Silent Third

 夕景の空を更にアーバンレッドで深い赤に染めるショウジョウトキの群れが飛ぶカローニ鳥類保護区。長い渋滞がようやく解消したハイウェイの西に広がるマングローブの森を過ぎ、北進するキミハルたちの前方を走るSUVの左側前輪が火花を散らし始めた。明らかにパンクしている。だがスピードを緩める気配がない。逆にスピードを上げようとしているようだ。

「パンクしているのに気付いていないのか。渋滞に巻き込まれて余程急いでいるのか。どっちにしても危ないなあ」

 そうやってSUVを気にして見ているのは車内でキミハル一人だけだ。

「おい、キミハル。頭を下げていろよ」

 隣に座るシルビオから頭を押さえつけられたキミハルが、察した様子で眉間に皺を刻んだ。

「タイヤをパンクさせて、止まった所を襲うのか?」

「ああ、小銭稼ぎをするギャングのお手軽な手段さ。このハイウェイは空港に向かう車が多い。銃を持たず、金を持つ車を引く確率が高いからな」

「はあ。なんだか僕の仕事なんて無意味な気がしてきたよ」

「キミハルの嘆きも仕方ないが、今回の仕事は簡単じゃない。君の力は不可欠だ。東京のシャーロック・ホームズと呼ばれていた君のね」

「違うよ。ワシントンの工藤俊作だ、なんて自分で言うのも嫌なもんだね」

「確かに、キミハルにユウサク・マツダのようなホットさはないね」

 シルビオは自分の言葉が余程面白かったのか、南北に伸びるユリア・バトラー線から東西に伸びるチャーチル・ルーズベルト線にハイウェイが切り替わるまで笑いを堪えていた。いかにも優男なキミハルはそんなシルビオを放っておいて、時折SUVを気にかけている。

 完全に左前輪のタイヤのゴム部分を失くしたSUVは、通報によって駆け付けた警察車両に誘導され、ギャングのテリトリーを抜けた所で路肩に停車しようとしている。

「どうやら彼女は無事だったようだね」

 追い抜きざまにSUVを振り向いたキミハルが見たのは、少し震えながらもステアリングをぶれないように必死で掴む長髪の若い女だった。

「銃の乱射に、ギャングの強盗。三度目は何が起こるか楽しみだな」

 シルビオは本気で次に起きる何かを期待しているわけではない。これまでの人生の大切なシーンで、口にした願いがことごとく叶わなかったことを逆手に取った、彼なりのジンクスにすがったのだ。付き合いの長いキミハルもそれは承知している。

「もうこれ以上何も起こらずにプエルトリコへ着けば良いけどね」

 一方で素直に本心を口にしたキミハルが、緊張が続くことへの疲労になんとなく天井を見上げると、そこにはいくつかの弾痕が遠く故郷にあるキトラ天文図のような景色を作っていた。


 トリニダード・トバゴからプエルトリコへは、同じカリブ海に浮かぶ島国だが直行便がない。一般的には所要時間の短さから、一旦プエルトリコの上空を通過してマイアミから折り返す便を利用する者が多い。それでも直線距離の三倍を移動し、十時間前後を要する。

 だが今回、カリブ海域の裏組織、特に麻薬密売、製造組織に明るいシルビオにはFBIからの協力要請が来ている。民間機は使わず、合衆国政府が用意したティルトローター機で向かう。約千キロの距離を二時間のフライトだ。

「単純な疑問なんだけど」

「どうした?」

 キミハルには乗り込み口で周囲を警戒するFBIの職員が日本語を解するとは思えず、遠慮なくローターの回転音に負けないような大声で聞いた。

「どうして『ただの酒屋』のシルビオに合衆国政府の仕事が多いんだい?」

 これまでこの手の質問は何度もはぐらかされてきた。自身のことを「ただの酒屋」というシルビオの本職は、世界中のアルコール飲料を扱う貿易商なのだが、それを「ただの酒屋」とへりくだって言っているだけなどとキミハルは考えていない。

「爺さんの跡継ぎってとこかな。酒屋同様ね」

 これまで同様はぐらかそうとするシルビオに、キミハルは引かなかった。

「いいや、今回は教えてもらうよ。いきなり死にかけたからねえ」

「それは俺のせいじゃないだろ?」

「直接的にはね。でも僕を呼んだのはシルビオだ」

「わかったよ。機内で一杯飲みながら話そう」

 既に太陽は沈んでいる。本格的な仕事は明日からの予定だ。

 機内とは思えない本革張りのソファーとローテーブル。そこに用意された数種類の酒瓶と、氷、シェーカー、グラス。砂時計の形に似たメジャーカップは、シルビオには必要ないと知られているのか用意されていない。

 シルビオが最初に手にした酒を見て、キミハルはギョッとした。

 ラベルには「THE・MACALLAN1933」と記されている。

 合衆国では禁酒法が廃止。ドイツではナチスが政権を握り、スコットランドにはネス湖に怪獣ネッシーが現れた一九三三年。ラベル表記を信じれば、その年に蒸留された最高峰のスコッチだ。更に丸で囲われた「33」の文字。蒸留から三十三年後の一九六六年に瓶詰めされたことを示している。

「三って数字は本来変化の数字だろ?」

 シルビオはボトルキャップを躊躇なく捻る。

「変化の数字?」

「ああ。日本では『仏の顔も三度』とか『三度目の正直』とか」

「なるほど、物事が変化するタイミングか。そう言えなくもないかな」

「このサイレント・サードもそうだ」

 シルビオは言いながら、カクテル「サイレント・サード」のふたつ目の材料、コアントローを手にした。

「このマッカランが蒸留された時代、いくつかの地域でコアントローの独占販売権を持っていたガース・グレンデニングの愛車だったレイルトンのサードギアが静寂性に優れていたらしくてね。このスムースな飲み口になぞらえて『サイレント・サード』と命名した」

 最後にレモンを絞ってシェーカーを振るシルビオは、願いを口にせずに三度目の事件が起こることなく平穏であることを祈った。

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