はじめてのだんじょん
校舎を出た燐は、アスファルトの地面を踏みしめて足早に進む。
ほう、と吐いた息は真っ白に曇った。本土よりも温かいこの『星底島』にも、数年に一度の大寒波の影響が及んでいるようだ。
霜で真っ赤になった指先をいたわるようにこすりながら、進んでいく。
燐は一人で家路を急ぎ、特区郊外にある一軒家に帰った。
白い家は周囲の家と比べても大きく、立派だった。
両親が冒険者をしているため、燐は生活に困ったことは無い。
だが家を空けることも多く、甘えたい年頃の燐は久しぶりに両親に会えるということもあり、明るい表情を浮かべていた。
「ただいまー」
鍵を開け、玄関の戸を潜り大きな声で言った。
「おかえりなさい」
凛々しく、女性にしては低めの声が返って来る。
燐の愛する母親の声だ。
だが玄関まで迎えに来た母親の姿は、一般的な家庭の親よりも物騒なものだった。
肌の露出の無い布の防護服の上から白いローブを身に付けて腰元には短剣が見えている。
ダンジョンに潜る冒険者としては一般的な服装だ。だが、並べられた靴や靴箱の上に置かれた人型のお土産に囲まれた玄関では、酷く浮いている。
それもそのはず。燐とその両親はこれからダンジョンに向かうのだから。
燐は玄関に並ぶ靴を見て、首を傾げる。
父親の靴が無いのは、先にダンジョンに行っているから知っていた。
だけど、妹の靴も無かった。
「音々は?」
不思議に思い、母親に尋ねる。
燐はでかける前に、妹に冒険者姿を自慢したいと思っていたのだ。
「まだ学校よ。今日は生徒会の活動があるとか言っていたわ」
燐の二つ下の妹、音々は、母親譲りの聡明さを持つ才女であり、生徒会に属している。
どうやら妹には帰るまで会えそうにないと、燐は小さく肩を落とした。
「燐も着替えてきなさい」
燐の母親、
凛の服装は、小学校の制服だ。ダンジョンに行くには心もとない服装だった。
「分かった!」
燐にはこの日のために両親が用意してくれていた防具があった。
燐は着替えるために急いで二階の自室へと向かっていった。
それを見ていた母親は、微笑ましそうに小さく笑った。
燐は急いで服を脱いで、クローゼットから防具を取り出す。届いてから何度も袖を通したため、新品感はなくなっているが、いよいよこの服を使うのだという燐の気持ちが、笑みとなって零れた。
「いよいよだ……!」
ベルトを締めて、急いで下へと降りる。自分が急げばそれだけ早くダンジョンに行けるという気分が、燐の行動を早めていた。
「行こう!」
玄関前で待っていた母親を、靴すら履かずに急かす。
「緩んでるわ。気を付けなさい」
凛音は、しゃがみ込み、燐の服の留め具を調整する。
そして冒険者用の小さなブーツを取り出し、燐に向ける。
「行きましょう。お父さんは先に行っているから」
「うん!」
□□□
燐が凛音の運転で車に揺られてしばらく後、燐の目には大きな『塔』が目に映った。
高速道路に乗っており、そこらの建物よりは高い場所を走っているとはいえ、その塔は周囲のビルなどよりもよほど高かった。
「あの塔でしょ!」
燐は興奮したように叫ぶ。
「ええ。正確には塔の下だけど、あそこが『特区第一ダンジョン』よ」
くすりと笑い、凛音が答える。
特区第一ダンジョンは、世界で見ても最大規模の海上地底ダンジョンだ。
太平洋上に出現したその巨大ダンジョンは、50年前の『第一次ダンジョン災害』の際に、大きな被害を出した元凶でもあり、日本列島の東側のほぼ全域を襲った。
その教訓を忘れないDMは、海上のダンジョン監視のために科学力とドロップアイテムとスキルの力を活用し、人工島を建設した。
それが科学と魔法とダンジョンで構築された燐の故郷、『迷宮特区』星底島だ。
燐の目に映る巨大な塔は、対ダンジョンの砦であり、封印だ。
DMは巨大な塔を築いてダンジョンを監視している。
ダンジョンの周囲には、冒険者向けの飲食店やアイテムショップなどが多く立ち並び、冒険者通りと呼ばれるほど賑わっている。
凛音は適当な駐車場に車を止めて燐の手を引き、塔の中へと入っていく。そうしなければ、燐がふらふらとどこかに行きかねないからだ。
「燐。ダンジョン内では私とお父さんの言うことをよく聞くこと」
凛音は改めて、燐にダンジョン探索の注意を告げる。
母親の真剣な声音に、燐もまた表情を引き締め、神妙に頷いた。
ダンジョン内では、勝手な行動が自身も仲間も危険に晒す。
燐もそのことはダンジョン動画などで見て知っていたため、勝手なことをするつもりは無かった。
「今日、燐は初めて自分のステータスを知るけれど、思ったようなものでは無いことも覚悟しておきなさい」
「………うん」
少し間を開け、燐は母親の言葉に返事を返す。
その間は、納得できなかったからではなく、不安からのものだ。
燐は自身のステータスを知らない。
それはかなり珍しいことだった。
ステータスを見るのは難しくない。
紙に自分の血を一滴たらし、スライムのドロップ品である【ステータス薬】と呼ばれる液体を一滴たらすだけだ。
スライムはどこのダンジョンにもいる弱いモンスターであり、薬のドロップ率も高いことから一般人の間にも広く出回っている。
今時の子供なら、小さいときに自分のステータスを見ているのは普通のことだった。だが燐は、今まで両親にステータスを見ることを禁止されていた。
燐の初めてのステータス。そこには何が書かれているのか。
燐は怖いと思いながらも楽しみだった。
燐は近づいてきたダンジョンの入り口を見て、どくどくと鳴る心臓の高鳴りを感じて笑った。
だから隣を歩く母親の僅かな自責の感情に気づかなかった。
□□□
「おぉー!燐、似合ってるぞ!」
塔の一階部分、日本迷宮管理機関、通称DMの職員が依頼や収集品の鑑定をするカウンターが存在する大広間に燐の父親、遠廻彼方の声が響いた。だがそれもさらに大きな喧騒に掻き消される。
大広間の端には、ダンジョンへと向かう大エレベーターが存在しており、そこから絶えず人の流れが存在し、大広間は大勢の人間で賑わっている。
燐の父親、彼方は軽装鎧に腰に長剣という、市街地で見かければ不審者のような服装だが、この場では一般的な剣士だった。
「父さん!行こう!」
燐は父親に向かい、すぐに行こうと急かす。
未成年をダンジョンに連れて行くには、DMで複雑な手続きが必要なため、彼方は2人よりも早くダンジョンに来ていた。そのため、すぐにでも潜れるのだが、燐の明け透けな態度に彼方は苦笑を浮かべた。
「おー、そうだなー。じゃあ、行くか!」
「うん!」
最終的に彼方は言いたいことを飲み込んで、燐に合わせてこぶしを突き上げた。
彼方は、見た目は若々しい好青年という風情なのだが、色々と大雑把な男だった。
「燐、きちんと挨拶は死なさい。あなたも、燐を甘やかさないで」
そしてそんな二人を叱るのは、母親の凛音の役目だった。
いつも通りの光景にいつも通りのやり取り。それをして、燐の緊張がほぐれたと思った凛音は、行きましょう、と声を掛けて二人を先導した。
彼方は何故か奪われた主導権に首を傾げていた。
巨大なエレベーターを降りた先に会ったのは、舗装された地面とゲートだった。
地下に行けばすぐにダンジョンだと思っていた燐は、予想外の光景に驚きを露わにする。
「あそこに並ぶんだ」
彼方は、ゲートの列を指し示す。巨大なゲートには光の膜のような物が張られており、そこを冒険者たちが通っていく。
燐たちも、並ぶ冒険者たちに従って、後ろに並んだ。
段々と短くなり、燐の目にはゲートの詳細が見えた。
大きな枠組みだけの門は、機械のようだった。だがその表面には幾何学の文様が描かれている。薄い膜にも、うっすらと文様が浮かんでいた。
「あれは【研究者】が作った『機具』だよ」
彼方の言う【研究者】とは、一般的な研究者のことでは無く、ジョブの【研究者】だ。
彼らはスキルの力を使い、ダンジョンから発見されるマジックアイテムやドロップ品、そして未解明の科学技術を解析し、既存の機械技術と組み合わせて様々な道具を作り出した。
門型の『機具』【チェックシールド31】も、日本のメーカーが製作したステータスチェッカーとシールード生成能力を併せ持つダンジョン管理のための機械だ。
「あの機械に、冒険者証をかざして、ステータスとカード内容が一致するか調べるんだよ。そして、もし大氾濫になったら、結界が作動して、唯一の出入り口を塞ぐんだ」
日本では、迷宮管理省の発行する冒険者証が無ければ、ダンジョンには潜れない。
そう法律で定められている。
門はその法律を冒険者たちに順守させるための重要な機械だった。
「へえ」
だが幼い燐には、そのあたりまで推測することは出来ない。
燐にとっては光の門は、非日常へと誘う扉であり、未知だった。
「先に行くわ」
まず、凛音が台の上に銀色のカードを置く。すると、足元の表示が蒼く光り、凛音は光の膜の向こうへと消えていった。
そして次に彼方が自身のカードを置く。そしてその後、白色のカードを置いた。
それは、仮発行された未成年のダンジョン入場許可証だ。
「いよいよダンジョンだ。準備はいいか?」
父親の言葉で、この光の膜の向こうはダンジョンなのだと、燐は実感する。
僅かな恐怖、そしてそれ以上の高揚感に背中を押されて、燐は大きく頷いた。
「うん、行こう!」
「よし、流石は俺の子だ!」
一足先に彼方は光の膜の向こうへと消えた。
初めの一歩は自分の足で。彼方の粋な計らいだった。
「――――ッ!」
燐は大きく足を踏み出す。
光の膜に触れた感触は、何もなかった。だが目に見えない何かが、光をとおる自身の身体に合わせてしみ込んでくるような感触を感じていた。
だがそれも、燐の右手に触れた途端、体内から弾き出された。
そのことに燐は気づかない。気づけないほど、彼は興奮に囚われていた。
まず最初に燐の視界に映ったのは、柴色がかった岩肌だった。縦横で10メートル以上あるだろうか、想像以上に巨大な洞窟の一端に燐は呆気にとられる。
岩肌には僅かに苔が生し、見たことのない色の蝶が飛んでいた。
遠くから僅かに聞こえる鳴き声は、討伐される獣の歓喜か、それとも断末魔か。
風の流れも地面の質感も、全てが燐の常識に『異常』を叩きつけてくる。
外とはまるで違う景色の広がりは、奥へと続く未知を燐に想像させた。
「………すごい」
本当に感動した時は、語彙を尽くして心の内を表すことなどできないのだと、この時燐は知った。
「ははははは!そうだよな、俺もそんなんだったよ!」
先に入り、燐を待っていた彼方が、自分の過去を振り返って大きく笑う。
そんな父を、凛音は小突いた。
燐の感動を邪魔するな、と視線だけで父親を窘める。
彼方は慌てて口を紡ぐ。そんな二人のやり取りにすら気付かないほど、燐は眼前の光景に見惚れていた。
「じゃあ、奥に行くぞ。入り口近くで止まるのはマナー違反だからな」
燐が背後を見ると、光の膜が光り、奥から冒険者が出てきた。
そして燐たちを迷惑そうに見て、奥へと消えていった。
「な?」
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