第8話 雨の夜

 ディナーの時間を外すとダイニングは閑散としていた。だだっ広いホール、丸テーブルの行列の中央にギラギラと輝く銀のサーバー。その上に盛られ整然と並ぶ、フルーツやおにぎり、サンドイッチが、23時を過ぎていると言うのに驚く品揃えで並んでいた。

 人は数えるほどしかいない、好きな物を自由に取り分けて窓に近い席に運んだ。

「照明も薄暗くてホッとする。昼間の同じ場所とは思えない。あの人数は怪奇現象だよ。この船にあれだけの人が乗る?って驚きの…一生かかっても会えない程の人に今日一日で会ってしまった」

「この先会う人の分まで…通りすがりの人よ、数に入れないで欲しいわ」

 青白い顔に左手を当てて依子がディナーの感想を漏らす。

「食欲ないでしょコーヒーでも飲む?」

「うん」

 すでにこのダイニングは熟知しているのか自由気ままに動く佐和子を目で追いながら、制服を着たこの船の乗務員と談笑する真っ黒に日焼けした海の男に目が留まった。

「あの人ね小笠原でペンションしながらダイビングのインストラクターやってるんだって。この船には小笠原のレクチャーでね。事前講座があったの。照明が当たっても反射しないの。良くあそこまで黒くなったわよね。依子、びっくりして目が点になってるわよ」

「え、そんな…」

 意識もなく人の顔を凝視してしまったなんて…あわててうつ向く。

「なんで知ってるの?」

 依子の前にコーヒーを並べながら質問に答える。

「あんたが生死の間を彷徨ってる間にいろんな催しものがあったのよ。私が部屋に居ない間そこで情報仕入れてたわけ。一緒に話してるのはこの船のキャプテン。船長よ。中年の女性に人気あったわよ~写真撮らせて欲しいってファンに囲まれてた。この船、常連さんも多いみたい。ほら、また寄ってってる」

「え?」

 船長ここにいても船は進むんだ。と心で思う。依子はコーヒーの香りを深く吸って一息入れた。

「佐和子もファンになってインタビューでもお願いしたら?」

「今回はすっかりオフ。仕事はしないわ」

「そうなんだ。佐和子でもそんな時があるんだね」

「まあね。もっとも、楽しむためならどんなことでもするわよ。お腹すいてない。サンドウィッチでも持って来ようか?

 要らない。あ、そう。どう、調子良かったら上に行ってみる。まあ、小雨降ってるけど、空気が気持ちいいかも」

「うん、これ飲んだら行ってみる」

 体力の回復した依子の顔にホッとする。

 デッキに出ると細かい。霧のような雨が、シャワーのように降り注いでいた。ひさしを探して物陰に入ると、辺りが暗くなって、暗いところだけ、雨が降っているのに星が見えた。

「あ~ほら、いくつか星が見える。雨降ってるのに何でかな~」

 依子がこの旅一番嬉しそうに笑った。それは不思議な光景だった。

 霧雨の降る中で、ぽっかり開いた天に星が…輝いていた。


「ここ遊べるようになってるデッキなんだね。床に何か描いてある」

「天気が良いとゲームしたり、デッキがビアホールになったりとかもあるらしいよ。そこ、サービスカウンターだね。今日は…雨だ」

 楽しい事が好きな佐和子が恨めしそうに雨粒を眺めていた。

「依子と知り合ってもう三年?」

「そんなになるかな~日にちを数えるのは苦手だな~今しかないってずっと思ってるから」

「変な子。ほんと変な子。思い出とか無いの?」

「無い。要らない。記憶力が乏しいんだね。何にも覚えてないの。時々フッと浮かぶことはあるよ。たま~に、そういう時はちょっと囚われちゃう。日頃感じない分執着する。でも、またすぐ忘れる」

 依子の頭の中は創造に偏ってるんだと佐和子は理解する。勝手な解釈だったとしても理解できないことが苦手な佐和子にはそうなる理由が必要だから。

「雨の記憶は?」

「雨の記憶…雨の記憶かぁ…あ、黄色いレインコート。小学校の頃学校指定だった。カパカパしたビニールの、六年間着たからさすがに覚えてる」

「レインコートが?学校指定だったの?六年もそれを着たの?黄色いレインコートとは、田舎だね。

 私なんか水玉。それも虹色の、オシャレだったよ。玉が一色一色上にいくほど白く滲んだみたいになってるの。雨の日が待ち遠しかった。そのコート着れるからね」

「雨の日は車に轢かれるといけないって、安全第一なんじゃない」

「はあ、そういうのが良いのかね。芸術を育むのには、どんくさい中で育つと才能が開花するみたいな」

「失礼ね。理数系だって活躍してる人いますよ。全校生徒が同じなわけないよ。それは、考え過ぎじゃない」

「黄色か、嫌いな色。なんでかな?保守的な色?だからかな」

「保守的ではないでしょう。けっこう派手だよ。主張する色じゃない。目立つから、私も苦手だよ」

「でも注意なら黄色。それ一辺倒でしょ。押し付けられたイメージじゃない。派手だと目立つ。依子は嫌い?」

「嫌いじゃないよ。苦手。そこは正しく、色が可哀そう」

「色の肩を持つの。人格無いのに…」

「なんにでも命があります。存在は大切」

 綿菓子みたいな会話だった。依子の考え方が見え隠れする。佐和子はそれを楽しみながらやっぱり来てよかったと思う。依子に無理させたから、罪悪感を感じすぎて、元気になった依子と他愛のない話がしたかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る