妖精との出会い
燐たちは奥へと進んでいく。先頭が彼方、真ん中が燐、最後尾が凛音だ。
『特区第一ダンジョン』は広大だ。何度も枝分かれした道を曲がり、正規ルートから離れれば、人の気配は遠くなる。
そして代わりに、怪物たちが鼓動を伝えてくる。
ほんの小さなもの音さえも、燐にはモンスターの足音に聞こえていた。
きょろきょろと辺りを見渡す燐には、ダンジョンに入る前の高揚は鳴りを潜めて初心者らしい怯えを身に纏っていた。
「大丈夫だ、俺が守ってやる」
振り向かずに、気配だけで燐の怯えを察した彼方は、力強い声で燐を鼓舞する。
振り向かないのは、周囲の索敵に意識を割いているためだ。
冒険者としての確かな自負に裏打ちされた絶対の確証は、燐に安心感を与えた。
燐はほっと息を吐き、緊張を和らげる。そしてほんの少しだけ彼方との距離を詰めた。
それを凛音は静かに見守っていた。
彼方が、手を上げる。それを見て、燐は慌てて足を止める。
燐はダンジョンに入る前、いくつかの約束事をしていた。その一つが、ハンドサイン。
彼方が手を上げた時は、モンスターが近いという合図だ。
やがてざりざりと、断続的な音が聞こえてきた。
聞き慣れない音の正体を、燐は想像する。
普段あまり聞かない音だった。
だが断続的に聞こえるそれは、生物が奏でる規則性を持っている。
曲がり角の先から何かがやってくる。燐の目に映ったのは小さな人影だった。
160センチほどの燐の身長と比べても、頭一つ分は小さい。
小学校に通っている燐には、小学校低学年ほど後輩の姿を想像させた。
だがその肌は、人のそれではなかった。
緑色の肌に不規則な並びの牙、無造作に伸びた爪と髪。
(爪が地面と当たった音……)
燐はさきほどの地面を削るような音の正体を知る。
曲がって伸びた足の爪が地面に当たっているのだ。
「あれがゴブリン。低層なら一般的なモンスターだよ。下に行けば別のゴブリンもいるけどな」
ゴブリン。それは世界的にも有名なモンスターだった。それはダンジョン発生以前から物語の中で語られていたという理由だけではなく、『第一次ダンジョン災害』時の異常繁殖も原因だった。
ダンジョンからあふれたモンスターの中には、当然ゴブリンも存在した。ゴブリンは他のモンスターよりも弱く成人男性程度の能力しか持たない。だがゴブリンはずる賢かった。
いたずらに冒険者たちと戦うことは無く、隠れ潜み、ダンジョン外で繁殖し、世界中の野生生物に混ざっている。
今やどんな害獣よりも嫌われている世界一の嫌われ者だった。
「俺の後ろから出るなよ」
彼方が燐を庇うように立つ。その僅かな隙間から、燐はゴブリンを観察する。
『GIGIGI……』
不気味な鳴き声を上げてゴブリンはダンジョンの岩を加工したと思しき棍棒を構えて、彼方を威嚇する。
驚くことに、ゴブリンは背後をちらちらと伺うような素振りも見せた。
それは、彼我の戦力差を戦う前から予想して撤退も視野に入れているということだ。
やがてゴブリンは諦めたように項垂れて、棍棒を取り落とした。
それは逃走も戦いも諦めた姿だった。
「すごいじゃん、父さん!」
自分の父は、モンスターと戦う前に戦意を折ってしまうほど強いのだと考え、燐は誇らしげな気持ちになる。
そして、もっとよくゴブリンを見ようと、父親の影から出る。
それは、敗者となったゴブリンを見て、父の強さを再確認したいという子どもの安直な考えだった。
『Giiiiiiiiiiiiii!』
その時、ゴブリンは地面を蹴った。振り上げた足により弾かれた棍棒は、回転しながら彼方の背後にいる燐を狙う。
父親を挟まずに対面したゴブリンの形相は、必死に歪んでいた。
死への執着と彼方への怯え、それでも燐を殺すというモンスターの本能とも言える純粋な殺意。入り混じったぐちゃぐちゃの感情に充てられ、燐は動くことが出来なかった。
(————あ)
死ぬ、とも思えない意識の空白。それを打ち破ったのは、鮮烈な剣だった。
「燐!」
振り下ろされた刃が宙を舞う棍棒を叩き落とす。そして、遠く離れた位置にいたゴブリンの首が飛んだ。
上級職【戦騎士】のスキル【エクステンション・ブレード】だ。
「燐、大丈夫か!?」
しゃがみ込んだ父親が、自分の肩を掴んだことで燐はようやく我に返った。
「あ、ありがとう、父さん……」
燐には一連の動きが見えなかった。気づいたら棍棒が消えて、ゴブリンの首が消えていた。
眼前の光景からその事実を推測し、自分が死にかけたと悟る。震える喉から零れ落ちたのは、父への感謝だった。
「燐、父さんは後ろから出ないようにと言ったはずです。なぜ破ったの」
凛音は、冷たい声音で燐を叱咤する。
「ダンジョンに入る前にきちんということは聞くと約束したはずです。守れないならここで終わりです」
「ごめんなさい……」
燐は自分が軽率なことをしたという自覚があったため、俯き謝罪する。
自分のためを思い、動いてくれた両親の思いを裏切ったという事実が、燐の心に圧し掛かり、両の瞳が潤む。
あまりの無様さに、燐は泣きそうだった。
「燐」
凛音が、燐の頭を撫でて呼びかける。
「ダンジョンでは予期しないことも起こります。気を付けてね」
「わかった。ごめんなさい」
その声は、少し潤んでいたが、燐は顔を上げて返事をした。
「燐、冒険者をしていれば、命の危険はたくさんある。誰にも見られずに、ダンジョンの端でモンスターに食い殺される奴なんて毎日出てる。
冒険者には、お前が見たくない嫌な面もあるんだ。もう一回、冒険者をやりたいかどうか考えた方がいいんじゃないか?」
ダンジョンでは予期しないことも起こる。先ほどのゴブリンもそうだった。
何も初めから燐を狙うつもりは無かった。
実際にゴブリンは戦意を喪失して、死を受け入れていた。
だが燐が隙を晒したため、ゴブリンの脳裏に燐を殺して混乱を誘うという可能性が浮かんだ。
それは、燐たちが出会ったゴブリンが他の固体よりも潔く、そして知能が高かったため起こったイレギュラーだ。
ダンジョンの中で起こっているのは、人とモンスターの殺し合い。そこに待つのはどちらかの死という無慈悲な結末のみだ。
燐が今まで見てきたダンジョン動画や物語のようなきれいごとなどむしろ少ないのだと、彼方は改めて伝える。
その、冒険者を諦めるように進める彼方の言葉に、燐は僅かに機嫌を損ねて眉を顰めた。
父は今までも何度も、冒険者を諦めるように遠回しに伝えてきていた。
燐の意志は尊重してくれるため、ダンジョンに連れてきてくれたが、本当は今日の探索にも後ろ向きだったことは知っていた。
だけど、自分のことを考えてくれているのだと判断して、小さく頷いた。
「分かった。でも俺は早く冒険者になって、リオに追い付きたいんだ」
「そうか。そうだよな。……じゃあ行こうか」
三人は再び先へと進みだした。
五分ほど歩いただろうか。燐の耳には、チロチロと水の流れる音が聞こえてきた。
「父さん、この音って川があるの?」
「おお、耳いいなあ。そうだぞ」
そう言って、彼方は足を進めて角を曲がる。その先は、小さな広間だった。
中央には水が湧き出す泉があり、岩のくぼみを通って小さな川を形成していた。
その周辺には花が咲き、小さな花畑のようになっている。
ダンジョンの生物たちの憩いの場だろうか。道中にあった争いや血の匂いはまるでしない。
鼻腔に漂う柔らかな蜜の香りが、燐の頬を緩ませる。
「花には触るなよ。毒草もあるからな」
ダンジョンの中に咲く毒草は、外のものと比べても強力な毒だ。
ステータスの無い燐では危険だ。
燐は花に触れないように気を付けながらも、近くに寄って眺める。様々な彩の花が咲く姿は、幻想的で可憐だった。
「きれー」
中腰になり、ぼーっと花を眺める。
感嘆の声が思わず漏れる。
「ありがとう!いい目してるわね!」
そしてそれに対し、返答があった。
ぽんっ、という擬音と共に、丸まっていた花のつぼみが開き、中から何かが飛び出した。
「うわっ!」
燐はのけぞり、体勢を崩して尻もちをついた。
「燐!?」
離れたところで燐を見守っていた彼方と凛音も、急に現れた生物に対して臨戦態勢を取る。だが、宙に浮かぶそれの正体を知り、剣を下ろす。
彼女は小さな人型だった。手のひらサイズの少女が背に生やした4枚の薄い羽を震わして宙に浮かんでいた。
「ワタシはアリス!見ての通り、可憐な妖精よ!今起きたの、よろしくね!」
白いワンピースのようなドレスを着た少女が、ぱたぱたと透明な四枚羽をはためかせて、燐に喋りかけていた。
(………きれいだ)
燐はその存在に見惚れたことを自覚する。
その余りに小さな少女は絵画から飛び出てきたと見まがうほど可憐だった。
長い髪は砂金のように煌めき、澄んだ碧眼は汚れを知らない泉のように美しかった。
大きさは燐の手のひらほどだろうか。線の細い身体もステンドガラスのように輝く薄羽も儚く、それゆえに触れがたい美しさを孕んでいた。
「モンスター?」
「妖精だな。珍しいぞ……!何せ、見つけたら幸運になるって言われてるぐらいだ!」
興奮したような彼方の声が答えを出す。
妖精。それは長い間冒険者をしている彼方でさえ、ほとんど見たことのない存在だ。
そして喋る所を見たのは、今日が初めてだった。
妖精とは、ダンジョンが生み出すモンスターだ。だが、普通のモンスターではない。
妖精はダンジョンの管理者だ。ダンジョン内にある冒険者の遺品を片付けたり、通路を塞ぐ障害物を処理し、ダンジョンがダンジョン足りうるような状態を維持している。
人間を襲うことは無く、興味を抱くこともまずない。
そして他のモンスターと決定的に違う点は、不死であることだ。
厳密には不死であることが確認された訳ではないが、死という概念が無い存在ではないか、と学者の間では言われている。
ダンジョンの管理を行う妖精は、基本的には人の目を避けて行動する。だが極稀に、人前に姿を現すことがあった。
そして冒険者たちが、『レアモンスター』を狩ろうとするのは当然の行動であり、ダンジョン誕生初期は、多くの冒険者が妖精を討伐した。
だが、肉体を損傷した妖精は、死体が残ることも塵に変わることも無く、光の粒になって消えたのだ。
そしてしばらく後、同じダンジョンで同じだと思われる固体の存在が確認された。
それに加え、妖精を討伐した冒険者の経験値に妖精の討伐が反映されなかったこと、ドロップアイテムが無いことから、妖精は死なないと言われている。
現在の学説では、妖精はダンジョン生み出した生命体ではあるが、モンスターとは違うダンジョンの末端端末のようなモノではないかと言われている。
人に興味を示さない妖精。それが今、燐の周りを飛び回り、きらきらと鱗粉を蒔いていた。
「よろしくね!」
朝霧を照らす光粒のように輝く軌跡を携えて、彼女は燐の元まで近づいた。そして、その小さな手で、燐の右手の小指を握った。
柔らかな五指が、肌を滑る感触に燐は驚く。
固まった燐に構うことなく、アリスはぶんぶんと手を振った。
そしてパチパチと目を瞬かせた。
「な、何だよ?」
じっと見つめられた燐は、居心地悪そうに瞳を揺らす。
妖精は、答えずに、何度か頷いた。
「うーん、前途多難そうだけど、気に入ったわ!宿木にしましょう!」
少し悩み込んだ妖精アリスは、不穏なことを言い出す。
妖精が何かをしようとしていると感じた燐は、本能で後ろに下がった。
だが遅かった。
「えいっ!」
羽をたたんだ妖精は、光の粒へと身体を変えた。燐は知らないことだが、それは妖精を攻撃した際に見られる消滅現象と似ていた。
それは、正確には消滅ではなく帰還だ。本体であるダンジョンの元へと帰還し、肉体を再構築するための変化だった。今はそれを、燐に向けて使った。
光の速度で妖精は燐の胸元へと飛び込んだ。あまりの速さに彼方も凛音も反応が出来ず、気づいた時には妖精は消えていた。
「燐!?大丈夫か?」
得体の知れない現象に、彼方は狼狽する。
ダンジョンではイレギュラーも発生するとはいえ、今回のはとびきりおかしかった。
燐に何か異変は無いかと、鍛えたステータスを使い探る。
「う、うん、何か身体の中に入ったけど」
燐は胸元を触る。そこに、何かいると燐の感覚は告げていた。
(温かい………)
不快ではなかった。心の奥をほぐすような熱はじわりと燐の表情を溶かした。
「『妖精の宿木』ね。初めて見たわ」
凛音は驚きを押し殺して呟く。
それを聞いた彼方は、あれが噂の、と納得の言葉を漏らす。
燐だけが、事情を理解できていなかった。母の落ち着きから害はないと分かったので、今度は好奇心が勝った。
「ねえ、何なの、それ」
燐の質問に、凛音は困ったように首を傾げた。それは、言い辛いからではなく、言えることがあまりないからだった。
「私もあまり知らないけど、偶に妖精に懐かれる人がいるらしいのよ。体に紋章が現れるらしいけれど、どうなるのかは分からないわ」
燐は胸元を触る。僅かな温かさを感じる。これが紋章なのだろうかと思うが、今は防具を着こんでおり、脱げる状況ではないので後で確認しようと思った。
燐の心から不安は消え、後に残ったのは高揚だった。母の言葉から考えれば、自分が宿した物は、とても貴重で特別なことのようだと分かり、子どもらしい得意げな笑みが漏れた。
そしてそれ以上の期待と喜びが胸を温かく染め上げた。
「後で話せたりするのかな?」
期待を隠し切れない瞳で、燐は凛音に尋ねる。
凛音は解けかけの雪のように儚く微笑んだ。
「ええ。きっとお友達になってくれるわ」
喜ぶ燐を、彼方と凛音は寂し気に見守った。
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