落っこちるように浮き輪の中へ体を滑り込ませた。


 案外冷たい。海の水は冷たいんだ。表面がキラキラ輝いている。浮き輪のせいで体を沈めることはできないけど、中途半端ながら体をフワフワさせて、佐和子の話に相槌を打てるくらいは覗いておこうと海の中を眺めた。

「きれい。やっぱり小笠原の海なんだ」

 変な感想だけれど、正直そう思った。初めて自分の肉眼でサンゴ礁を確認する。トロピカルな海に信じられない色の魚が泳いでいる。海はどこまでも深い、サンゴ礁までどれくらいの距離があるのだろう…

 泳げないって頼りない。浮くと言われても恐ろしくて思い切って潜ることはできない。じたばたと一ヶ所で留まって、何処にも行けない、それでも小笠原の海は最高に綺麗だった。

 しばらくすると体が冷えてきて、依子は船に上がって暖を取った。時間にすれば数分だったかもしれないが依子は満足だった。

「依子、観た。ちゃんと観た?」

「うん、綺麗だった」

「私は重りもらって潜ったの、浮いちゃうんだね、重り無いと」

「へ~凄い。怖くないの。知らない間に流れていきそうで、顔をあげると位置が変わってるんだもん」

「寒い?」

「うん、でも大丈夫」

 温かい飲み物をもらって依子は体を温めた。美しい小笠原の海の上で、ボートにプカプカ揺れながら、こうして沖まで出てきて大きな海を眺めている。人から見たら喜んでいるようには見えないだろうけれど、十分満足だった。

「小笠原初めて?」

「あ、はい。初めてです」

「綺麗でしょ。海の中も、海の上も」

 単純な質問だった。依子でも答えられそうな。なのに返答に困る依子を見て青年は笑った。

「午後はどうするの?」

 この質問に依子は上手く答えられない。替わって佐和子が、

「一度船に戻って食事を済ませて、午後はシーカヤックをする予定です。それとも、どっか美味しいお店ありますか?こっちに」

 と、よどみなく答えた。

「うちのペンションに来る?昼食出せるよ」

「え、お昼?」

「あんまり島らしい料理じゃないけど、何でもあるよ。ハンバーグとか、オムライスとか」

「ハンバーグ、オムライス……」

「面白そう!ねぇ、船に帰らずにこっちで食べよう、良いよね!そうしよ!」

「……」

 依子に反対する理由はない。強いて言えば今日のスケジュールが変わる。くらいの消極的なもの、佐和子の勢いのある言葉で中途半端な反応ながらそうすることになった。

 ここに来てオムライス…悩むのはそこだけど、食べ物に執着の無い依子には結局どっちでも良いことだった。

 島のメインロードをゆるりと、ペンション経営をしながらシュノーケルのイベント船を操る小笠原島民と一緒に歩く。東京では早春だというのに、ここではポカポカと暖かい光。南国らしい木が揺れている。

 店先に並んでいるビーサンの手描きの看板がカラフルで楽しい。

「買おうかな…」

「は?」

「ビーサン、買おうかな。一つ。可愛いよね、貝とかついてるし」

「そう、こういうの好きなの?」

「好きっていうより、記念。小笠原に来ましたよ。って」

「ハハハ…記念なの」

「おかしい?綺麗じゃない。手ごろな値段だし」

「確かにね。綺麗で可愛くて記念になって、値段が手ごろね」

 馬鹿馬鹿しい話をして笑いこける。依子はなんで文句言われるんだろうと思いながら、不審な顔をする。手に取ったビーサンを抱えて店の中に入った。

「御免下さ~い!すみません!」

 返事がない。お店の中はガランとして外のセミの声が響いていた。

「御免下さ〜い!」

 主のいないガラ〜ンとしたお店。手にしたサンダルが寂しそうだ。すると、ようやく、お店の奥からのっそりと色白の青年が顔を出した。

「いらっしゃいませ」

「オウ!おばさんいないの?」

 真っ黒な島民ザ・インストラクターが声をかけた。

「今日は小笠原丸が出るから、見送りに行ってる。どうせ客も来ないし」

「ああ、出港日。

 今日は、桟橋から小笠原丸が出るんですよ。時期的に赴任から帰る人や、担任終わった先生とか、生徒が見送るんです。この時期の船出は感動的だから」

「へえ~お店の人もお見送り…」

「そう、島総出で見送るんです。仕事は忙しいの?たまには昼食べに来いよ」

「めしか…」

「ちゃんと食べないと体壊すぞ、なんでここに住んでてそんな真っ白なんだよ。お前は」

「放っといてくださいよ。人それぞれなんだから」

「あ、あの」

 ビーサンを抱えた依子が困っていた。

「買うの?」

「あ、はい記念に」

「え、記念にしないで履いてね~」

 色の白い青年は、爽やかな笑顔でそう言った。

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