第3話 人類愛はすべてを超える

 クラス会の後、同級生とまずいことになった夜。正確にはその衝撃を知った次の朝。自分がどれ程純粋に腐れ縁の高次のことを愛しているかを思い知らされた佐和子から、有り得ないほど長いメールが届いた。

 そのメールの端々で佐和子が泣いている。その気持ちが伝ってきてすぐに返信できなかった。『さすが佐和子。文章を書かせると日頃の無駄な言葉が息を潜めてる』そんなバカバカしい感想を持ちながら、佐和子を慰める言葉がひと欠片も思いつかない依子だった。

 そんな痛手を受けたことも無いし、失恋したことも無いし、でも、感情的にはわからなくても佐和子の辛さを理解することは出来た。

 人を癒すのが苦手な依子でもここは手を貸さないといけないとその使命を感じる。言葉はない。余計なことを言ったら空しいだけだ。佐和子の悲しみを一緒に耐えるしかない。それがせめてもの友情だった。


 土曜日、美味しい魚を食べに行こうと佐和子が家まで押しかけて来た。急ぎの仕事を仕上げたばかりの依子は、依頼されたイラストの枚数の多さにクタクタになり、書き直しの回数もかさんで頭がガンガンする。今日はなんとしても鉛のように眠りたい。このまま家にいさせてと佐和子の誘いを玄関先で断った。

「なによ!中に入れてもくれないの。なにも仕事に付き合えって言ってるんじゃないわ。のんきに横に乗ってれば、私がお店まで運んであげるわよ。眠いのは私だって同じよ!この頃仕事が立て込んで満足に眠れた日なんてないわ」

 まくしたてる佐和子を見上げる依子の意識はもうろうとしている。いったい何なんだろうこの人は。いつだって相手のことは考えていない。自分の要求を満たすためなら瀕死のアヒルの背中に乗って走れ、飛べと鞭を打つ…。

 面倒な朝の寒さに、ずり落ちた上着を羽織りなおした。

「とにかく時にはリフレッシュが必要。お互い似たような仕事してるからって、時間も不規則だし、楽しみも有るような無いような、愚痴言ったってきりがないけど…」

 独白しながら信号で依子を見れば、案の定、絵を描く事しか取り柄のないオーロラ姫は、気持ちよさそうにクウクウと眠っている。

 その純真さに言葉を無くす。この子は本当に仕事を終えると何も考えないで寝倒す。楽しみもご褒美も、納得のいく仕事さえあれば何もいらないんだろう。そこが気に入っている。言葉にはしないけど…

「依子、依子、到着!」

「もう着いたの。魚って海じゃないの」

 まぶしく顔を歪ませて依子が起き上がる。そんなに眠った気がしなかった。爆睡できるはずもない。朦朧としていても時間の感覚は残っていた。

「海に行かなくても美味しい魚はあります。ここ、取材で見つけたの」

「へえ~海仙人」

 そこは卸売市場に併設された河岸で働く人たちが、昼食をとる由緒正しい食堂だった。

「人がごった返してるのね。ここで並ぶの?」

 誰もが黙って並んでいる。立て看板に目をやりながらどの料理にしようか目が忙しく移動する。中から店の人が現れて限定品の殴り書きの上に売り切れの赤紙を貼っていく。残念がる声が上がる。常連客がほとんどなんだろう。

 並ぶ人も多いが流れも早い。直ぐに席は見つかって、少々ヨボヨボなおばあちゃんにそこに座れと案内された。

「どうやって注文すればいいの…」

 席は相席。横並びで詰める。座るとお茶が飛んできて注文取りのお姉さんが威勢よくいらっしゃいと言う。

「あそこの棚、厨房の前のところに今日のお勧めが並んでて、上の段からと下の段から一つずつ皿を取るの。それで、定食七八〇円。ご飯とお味噌汁が後から届くから」

「ぶら下がってるのは?」

 上目使いに梁に張られた様式の異なるメニューを眺める。

「あれが欲しかったら、ほらあのお姉さんに注文する。そしたら、席まで運んでくれる」

「刺身定食一二〇〇円、煮魚定食九〇〇円、海鮮ちらし七〇〇円、安いね…カツ丼もあるんだ。へえラーメンも」

「ここで働く人たちの食堂だからね。どうする?」

「煮魚が良いな」

「じゃあ、すいません!私は刺身定食、こっちは煮魚定食でお願いします」

「慣れたもんだね」

 佐和子は絶妙なタイミングで、テキパキと動き回るお姉さんをこっちに向かせて注文した。店の中はあわただしく忙しい。隣で黙々と食事にいそしむ人は、当然、見知らぬ同士で会話する様子もない。机によってはビールが並んで楽しく談笑する一団もある。

 初めは闖入者みたいでドキドキした依子だけれど、誰かが立って誰かが座ると自分たちもお店の雰囲気に溶け込んでそれほど居心地悪くはなかった。

「面白い。なんか場末な感じで活気があって」

「でしょ、それに格安。すごい量来るよ。依子には食べきれないかもね」

 自慢げに話す佐和子が嬉しそうだった。

 待つ間もなく、切り口のきりっと引き締まった刺身があふれんばかりに乗った皿が運ばれ、後から煮物と味噌汁とご飯と香の物が飛んできた。

「いやあ、お刺身だけで何種類あるの、貝もある、鯛かな?カジキかな?たっぷりのツマ、好きなんだよね」

 依子のカサゴの煮付けは艶よく皿からはみ出し、惣菜の煮物は佐和子のとは違う柔らかく炊けた里芋、色艶のいい金平牛蒡がこれまた盛りよく定食のトレイに乗っかってきた。

「眠気が吹っ飛んだ~これいいね」

 そう言って箸を伸ばしたのは佐和子の皿の芽昆布の煮物だった。

「めちゃ美味しい。薄味~」

 美味しいものを食べるのに理屈はいらない。言葉もいらない。二人はただただ箸を皿と口に往復させ、時々目を閉じて深いため息をついた。

「美味しかった~」

「食べ過ぎた。依子がしっかり食べないからよ。私は残せない性格だからこういう時困る」

 そういって一半平らげた佐和子がおなかをさすった。

「どうする。家に帰りたい。当初の目的は達成したわけだし。帰ってもいいわよ」

「昼寝してもよかったらプラネタリウムに連れてって…満点の星の下で眠りたい」

「よし、付き合ってくれたからね」

 嬉しそうにナビを入れなおす。場数を踏んだプレイボーイみたいに、依子に尽くしてくれる。こういうところの佐和子は気が利いている。その姿はあまりにも無理がなくて男より男らしい。サバサバしてあれこれ言わないし、詮索しない。案の上、偽物の星空に興味も示さず寝てしまう依子に文句も言わない。


 別れ際、佐和子が大きな声で叫ぶ、

「じゃあ、ああ、この間のサーモンの雑誌、良かった。あれ依子のアイデアだって」

「サーモン?ああ、表紙がサーモン色の?」

「うん、イメージがね。困ってたんだ。明るくても嫌味だったし、暗いのはやっぱ嫌い」

「妥協のサーモンって思ってる?私としては狙ったサーモン」

 依子が得意そうに鼻の前で親指を立てる。わけのわからない暗号みたいに…

 依子は感覚の人だから、理屈でどうとか考えない。佐和子が理詰めで最後はクライアントを納得させるけれど、依子の意図は多分佐和子の思うところと違うと、お互い初めから理解していた。

 依子にとって一枚の絵はそこに描かれた景色で完成する。でも、佐和子にとって依子の描く絵は素材で、そこに活字が乗って初めて完成する。イメージと完成度は自ずと違う。その違いがお互いの目的をずらして存在する。

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