ホテル再建記録⑨ 夜間警備

 建物の引き渡しは、二○二五年一月三十一日に決定した。改装工事のすべてがそこで完了し、以降は家具などの搬入を行うことが可能になる。まだまだ先の話ではあるのだが、全体のスケジュールが固まったことで、目先の小さな仕事までもが急に輪郭を持ちはじめたように感じられた。


 あらたに購入する家具にはだいぶ苦労をさせられた。建物全体が以前の面影を残したアンティーク調であるのにもかかわらず、新調した家具をモダンなデザインにするわけにはいかない。市場に出回っている家具の大半は現代的な住居に調和するようデザインされているため、十六室分の家具を確保するには、多少値が張るが特注品を購入するしか方法がなかった。


 唯一の例外はベッドだった。寝具次第でいかようにもアレンジが可能なため、こちらは品質優先で手早く選定を行うことができた。


 オーダーメイドのライティングデスクには特に時間がかかった。写真を手がかりに廃業前のデスクを再現するという気の遠くなるような作業は、効率だけを考えれば、無駄以外のなにものでもなかった。サリス夫妻のお気に入りの家具だというのだが、シリンジのこだわりがなければ、もっと円滑に進めることができたはずだと西坂は考えている。


 二○二四年六月。西坂がセパレートシティに赴任してから、まもなく三か月が経過しようとしていた。改装工事も無事に着工し、コブラパレス開業に向けた準備は順調に進んでいる。しかしそのいっぽうで、周囲を取り巻く環境は、少しずつ奇妙な方向へと向かいはじめていた。


 警察官のパイロンを通して、事件の話を耳にする機会が増えているのだ。西坂が赴任したばかりのころと比べると、セパレートシティ内で発生する事件は目に見えて増加していた。治安が悪くなったというわけではない。『ペットの様子がおかしい』、『マンホールの蓋がずれている』、『知らないあいだに窓ガラスにひびが入っていた』、などという小さな異変の積み重ねが、得体の知れない不安を市民に与えていた。昨晩も西坂は、獣に喰い殺された動物の死骸が中心街で発見された、という話をパイロンから聞かされたばかりだった。


 その日、六月七日はいつになく多忙だった。シリンジが不在だというのも理由の一つだが、相手方の返答を待っていた案件が三件まとめて動きだしたということが大きかった。難航していたリネンのサプライ契約は、認識の相違を解消したことでうまく話がまとまりそうな気配がある。シーツやタオルなしにホテルは成り立たないので、リネンの目途が立ちそうだという知らせは二人にとって嬉しいニュースだった。


 仕事を終えた西坂が館外に出ると、コブラパレスの正面玄関にグリーンカラーの電気自動車が停まっていた。


「お疲れさん」

 窓がスライドして、運転席に座る楊が声をかけてきた。

「じゃあ行こっか、バトー」


 助手席のドアを開けた西坂は、運転席の楊の顔をのぞき込んだ。

「なんだよ、今日はやけに上機嫌じゃないか」

「あたりまえじゃない。こんなチャンスめったにないんだから、全力で楽しまないと」


 西坂と楊は、このあと市立博物館でシリンジと合流し、三人だけのナイトミュージアムを開催する計画を立てていた。もちろん、博物館の許可を取っていない非公認の企画だ。


 きっかけは、博物館の夜間警備を担当するガブリエルが事故を起こしたことだった。副業運転手としてタクシーのハンドルを握る彼は、見通しの悪い道を走行中に、物陰から飛び出してきたなにかを避けようとして街路樹に衝突。その事故で全治二週間の怪我を負った。軽いけがではあるのだが、無理をしても警備員としては役に立たないということで、しばらくのあいだ仕事を休むことになった。セパレートシティの市立博物館は、警備担当のベテランが春に定年退職したばかりということもあって、人員に余裕がない。そこで急きょ、代役としてシリンジに白羽の矢が立ったのだ。


「あっ、そうだ」

 シートベルトを締めながら、西坂はわざとらしい口調でいう。

「二人っきりにするには、俺は、今回も途中で消えるべきなのかな」

 茶化すようにいった西坂に対し、楊は苦い表情で答えた。

「ごめん、ごめん。悪かったって。そんなに拗ねないでよ」


 楊の運転する電気自動車は、ロータリーを出て市街地方面へと斜面を下っていく。すでに日は落ち、あたりはすっかり暗くなっていた。市街地と比べると、ひと気のない郊外は街灯の明かりも少ない。ガブリエルの事故の話を聞いたばかりということもあり、ここで獣が飛び出してきたらと考えると暗闇が恐ろしく感じられた。


 車窓に反射した自分の顔を眺めながら、ガブリエルについて考えを巡らせる。

 彼はいったい、どんな動物に遭遇したのだろうか。

 そのようなことを考えていると、いつのまにか車は博物館に到着していた。


「よし、到着」

 がら空きの駐車場のど真ん中に車を停めた楊が、パーキングブレーキのスイッチに指をかけた、そのときのことだった。


 突然、車内にアラート音が鳴り響いた。緊急地震速報を想起させる不穏なメロディーだ。音の発生源は、センターコンソールに置かれた楊のスマートフォンのようだった。


 画面も見ずに、「ごめん、バトー」と楊がいう。

 彼女は以前、特別仕様の通知アプリを入れていると話していたが、実際に起動するのを見るのはこれが初めてのことだった。西坂も自身のスマートフォン取りだし、画面に表示された通知を確認する。

 セパレートシティにサンドストーム警報が発令されていた。


 楊は大学の研究室に向かうというので、彼女とはこの場で別れることになった。言葉にできない不安を抱きつつも、西坂は車を降り、楊を見送る。よほど差し迫った状況なのだろう。グリーンカラーの電気自動車は、加速性能にものをいわせてあっというまに西坂の視界から消え去った。


 急ぐ楊の安全を祈りながら、博物館の通用口へと向かう。前回の記憶を頼りに建物の裏手に回ると、通用口の前に小さな立て看板が置かれていた。ご用の方は押してくださいと書かれているので指示どおりにボタンを押して待っていると、ドアが開き、隙間からシリンジが顔をのぞかせた。


「あれ、ユートンは?」

 警報には気づいていない様子なので、そこからまず説明を始める。

「スマホ見ろよ。サンドストームだ」

「うっわ、ほんとだ。警報出てる」


「学部長からの指示で、警報発令中は、自宅か研究室で待機しないといけないらしい」

 西坂がいうと、シリンジはスマートフォンの画面を見ながら短くため息をついた。

「なにもさあ、こんな日に発生しなくても」

「それは同感」

 警報には慣れているはずのシリンジも、さすがに今回のタイミングの悪さには苛立ちを覚えているようだった。


「とりあえず入ってよ」

 シリンジに続いて館内へと入り、促されるまま警備室のイスに腰を下ろす。警報解除後に戻ると約束した楊の言葉を信じ、西坂とシリンジは、夜の博物館でサンドストームが過ぎ去るのを待つことにした。


「ユートンもさ……、いろいろ大変だよね」

 博物館限定だというミュージアムコーヒーを差しだし、浮かない顔でシリンジがいう。

「頑張ってるけど評価されない。そんな状態がずっと続いてるみたい。オレには弱音を吐かないけど、本当はユートンも苦しいんじゃないのかな」

 外に面した窓から砂粒の当たる音が聞こえる。雑談をしているあいだに、いつのまにかサンドストームは博物館に到達していたようだった。


「設備を整えるお金すら出してもらえないのに、どうしてあの大学にこだわるんだろうね。この国の出身というわけでもないし、サンドストームを研究するなら、ユートンにはもっと別の選択肢があるはずなんだけど」

 受け取った缶コーヒーを両手で包み、西坂は内心でため息をつく。

 おまえに惚れているからだ、とはさすがにいうことができなかった。


「たぶん、この街のサンドストームが特殊なんだよ」

「ああ、そういえば、そんなこといってたような気がする」

 特殊なサンドストーム。それは、本音をごまかすための思いつきに過ぎなかったが、どうやら、まったくの見当違いというわけでもなさそうだった。研究者として骨をうずめる覚悟があったからこそ、この地でシリンジと家庭を築きたいと彼女は考えたのかもしれない。


「あ、来たね。サンドストーム」

 窓のほうを向き、シリンジがいう。ようやく彼も、外の変化に気づいたようだ。


「というかさ、バトー。さっきから気になってんだけど、そのにおい、なに? 鼻が曲がりそうなんだけど」

「ああ、これね」

 来る途中に楊からも指摘されていたため、同じことをいわれるだろうと覚悟していた。


「アロマオイルのサンプルセットが届いたんだよ。全種類試そうと思って手につけていたらにおいが混ざって、それでこうなった」

 コブラパレスのロビーには、大型のアロマディフューザーを設置する予定だ。西坂は、ロビーの香りを、ホテルを演出する大切な要素の一つと考えており、慎重に香りを選ぶために、国外メーカーにサンプルの提供を依頼していた。


「馬鹿じゃん。てか、なんでオレがいないときに決めようとすんの?」

「本業を投げだしておいて、ほいほい夜勤を引き受けるような、そんな無責任な奴に文句はいわれたくないな」

「おま……」

 顔を赤くしたシリンジが反論を口にしようとした、そのときのことだった。


 警備室に甲高い電子音が鳴り響いた。

「やばっ、発報だ」

 シリンジがすぐさま警報表示盤を確認する。

「エントランス。異常感知。火災じゃない。防犯センサーだ」


 棚から懐中電灯を二つ取りだしたシリンジが、その片方を西坂めがけて放り投げた。

「行くよ、バトー」

 両手で懐中電灯を受け取り、シリンジのあとに続いて現場へと急行する。


「うわ、なんだあれ……」

 現場に到着すると、エントランスの一角にガラスの破片が散乱していた。側面にあるガラス壁の一枚が割れた様子で、空いた箇所から砂混じりの風が吹き込んでいる。破片は建物の内部に散乱しているため、ガラス壁は外部からの衝撃によって破壊されたものと考えられた。

 飛来物が衝突した可能性もあるが、周囲にそれらしき物体は見当たらない。


「不法侵入だ」

 現場を見たシリンジはそう断言した。


「盗賊団?」

「いや、手口が雑すぎる。そんな感じではない」

 叩き割られたガラスを見て、西坂の脳裏には二つの言葉が浮かんでいた。

 理不尽と暴力。

 無意識に思い描いたのは、この手で殴ったフロント課長の顔だった。


「悪人は見逃せない。侵入者を探そう」

 そう提案したのは西坂だった。


 シリンジは一瞬ためらう素振りを見せたが、少し考えた末に首肯すると、すぐに行動を開始した。ホルダーから伸縮式の警棒を取りだし、それを西坂の手に握らせる。

「じゃあ、手分けして探そう。バトーはそっち、ウエストサイド。オレはこっちのイーストサイドを探す。一階から始めて、見つからないときは上の階に行く。それでいいよね」

「構わない。でも、これはエドが持ってろよ」

 警棒を返そうとすると、シリンジは首を左右に振った。

「警備室はこっちだし、途中でもう一つピックアップするから大丈夫」

「わかった。それで、警察への通報は?」

「そっちはオレがしておく」

 そういうとシリンジは、スマートフォンを操作しながら来た道を引き返していった。


 シリンジと別れた西坂はウエストサイドの展示室へと向かった。エントランスとは異なり、展示室の内部は照明が落とされている。手にした懐中電灯のスイッチをオンにして、周囲を照らしながら慎重に前へと進む。


 ウエストサイド最初のブースは、この国の民族衣装を展示した部屋だった。室内の様子に異常は見られず、不審な物音も聞こえない。この部屋は無人だと断言できる。そのことをあたまでは理解しているはずなのだが、懐中電灯が照らす先に人型のシルエットが浮かぶと、誰かがそこに立っているかのような錯覚を覚え、そのたびに心臓の鼓動が高まった。


 吊るされた民族衣装とは違う。たとえこの先で侵入者と鉢合わせたしても、相手が棒立ちでこちらを見ていることなど万に一つもありえない。動く相手に集中しろと自分自身にいいきかせながら、次の展示室へと向かった。


 二つ目のブースに足を踏み入れた西坂は、そこではっとして身体を硬直させた。覚えのある独特な臭気に、肉体が過敏な反応を示している。前方に懐中電灯を向けると、暗闇のなかに手のひらサイズの石板が現れた。着任の挨拶で訪れた際に、地底爺が熱心に解説をしていたスカラベのレリーフだ。どうやらここは、ウロコ文明の出土品を展示する部屋らしい。


 以前に一度、地底爺に館内を案内されているため、展示室内のおおまかなレイアウトについては把握している。落ち着いて行動すれば、もっと効率よく捜索できるはずだと、そう考えたときのことだった。


 展示室の奥でガラスの割れる音がした。

 侵入者の存在を知らせる物音に、いっきに緊張感が高まる。西坂は、警棒を握りなおした次の瞬間には、音のしたほうへと走りだしていた。


 音の発生源に到着すると、想定される展開のなかで最悪の光景が目に入った。フロアの中心にある小型のケースが破壊され、台座の上にあるはずの展示品が盗まれている。

「くそっ、やられた」

 西坂はスマートフォンを取りだし、シリンジの番号をタップした。


『なにか見つけた?』

 応答したシリンジが西坂に尋ねる。

「侵入者はこっちにいる。ケースが壊されて展示品が奪われた」

『やっぱ、展示品狙いか……』

 スマートフォン越しにシリンジが大きなため息をついた。

「とりあえず、追いかける」

『わかった。オレもそっち行くから、合流するまで切らないで』

 了解と答えた西坂は、音声をスピーカーモードに切り替え、通話状態のままスマートフォンを胸ポケットに放り込んだ。


 展示品を奪った侵入者はこの先にいる。手口の荒さからみて、危険な人物であることは間違いない。警棒を握る手に力を込めた西坂は、深呼吸をして次の部屋へと向かった。


 三つ目のブースには野生動物の剥製が展示されていた。ジャッカル、シマウマ、ライオン。どれもこの地域に生息する野生動物なのだろう。こちらを見つめる動物たちの目が、懐中電灯の明かりを反射して怪しく光った。


 先ほどの民族衣装とは異なり、動物の剥製を人間と見間違えることはない。動く相手にだけ集中すればいい。暗闇を照らす一筋の光を左右に振りながら、侵入者の発見も時間の問題だろうと西坂は考える。

 そのときだった。視線の先でなにかが閃き、西坂は身体の左側に強い衝撃を感じた。見ると、自分の左肩に短剣が突き刺さっている。ごく短い時間の思考停止のあとに、思いだしたかのように激痛が走った。

 西坂は叫び声を上げる。


『どうした、バトー! バトー!』

 胸ポケットのスマートフォンからはシリンジの声が聞こえていたが、いまの西坂に答えている余裕などなかった。左手の手中にあった懐中電灯は、すでに手を離れて床の上を転がっている。先手を打って攻撃してきた相手を前にして、西坂の視野の大半は暗闇に覆われていた。


 それからの出来事は、あっというまだった。

 闇に紛れて接近した侵入者が、躊躇なく正面から体当たりを仕掛けてきた。身構えていなかった西坂は、いとも簡単に床の上に押し倒される。慌てて手をついた際に右手の警棒も手放してしまい、もはや西坂には身を守る術は一つも残されていない。


 仰向けの西坂の上に侵入者が馬乗りになった。

 暗闇のなか、頭上の侵入者の荒い息遣いだけが聞こえてくる。

 左肩から短剣が抜き取られ、西坂は再び叫び声を上げた。


 殺される。

 そう思った瞬間に、無意識に右手が動いていた。

 フロント課長を殴った右手が、侵入者の顔面を強く殴打する。


 侵入者が絶叫した。獣のような叫び声だった。


「バトー!」

 遠くからシリンジの声が聞こえた。

「バトー!」


 声を聞いて侵入者は追撃を諦めたようで、身体の上からふっと重みが消えた。

 シリンジの声が近づいてくる。

 西坂が右手を振るったあとの空間には、複数のにおいが混ざり合ったアロマオイルの刺激臭が漂っていた。

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