第7話 酔い止めの薬

 船が東京湾をすり抜け、外洋に出た途端、残念なことに佐和子の期待に大きく反して船は波に弄ばれ激しく揺れ始めた。大きな船だから、スタビライザーがついているから、揺れないと言う神話はあっけなく崩れて、船内をアナウンスが駆け巡る。

 考えてみれば船体が大きくても小さくても器である海の大きさから考えれば負けは決まっていたはずだ、今さらそれに気がつくなんてどうかしていた…始めから自然にかなうはずなんかないんだ。

 依子はスタビライザー神話を強く否定する。その資格が私にはあると今正に確信しながら…

『まもなく低気圧に突入します。しばらく船は揺れますので、お気を付け下さい』

「低気圧に突入って~え~それ何?しかも普通の声でお気を付け下さいだって!」

 佐和子が悲痛な叫びを一つする。様子見したままの依子は、アナウンスより先に体に伝わる激しい振動に目が泳いで、不安の色がひたひたと体中に滲み渡り始める。

 大きく何度も息をする。冷静になろうと、体の不調を緩和しようと…繰り返し深呼吸して自浄作用を呼び込もうとしても違和感は何も変わることはなくドンヨリ沈んだ気持ちはどす黒く落ち込んでいく。胃が圧迫されておさまりが悪い。再度、何度、深く呼吸をしてみても圧迫感はなくならなかった。

 おかしなところにずれてしまった内臓を元に戻すことが出来ない。体中を武者震いが駆け巡る。息を吸っても吸っても戻ってこない正常な感覚…もはや肺も胃も壊れかけている。

「依子…大丈夫…顔色が悪いよ…ほら、横になりな、まだそれほど揺れてないでしょ。こんなの序の口よ。ここで倒れちゃお終い。気合よ、気合、精神力で何とかならない」

 ならない…声が出ない…元気な佐和子の声が空気中に意味もなく漂っている。

「依子…依子…」

 体を起こしても横になっても、もはや救われる希望など感じられない。願わくばこのまま意識がなくなれと身体に願う。倒れてしまえば楽になる。眠ってしまえばいいんだ。気づいた時には好転しているはず。でも、今のところそういう救いは未来永劫訪れ無いみたいだった。

「ああ…」

「依子…こっちこっち、ここで様子見て」

 一番いい場所を佐和子は譲ってくれた。船の中心に近いソファーの上。多分この船上で二人が考える最善の場所、そこに横たわって死にたい気持ちで目をつぶって、本当にこの難局をやり過ごせるのか、この説明できない気分の悪さはいつか回復する時が来るのか、何時間も続くはずだった。航海はまだまだ始まったばかり…それは長い長い想像を超えた道のり。これ拷問だよね?

 この時すでに、これは効くからと得意げに佐和子から渡された二粒の良い止め薬。乗船前に薬局で買い求めた市販薬。船に乗ると一番に、お守りだと渡された目の覚めるような青い色の酔い止めの薬を飲まされていた。

 船内にある案内カウンターにも、誰でも自由に服用して良い酔い止めの薬が洒落た吹き出しとともに置かれている。船に乗った時それと確認した佐和子は、

「これか…ブログに載ってたやつ。私の分もらっとこ。でも、この薬は効かないってブログに書いてあったから…私はこれでいいけど、多分酔わないからね。依子はこっち、私が薬屋で買った高い薬を飲んで置くと良いわ。わざわざ買った薬の方が絶対効くから、効果抜群なはず。ね!」

 そう言われるまま、何も抵抗せずにミネラルウォーターで流し込んだ。日頃から無理をしない、新しいことに挑戦しない依子には、アクティブな者に備わるはずの自己防衛本能さえも希薄で、誰かが面倒みなきゃ駄目だろうという気にさせる。

 佐和子はかいがいしく依子の世話を焼きながら、これほどの大波にも思った通り気持ち悪くならない自分の気丈さにご満悦だった。

 しかも、依子を看病しながらも船上のイベントにもくまなく顔を出している。自分の目標とする、全てのイベントに参加する。それを着々とこなしているのだ。

 どこかへ出かけては、時折依子の様子を見がてら戻って来る。その度に、

「依子、依子どう、少しは楽になった」

「駄目…せめて…せめて眠りたい…このまま気絶してこん睡したい。なんで意識がはっきりしてるんだろう。最悪…」

 帰って来る度同じ症状の依子に同情する。気丈に頑張るしかココを乗り切る方法は無いと思っている佐和子には依子の辛さは伝わらないだろうな…

「そんなもんなのよ、現実なんて。なまやさしくないのよ。弱者に厳しいのよ。眠れたら楽になれる?そうか、注射打つ?医務室に行けばそういう処置もしてくれるらしいよ」

「え、まさか…それほど酷く酔うってこともあるって知ってた…の。それは、得意のブログ?なんで旅行にきてまで注射しないといけなのよ~」

「それほど酷いこともあるってことよ。でも、いつもより声出てる。依子にしちゃあ上出来」

 とかなんとか訳のわからないことをほざいて時計を確認し、また姿を消す。

はたから見たらそんな事だろうよ…だけど依子にとっては生きるか死ぬかの瀬戸際なんだ。地獄の何丁目かを半分生きてる意識の中、ウツラウツラ彷徨っていた。

 そして…ついに限界点を超えて、求めていた眠りの時がやって来た。

「ああ、私はこれで地獄の拷問から救われる…」

 意識が遠のく…呼吸が依子を意識の向こうへ遠く運ぶ…依子は遂に…苦しみから開放された。

『こんなことなら、夕べ寝ないで映画でも見ればよかったな…今日の事なんて考えもせずお菓子食べて笑ってればよかったのに…

 明日のためになんて、遠足の前みたいに荷物の整理早めにやって寝てしまったのが間違いだった…』



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