第9話 航海の先

 残念ながらその後も船は揺れ続けた。初っ端の激しさ程では無かったが、天候はいたずらなままずっと回復しなかった。

「このまま雨が降り続くと、満天の星見せてやれないのかな」

 依子のたったひとつの望みも叶えてやれないなんて…佐和子はフル回転しながらも時折そんな事を思った。

 依子は相変わらず部屋に引き篭って寝たり起きたりしている。

 最初にドカンとやって来た船酔いがあまりにも激しかった御蔭で、おかしな度胸がついたのか、もっと酷かったもっと酷かったと比較の世界で踏ん張りながら精神的に負けないで過ごしていた。

 積極的にデッキに上がることは無かったし、人嫌いと自分で言っているのも納得で、当然船のイベントにも参加しない。食事も六食のうち二食くらいするのがやっとだったけれど…奇跡的に楽しそうに生きていた。

 朝の六時、中途半端に目を覚ました依子がお風呂へ行くと『左前方に朝日が見えるよ』とベテランの乗船客が教えてくれた。彼女は前年のクリスマスに乗った時、この時分には日の出が見えたと懐かしそうに話していた。

 この船は常連客が多そうだ。移動する旅行空間と言う特殊な日常を誰もが自分に合った楽しみ方で過ごしている。

 当然ながら…不思議なことに湯船のお湯にも波が立つ。大きな海にお椀を浮かべてその中でピチャピチャ波と戯れながら時を過ごしている小人のようだ。あまり見すぎると酔ってしまうから、飲み込まれないように深呼吸して目を閉じて湯船に頭から浸かった。

「ある意味極楽だよね。船からの景色は何も遮らない海。波しか見えないけどそれが海。朝からお風呂に入ってそれをただひたすら、時間が経つのも考えないで眺めるなんて」

 依子は風呂から戻ると図書室に行ってみた。読みたかった本を何冊か見つけ、ベッドにもぐりこんで読み漁った。やってることは家とさほど変わらない。それでもこれが自分流の洋上での過ごし方だと思うだけでワクワクする気持ちも味わった。

 佐和子は、船に乗ってまで自分の家のように暮らす依子が不憫に感じて不服だったが、あの荒波を乗り越えた依子に文句を言うのも憚れて、好きな様に過ごせばいいさと、ことさらに文句も言わず無関心でいた。

「依子、お昼抜いたでしょう。アフタヌーンティー行かない。ピアノの演奏も聞けるよ。コーヒー飲みながら向こうで本読めば」

 眼だけで反応する。船も今のところ落ち着いて行けそうな気もする。ちょっと考えて重い腰を上げた。

 あのディナーの時、人息れのカオスの中でごった返していたプロムナードも、落ち着いたサロンに様変わりしている。時間が合えば人のいない静かなひとときも楽しめた。外国国籍のクルーは英語なまりの日本語で話しかけてくる。適当にメニューを頼んで到着を待った。

「ケーキ美味しい!サンドイッチも美味しい!」

「良かった。良かった。お気に召して頂けて…依子の幸せはどこにあるのか、彼氏じゃないからあれだけど、あなたの扱いは難しいわ」

「なんで?どこが難しいの?なにもいらないよ。特に贅沢言わないでしょ。あるものを有り難がりますよ」

「それは有り難い。願ってもない。でも、欲求がないのって難しい。何してあげたら良いかわからないもの」

「だからさ、何もしてくれなくて良いって、そう言ってるのに。だいたい彼氏じゃないんだからさ、喜ばせたいって発想がわからないんだな。私に気を遣わなくても大丈夫よ」

「はいはい。お言葉に甘えて楽しませていただいています」

 そう、嫌味のように言う。これだから依子の彼氏はやってられない。甲斐がなさすぎて退屈だ。彼氏になりたいなんて思ってないけど、人は人を喜ばせたいものなんだ。って佐和子は思ってしまうのだ。そして、喜んでくれないとがっかりする。益々嫌な性格だ。押しつけがましくて嫌われる。

 目の前の依子が幸せそうにしててくれないと寂しいのだ。一緒に楽しみたくて誘い出したのだから、自分が寂しいのと同じくらい嫌なのだ。

 これで身を滅ぼす…と佐和子は思う。独りよがりで独善的。そう、私はそうなんだ。

 かたや依子は…何でも受け入れる。体調が良ければたいていのことは受け入れる。これといった好みがないから、どうでもいいことにこだわって苦しんだりしない。

 平和な性格だ。佐和子にとっては若干物足りない。でも、人から幸せにしてやりたいと思ってもらえるなんて、なんて幸運な奴なんだろうと佐和子は羨ましく思っている。本人知ってか知らずか、平然とそこに存在するだけで周りは嬉しいのだ。

 そして、姉のような目線で眺めながらこの子が幸せになれる時が来るのだろうか。と思う。今のまま、絵を描いて、物を作ってそれだけで過ぎていく人生なんだろうか…本人である依子が満足しているのに、お節介にもそう思ってしまう。

 留まることを知らない嫌な性格だ。人の幸せを自分の秤で計るなんて人権蹂躙にもほどが有る。自分が男じゃなくて良かったと、ひょっとして相手を束縛して自分の喜びの餌食にしてしまうかもしれない。と、この時ばかりは本気で反省した佐和子だった。


 船旅はようやく前半、半分の行程を終えようとしている。間もなく小笠原、父島、二見湾に投錨する。



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