Alternative Spirits
カリビアンブルーの海も闇夜の下ではただの漆黒でしかない。星明かりで白波だけが僅かに残像を引きずりながら明度を上げる。そんな墨で塗りつぶされたような海が続く中、横に長い長方形の島が見えてきた。その輪郭は点在する街の灯によって浮き上がっている。
プエルトリコ自治連邦区。地域としてのアメリカにあって極めて合衆国に近い。
「ソウイチロウ・ホンダが買ったマッキンタイヤのマシンの中には、ロードレースのキャリアを終わらせようと『不具合』を仕組ませた妻の告白文があったんだろう?」
「僕はそう聞いた」
「もう一人のフライング・スコット、コリン・マクレーが乗ったヘリの墜落事故も」
「事故じゃない」
スバルを世界的な知名度のある自動車メーカーに引き上げたラリーレーサーの死が不慮の事故によるものではないと自信を持っていうキミハルに、シルビオは何度目かの溜息を落とした。
「共通点はF1に転向しようとしていたスコットランド人レーサーってことだな」
「それと、日本のメーカーが絡んでいるっていうのも共通点だね。そういえば、このティルトローターも富士重工が」
「おいおい、止めてくれよ。縁起でもない話は」
シルビオはマキシタクシーで聞きそびれた話を、出発時に飲んでいたものとは違うカクテルと一緒に飲み込んだ。キミハルもまた、シルビオとは別のカクテルを飲み干す。そして、空になったグラスを逆さまにして、ハンカチを広げたテーブルの上に置いた。
「君のグラスも隣に置いてみてくれないか」
「また妙なことを言う」
訝しげに返答しながらも、シルビオはキミハルの言葉に従った。ふたつ並んだクリスタルの三角形をキミハルは軽く指先で弾く。
「シルビオ」
「何だ?」
「カクテルにおいて
「別に俺の言葉じゃあない。使い古された言葉さ」
出発直後に飲んだサイレント・サードのベースはマッカラン。シルビオが飲んだX・Y・Zのベースは、禁酒法時代も唯一製造が認められていたロンリコ。キミハルが飲んだバラライカのベースはウクライナ産ウォッカのディスティル・ナンバー9。どのスピリッツもシルビオの選択だ。
サイレント・サード、X・Y・Z、バラライカ、三種のカクテルはベースとなるスピリッツ以外は全て同じ材料、分量だ。一般的にブランデーベースのサイドカーのバリエーションとして認識される。
「バラライカは楽器のバラライカの形とカクテルグラスの形が似ているから、なんて言われているみたいだね」
「俺に言わせりゃ、そんな理由ならウォッカベースのショートカクテルが全部『バラライカ』になっちまう」
「確かにね。X・Y・Zは?」
「X・Y・Zが今のレシピに落ち着いたのはそれ程前じゃない。三つのアルファベットは三つの変数。材料も分量も変化してきた。『これ以上
キミハルは返される答えを予測していたかのような間でグラスを弾き口を開いた。
「三、だよね。やたらと三だ」
シルビオは静かにキミハルを見詰めている。続く言葉があると分かっていて待っているのだ。
キミハルは口より先に手を動かした。X・Y・Zが満たされていたグラスを横に倒す。
「プエルトリコの国旗、いや、国じゃないから正確には国旗とは呼ばないか。まあ、それも横にしたカクテルグラスのようだね。つまりはバラライカの形だ」
「それは偶然であって関係ないんじゃないか? キューバの国旗も配色が逆なだけでデザインは同じだ」
グラスに向いていたキミハルの視線がシルビオに向かう。その目を見たシルビオが舌打ちをした。
「関係ない。旗のデザインは関係ない。随分とはっきりした意見だね。何に対して関係ないんだい? 何に対しての偶然だい? まるで君が僕に三という数字を強く意識するように仕込んでいるみたいじゃないか」
指摘に無表情を貫いていたシルビオだったが、諦めて頭を掻いた。
「そこまで察したんなら言わなくても良いだろ。だからモテねえってんだ」
これ以上自分から話すことはない、と言葉ではなく視線で訴えかけたシルビオにキミハルが応える。
「僕はシルビオ、君のアリバイを証明するために連れてこられた。アリバイってのはつまり、事件が起きた現場に存在しなかったという証明だ。でも、厳密には事件に関与していないという証明にはならない。それを証明するには、当然だけど事件そのものの性質を正しく理解しなきゃ意味がない。『あの日、あの時刻、事件現場から離れた場所で君を見た』っていうだけでは意味がないからね」
シルビオの言葉を三秒だけ待ったキミハルだったが、無言のシルビオを見て更に続けた。
「迷えばいいさ。まだ迷っているのはよくわかる。ただ、残念なことに君がなぜ、何に迷っているのかまではわからない。それを理解するのは直接の僕の仕事ではないし」
「わかった。わかったからあまり俺の口から話していないことを俺の代わりに言うな。学生時代のちょっとしたいたずらまで悔いちまいそうになる」
キミハルたちが乗るティルトローター機は空港へとは向かっていない。
着陸予定地は、コンサートホールのサラ・シンフォニカと、複数の劇場を有するルイスA.フェレ・パフォーミングアーツセンターに挟まれたフアン・モレル・カンポス公園。野良猫だらけの首都サンファンだが、規制線が張られたこのエリアには、この数日一匹の猫も見当たらない。
事件の現場になったのはサラ・シンフォニカ。
地元のオーケストラと、女性バラライカグループのコンサート。演奏されたのは、ロシアの楽曲や、それらをルーツにした音楽。中にはそれらをプエルトリコで盛んなサルサ調にアレンジされた曲もあった。
そんなコンサートも佳境を迎えたとき、知事の頭上にあった大型の照明器具が落下した。
その時、旋律のプリマ、伴奏のバス、二挺のバラライカが奏でていたのはメリー・ホプキンの「悲しき天使(Those were the days)」だった。老いた女性が若かりし頃に仲間たちと酒場で飲み、語らった時間を懐かしむ歌だ。
「ふうん、女性
シルビオは口をきつく噤んだままだ。キミハルにとってはそれが答えでもある。だが、キミハルには最初からひとつの疑問があった。その答えはこれまでの段階で必要としなかったが、真実を見るには知らねばならない。
「ロシアのウクライナ侵攻以降、プエルトリコと合衆国との関係をその両国に重ねて見る動きが増えたのは日本にいても感じていたよ。君が合衆国五十一番目の州への昇格を目指す知事に対して良くない印象を持っていると誤解されても不思議じゃないけど、君は合衆国政府との繋がりが太い」
キミハルの探るような言葉に、今度はシルビオがキミハルの真意を読んで口を開いた。
「俺はFBIの協力者という体裁で、爺さん同様監視下に置かれているからな。本当ならキミハルの証言も要らないはずなのだが、FBIが監視していることを証拠として使うと、方々からの反発もある」
「アリバイ証言だけなら僕じゃなくても良いわけだ。まあ、君の狙いもわかったし、あまり言うと君の立つ瀬がなくなるだろから」
「もうそんなもんとっくにないね。とにかく頼むよ。大変な仕事だと思うけど、キミハルにならできると見込んでのことだ」
話は終わりとシルビオは逆さまに置かれたカクテルグラスを元に戻した。
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