第6話 別天地へ風が流れる

 船は横浜の大桟橋を離れようとしている。出航の銅鑼の合図で、港を眺めて楽しんでいた乗客が船端に集まり、クルーから紙テープを受け取る。

 陽気な歌声が甲板に響いている。ここはラテン系の音楽。理由はともかく出航にはこの雰囲気なんだろうな。片手にシャンパングラス。置くところもないまま不器用に紙テープの端を探す。より遠くまで飛ばそうと不器用に踏ん張り、バラバラと紙テープを投げる。

 全力で投げた惜別の塊は視界から外れてあさっての方向に飛び、いくつかのテープは失速し海面に落ちる。ようやく岸壁に着地したテープに誰ともわからぬ者が走って飛びつき、行く筋ものラインが出来上がる。

 そこに感動は無い。無いというより戸惑いの方が大きい。誰ともわからないもの同士が何故こんな紙テープの端と端を握っているのか。無表情の頬に愛想笑いよりわかり難い笑顔を作って依子は手を振る。

 手を振る…区切り…別れは嫌いじゃない。次へのステップは魅力に満ちている。そういう意味で依子は大きく手を振る。すべてから解放される気分になる。その瞬間は思ったより心が躍った。

「さあ、行くよ!小笠原!!」

 こぶしを突き上げる佐和子の表情はここのところの失意から解放されて、晴れ晴れとして見える。依子は、この顔を見れて良かったと満足した。

「元気だね。相変わらず、休みの日でもテンション下げない」

「当たり前よ。出航の時はデッキでセレモニーのお酒を飲む。歓迎のレセプションにテープ投げ。最初から全部ちゃんと参加するからね」

 頼子はテスリに頬杖をついて遠ざかる港の景色を眺めていた。空は曇っている。今日のところは満天の星は望めそうになかった。

「どうした?」

「ううん、何でもない。横浜を海から眺めるの初めてだから…味わってる。このジリジリした感じ、悪くないね。ゆっくりゆっくり離れる…」

「あんたは後ろばっかり見すぎなんだよ。階段を一歩一歩あがるように人間は進歩していかないと。昨日のことは忘れて、ドーンと明日に向かって行くんだよ」

 毒を吐くようにそう話す佐和子が刹那、感傷的になっていた。いつも前を向いている佐和子は、前を向こうと決めているだけなのかもしれない。そんな気がして依子は複雑な気持ちになった。

 手にした味のわからないシャンパンを一口口に含むと少しアルコールの香りがしてやっぱり美味しくない…

ここから先はどんなことが起こるのか。ドキドキしたいと思ってはいない。ただ単純に、過ぎゆく時間に呑気に身を任せたい。

 船の細かな振動や離れ行く港の霞具合に時間を忘れて漂っていたい。時間は一秒を二秒に使ってこそ楽しい。

 なのに…次のイベントに移ろうと横で焦れている佐和子はそうさせてくれそうもなかった。


「依子、食事はドレスコードあるんだから早く着替えなさいよ。ディナーだからね。私、今日のために新調したんだ。どう、ちょっと、これ良くない?」

 佐和子のドレスは無駄に布が多くて、その布がどう重なっているのか理解に苦しむ。これがお洒落って事なんだろうな。うん、似合っている。きっと本気で探したんだろうといつも本気の心意気に感心する。

「はあ、佐和子はスタイル良いからね。なに着ても似合うよ。私は普通のワンピースにした。なかなか着る機会もないだろうから、今後のことも考えて、これなら誘われるかどうかわからないけど、親戚の冠婚葬祭くらいなら着れる。どう?」

 依子のワンピースは、一言でいえば非常にオーソドックスな何の飾り気もない黒の柔らかいワンピースだった。でも、

「うん、似合ってる。あなたらしい」

 そう佐和子は言って、小さなポーチの中からカットボールのネックレスをひとつ取り出して依子にかけた。

「少しくらいお洒落してもいいでしょ。なかなか出来ないフォーマルだからね」

「うん、たまにはね」

 小気味良い。ちゃんとしたお洒落をしてみたい時もある。鏡に映る依子は別人みたいで、そうなったからって変わるとは思えないが、もう一人の自分を楽しんでもいい気にさせた。


 ところが…

 一歩部屋を出てプロムナードに差し掛かると、そこには…ダイニングに向かう人、お土産を眺めて楽しむ人、ここでも提供されるウエルカムドリンクを片手に談笑する人、ありとあらゆる人がそれぞれ勝手な方向を向いて、群れ惑う人の群れは、息苦しい圧力となり頼子は船より先に人に酔ってしまった。人口密度が上がり過ぎて身動きが取れない。

 これまでの人生でこれほど多くの人に接した事があっただろうか。いや接しているわけでもない。同じ場所にたまたま居合わせているだけだ。そこを決死の覚悟で通り抜けて案内された席に着くまで、生きた心地がしなかった。

 この船の乗客人数は想像した以上に多いみたい。その誰もがこの状況を楽しんでいるはずなんかないと疑う眼差しで周りを見渡すと、そこは、船旅を心から楽しもうとする猛者たちであふれ返っていた。

 目を移せば、初老を楽しむ夫婦もいる。何かの記念日にこの船への乗船を決めたのだろうか、時が止まったように感じるその空間に犯し難い優しさを感じる。千載一遇と訪れるそんな自分のポジティブさに依子はホッとする。

 着物を着た若い女性客もいる。旅慣れている雰囲気が満ち溢れている。誰もがこの時とばかり楽しそうに会話していた。

「この船は常連客が多いの?」

「さあ、どうかしら。ここに座れ、これ食べろって指図する下世話な店の常連客と一緒だと、それはそれで面倒くさいよね」

 佐和子のいつも通りの反応に依子は笑った。

「すごいよ。ちゃんとしたコース料理」

 声を落として依子が叫ぶ。

「当たり前でしょ。正装して食べろって言われてるのよ。それに値するものじゃなきゃ駄目でしょ」

 佐和子の答えはいちいち笑える。私もそう思った。と依子もクスクス笑った。


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