第4話 年季あるものに宿る神々しさ

「おはようございます」

 何ヶ月ぶりだろう…新しい企画のために出版社に足を運んだ。時折穴倉から這い出して都会の真ん中に孤独を確かめにやってくる。

 建て替えられてから初めて訪れた社屋。出来立ての匂いに、壁の眩しさに依子は気後れしていた。

「あれ、依子さん。新しくなってから初めてですか?」

「そうみたい。サボってると置いてかれる。時計とかファイル棚とかこの部屋にあったもの全部処分したんですか?」

 目をつぶるとまだそこには、昔のままの企画室が浮かんでくる。

「ああ、そういうの引き取る業者がいるらしいですよ。一括買い上げて、すぐどっかに売っちゃうんじゃないですか。昔は倉庫に保管する事もあったんでしょうけど、今は倉庫代もバカになりませんからね」

「へえ、あの時計、気に入ってたんだけどな」

「時計?…あそこの?」

 辺り、と指さして言う。

「壊れてたんじゃないですか。ずいぶん年代もんだったし、この部屋のものって埃まみれで、相当ポンコツでしたよ」

「……」

 新入社員の軽口に依子は嫌な顔をした。新しいものばかりが良いわけじゃない。時の経ったものはそれだけで存在価値がある。依子は目でそう訴えた。

 恒例の企画の打合せはスムーズに進んだ。依子が担当する挿絵は作家の先生に気に入られていたから特にクレームもない。たまには顔を合わせて意志の疎通を促そうというくらいのもので、問題があるわけではなかった。

 お酒を飲まない依子を接待するのは骨が折れる。便乗して酒席も設けられないし、無口と来て、普通の作家さんと勝手がずいぶん違う。依子には関心のない話ばかり。営業の逆田もいつもピントのズレた話をして笑って欲しそうにする。依子には担当の佐和子がいる。そこの繋りだけで十分だった。

「依子さん。あの時計」

 帰り際、若い社員が後ろから声を掛けてきた。

「ここに行ったらわかるかも知れないって、総務部長が言ってましたよ」

「え?ここ」

「気にしてたから、聞いてみたんですよ。あの後どうなったかなって…意外に近くですよ、そこ」

 前言を撤回しよう。『若いのに使えるじゃん』聞こえるか聞こえないかの声で依子はつぶやいた。


 久しぶりにかかとのある靴で街中を歩いた。リズムを打ちながら歩いている自分に心がぎくしゃくする。光に透ける街路樹が美しく、依子の目を洗う。

 太陽が眩しい…そうか…太陽か…昼間起きていることが珍しい暮らしを、もう何年も送っている。明る過ぎる陽を浴びたら溶けちゃうんじゃないかと、不安になる自分が可笑しくて一人笑いする。


 ギー!

「こんにちはー」

 ぶっきらぼうな依子のあいさつに、これまた愛想のない店主が老眼鏡を下げて上目使いに答える。入りにくい入口の構え。この店がなんの店なのか一見さんにはまず解るまい。

 店内を眺めながらお目当ての時計を探してみる。夥しい古美術品の数々に、すでに何をしにこの店の扉を叩いたのか半分わからなくなっている。判別できない匂いが鼻につく。欲しいと思う人にしか価値の無い骨董品が、所狭しと海のように広がっている。

「何?何か欲しいものがあるの?」

 店主の言葉には依子を受け入れようとする優しさと珍しいものを見る戸惑いが感じられた。

「冷やかしはお断りだけど、まあ、見ようって心意気だけは買うけどさ。あんたはそうでもなさそうだ。うちの店の扉、開けるの、かなり勇気いるらしいからさ」

 店主の言うとおり一見さんには無理な店構え。倉庫なのか店なのか、はたまたなんの商いなのか解ってもらおうなんて意識はすでに放棄している。

「あ、あのう、明文館の社屋解体の時に什器を引き取ったって聞いたんですけど…」

「明文館の什器?…

 あ、あれ、ずいぶんなるね。良いもんはなかったけど、味わいのあるものはあったね。まあ、そんで引き取った訳だけど、ちょっと待ってな」

 そう言って体をよじって分厚い資料を手元に寄せた。

「う〜ん、港の三番倉庫だな。ちょっと行ってみるか…まあ、客もいないし、

 おーい!ちょっと出かけてくるぞ。あ、車回すから、表な、五分くらいで着くよ」

 そういう店主の勢いにたじろぎながらも無言で従った。確かめたい気持ちも無いわけじゃない。依子に行く気がなくても、この際、断るのも難しかった。


 車で二分走るともう港の景色になる。そこから人気のない道を進んで、ペンキの禿げ落ちた恐ろしいような倉庫群に入っていく。店主のおじさんの人相がもう少し悪かったら、とても助手席で安穏とはしていられなかっただろう。

「この辺りにあると思うよ。探してみて」

 ペンキの禿げて赤茶けたシャッターを開けると、倉庫の一角を指さしてそう言った。

「ありがとうございます」

 店主は他に用があるのかそのまま奥へ消えた。

 薄暗い倉庫の中をゆっくり歩いてみる。昭和の匂いのするものは、ドラマの撮影などに使われるらしい。

「ああ、これ入って右手にあった紙入れ、欲しいな~サイズがちょうどいい。紙って管理が大変なんだ。これなら良いかも。

 きれいに積んであるけど用済みって感じで寂しいもんだね。扉だ。大きい…何枚もある。こんなものも取って置くんだ」

 あまりに大きなものは無理だが、小さいものなら持ち帰ろうと思った。

「あった~これだこれだ。これか~私の部屋に合うかっていうと微妙だけど、ここまで来ると捨てて帰れない気分だな」

 思ったものとはどうやら違った…でも、自分が引き取らないとこの先はないなと感じられた。

『思ったより大きい…』

 柱に架かっていた時は手頃な大きさに見えた。依子はひとり言をしながら、埃のかぶった時計を懐かしそうに眺めた。抱えたトートバックにすっぽり収まりそうなサイズだった。

「あの、これは持って帰れるけれど、こっちの紙入れ、大きすぎて今日は無理なのでお店で保管して頂けませんか?近いうちに車で取りに行きますから」

「ほんとに欲しいの?、無理しなくていいよ。そう簡単に売れるなんて思ってないから」

「いいえ、無理してないですよ。それと、これもお願いします」

 そう言って依子は気に入った紙入れと、もう一つ佐和子が気に入りそうな子引き出しを取り置きしてもらうように店主に頼んだ。

 依子は決して物欲の強い方ではない。職業柄、朝起きて一日中同じものを着ていても、作品さえちゃんと仕上がっていれば誰からも何も言われる事はない。家の中もいたってシンプルで、必要以上の買い置きで、ものに埋もれる生活はしたくなかった。

 気に入っているものと言えば、通販で手に入れたテンピュール枕と2年前奮発してそろえたドロウィングソフトだけだった。

『女として生きていない』と佐和子に叱られる。佐和子の両手で足りない趣味や、ヒールの高い靴。いつも決め決めのジャケットスタイルに『まあ、似合っている。さすがだ』とは思うけれど、あれをやるのは骨が折れるだろうなと辟易している。

 そんな依子の探し当てた時計はアンティークと呼ぶにはあまりに素っ気ない。しかし記憶の中にあるあの日を思い起こさせる。


 依子19歳の秋、初めて仕事らしい仕事を決めるために訪れた明文館の小さな会議室。自分の初々しさへの郷愁…。

 勇気を振り絞って出かけて行った。あの場所で最初に目についたあの時計。打ち合わせ時刻まで待たされる間、ゆっくりと時間が経つのをまんじりと数えた。

 それから慌ただしく時が流れて、何かを捨てながら出来上がった自分の歴史に心が動いたのだろう。

 一息入れる時に使うダイニングの背もたれのない丸椅子。そこに座って眺める台所の殺風景な壁に、前々から気になっていた木ネジが一つ残っている。そこに、バランスだけ確かめて時計をかける。進んでも、遅れても、止まっても、そんなのは構わない気がした。その景色だけで満足した。

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