第2話 佐和子と依子
佐和子は大手出版社に勤めている。今年で四年目。アグレッシブで処理能力の高い彼女は、入社当初から周りの期待も大きく、自分でも実力を発揮できる良い仕事につけたと自負して来た。大きなプロジェクトを任されるようになった昨年のクリスマス辺りからフルスロットルで飛び回っている。
今や寝に帰るだけのマンションの一室は、何もかもがごった返している。
家事が好き。料理の腕もどこぞのシェフより自信がある。インテリアに凝って気に入った家具で揃えた1LDKのマンションは雑誌の1ページのように見事にコーディネイトされていた。
なのに…今や見る影もない。
完璧主義者の佐和子にとって、それは耐えがたい光景になっている。が、自分のことを優先する時間なんてない。両目をつぶるしかなかった。
付き合って五年目の彼氏ともすこぶる順調。仕事が忙しくて会えなくてもそこは割り切って頑張った。確かにすべてが順調だけど、彼、高次のことを考える時間はほとんど無くなっていった。
30歳をいくつか越えた高次は、そろそろ結婚も視野に入れていた。しかし、お互い仕事があることは分かっているから、佐和子に普通の結婚を望むのは無理だろうと理解している。お互いのライフサイクルを最大限活かせる方法を画策する毎日だった。
ウィークデイはお互い忙しいからすれ違いは覚悟している。休みの時にささやかに時間が共有できて、美味しい店を探して食事したり、たまには親の顔を見に行ったり、僕が部屋を片付けるから君は夕食作ってくれても良いし、そうじゃなくてもいい。
そこに流れる空気は限りなく優しい。何も求めないと言いながら優しい空間は必要なんだ。そりゃあそうだ。そのくらい望んだってバチは当らない。癒しはこのストレスの多い現代人にとって最重要課題だ。
結婚に対する考え方は男女で大きく違うだろう。仕事が好きか嫌いかも決定的に作用する。独立した女として仕事に専念したいと思う上昇思考の時代は、時期的に多分、結婚適齢期と重なる。
でも…そっちには自信がないと佐和子は情けない顔をした。気難しい上司とも知恵を絞ってうまい具合に話を進められる。注文の多いお得意様のプレゼンも、雲に巻くようにいつの間にかクリアして笑顔で握手している。
かなり難しい案件でも気力、体力でどうにかする。と周りが一目置く器用な佐和子にとって、意外にも…共に家庭を築く営みはその範疇にないらしく、自分が家庭でくつろぐ姿をイメージするのが難しかった。
『子供は欲しい』と思う、どこから湧いてくるのかわけのわからない不可思議な欲求と『家庭生活を送る』と言う、彼女にとって非日常的な事柄がどう計算してもイコールにならない。
このチグハグな感覚はどうしようもない。と若い頃から思ってきた。
たまに会って彼のペースに合わせるくらい大人なんだから出来る。でも、彼女の本音は優しさに執着していない。彼は悪い人じゃない。一緒にいてその優しさに癒される。その時点で男女が逆転していると言うか、逆転って発想がそもそも空しい。
どっちがどっちでも、何でもありと思ってみても、残念ながらそこに何かが影を落とす。佐和子にとって結婚は人生の重大事ではないらしい。
そのうち佐和子はクラス会で意気投合した同級生と飲んで酔った挙句、正体をなくしてラブホで目を覚ました。自分が女だと否が応でも知らされる。さすがの佐和子もふっ飛んだ記憶にたどり着けず青ざめて困惑した。
そんな事態に直面して、さすがに『それでもいいよ』と高次は言わなかった。言われたら引く。フィフティーフィフティーでも何か決まり事はある。何でも良いよ、どうでも良いよ、と言えてしまう位なら、この人じゃなくても良いって言われているような、じゃあ何が良くて私なのと詰め寄ってしまいたくなる屈辱を感じる。
件の同級生が言う。『責任取るから』って『本当に申し訳ないことをした』って、想像したくもない決まり文句を浴びせられて、残念だけど、何かがあったとしか思えない。
酒を飲んでしでかしてしまった事とはいえ、そういうことにまで及んでしまった自分をさすがの佐和子も問題だと落ち込んだ。
やっぱり何でもOKとはいかない。男なら良かったのか女だからまずかったのかそんなことは考えようも無い。
そして、自責の念で五年の恋を解消してしまった。冷静に考えればもう少し違う方法もあったかもしれない。でも、全てに厳しくありたい佐和子は自分にも甘くなれない。
佐和子は珍しく落ち込んで、逃した魚の誠実さを悔やんでヤケ酒を飲んだ。
片や…もう一人の女。依子は、残念ながら華々しい武勇伝もなければ『これは誰にも言わないで』と広まった時のことを考えて口止めするような、ドキドキする艶っぽい話などにまるで縁が無いまま26年。ろくに人と関わらずに暮らしてしまった。
打ち明ける話があるとすれば、子供の時の股関節脱臼の後遺症で小学生の頃に再手術を受けた。その後6年間、月一回から年一回になるまで定期検診に通い続ける。その間スポーツは止められ、青春時代の華々しい時を運動と無縁で過ごした。
最後の診察の時、主治医から『骨の成長が止まってからの出産は股関節に負担がかかるので、25歳までに子供を産みあげてくださいね』と言われた。
子供の時宣告された25歳のリミット…
それを守らないといけないと、それまでに人と付き合って、結婚して、出産して…それから先のことは想像できなくてもとにかくそれだけはクリアしないと。
と、自分に期限を課しながら生きてはきたが、それを目標に暮らしては来たが…
思い通りになるはずもなく、遂に運命の25歳は過ぎ、もう結婚に対する課題はこれっぽっちも残っていない。
泣き喚く佐和子の横で、
「いろんな人生があるよね」
と、達観している自分は嫌いじゃなかった。反対に重い荷物から開放されたようにそのことを考えなくても良くなった自分にホッとし、たまには甘くしてやっても良いかと珍しく佐和子に同情していた。
二人で船旅も良いか~もちろん行かなくても良い。どっちでも良い。そういうスタンスだから佐和子はすぐ怒る。でも、怒ったって意味無い。本当にどっちでも良いんだから。
そこは自分ってものを相棒にしようなんて思った時点であきらめてもらわないといけない。人付き合いも悪く、テンションも低く、さらに結婚に対するモチベーションも失くしたわけで、これからは地味に仕事して、ただただ人様に迷惑をかけず、真当に暮らしていければ良いとそれだけを願っている。慎ましい依子だった。
依子はイラストを描くことを仕事にしている。個展で知り合った共通の知人の紹介で佐和子の担当する本の装丁を引き受けたのが二人でした初めての仕事だった。
細かいことに注文が多い割りに、依子の気になるところは何だかさっぱり関心が無くて、ちぐはぐなことに違和感ばかりだった。
「この色、この色ですか?気になる…それはどんな点で」
佐和子の好みは独特で出会った最初の時から、依子のこだわっているイメージを壊そう壊そうとするきらいがあった。熱くならない依子を少し興奮させる。
でも、だからと言って作品そのものを否定する感じでもなく佐和子が言うように手直しすると良くなることもあって、あながち的外れではなかった。
もちろんいただけない提案はその場で却下させてもらった。依子の作品だから自分の納得のいかないことはやらない。だけど…
自分の作品を愛してくれる人の存在を、何よりもありがたいものだと感じることが出来る。そういう人がいてくれなかったら自分のイメージを脳から絞り出して作品にすることなんて出来ない。
佐和子の助言は、依子の中の乗り越えがたい壁を壊して新しい創作意欲を掻き立てる。その癖、佐和子は依子の前で絵を描かない。簡単なラフスケッチさえもしない。絵が得意なのか不得手なのかそれすら確かめたことはないけれど、表現したい事はあくまで言葉を駆使して口頭で伝えてくる。
だから、その曖昧なイメージを形にしようともがくうち、お互いの心が通じて一つのものになる。それが心地好い。
利口な人間とはそういうものだと依子は思う。決して他人の領域を侵さない。作家の最大限の努力に手を貸そうとしても自分の領域からしかアプローチしない。それが孤独を愛する依子の偏屈な心に沁みる。
佐和子の頼みなら寝ないで徹夜してでも何とか聞いてやりたくなる。それがここ二、三年の、二人の関係だった。
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